周朝 周朝

周朝



  周(しゅう 紀元前1046年ごろ-紀元前256年)は中国古代の王朝。殷を倒して王朝を開いた。また、時代の名前にも使い、「周代」と言えば、紀元前1046年ごろから、遷都して東周となるまでの紀元前771年の間のことをさす。国姓は姫(き))。
  周の伝説上の始祖は后稷と言い、帝舜に仕えて、農政に功績があったという。古公亶父の時代に周の地に定住したと言われている。
  古公亶父には三人の息子があり、上から太伯・虞仲・季歴と言った。季歴の子の昌(後の文王)が誕生する際に様々な祥瑞[1]が起こり、古公亶父は「わが子孫で栄えるのは昌の子孫であろうか」と言っていた。古公亶父が季歴に後を継がせたいと考えていることを知った太伯と虞仲は出奔して、南の荊蛮の地に行き、後に呉の始祖となったと言われる。
  古公亶父の期待通りに昌は後をつぎ、周の勢力を拡大させ、殷より西伯[2]に任ぜられる。文王の時にすでに周は殷を上回る力を備えていたが、文王はあくまで殷の配下の地位に甘んじた。
  文王の息子の武王は弟周公旦・太公望・召公らの助力を借りて暴虐が募る帝辛(紂王)を牧野の戦いで破り、周王朝を建てた。
  西周王朝、この時代、領土は点と点とを結んだもので面領域ではない。よって周王朝の勢力領域を確定するのは困難であるので領域は設定せず、邑名だけ記入した。
成康の治
  しかし武王は建国まもなくして死去する。後を継いだ成王は未だ幼少であり、殷の残存勢力は侮れないものがあった。ここで周公旦が摂政として政治を見ることになった(周公旦が即位したという説もある)。心配されたとおり、殷の遺民たちを治めさせていた武庚禄父と、周公旦の兄弟であるが周公旦が政権を握ることに不満を持つ管叔鮮と蔡叔度が共謀して、乱を起こす(三監の乱)。周公旦は成王の命を受けてこれを鎮圧し、その後7年して成王が成長した後に、周公は一家臣に戻った。
  成長した成王は周公旦・召公を左右に政務に取り組み、東夷を討って勢威を明らかにした。成王の後を継いだのが康王である。康王は召公と畢公を左右にしてよく天下を治めた。成王・康王の時代は天下泰平であり、40年にわたり刑罰を用いることがなかったという。
  その後は徐々に衰退する。
  10代厲王は、周りに分け与えられるべき財を全て独占したために諸侯の間で不満が高まり、最終的には大反乱が起き、厲王は辺境に逃げ出した。王が不在となった後、宰相の共伯和が太子静を擁して政治を行った。後にこの時代のことを共和と呼ぶようになった。現代で共和制というのはこれが由来である。(これには別説があり、大臣が合議制で「共に和して」政治を行ったので共和と言うという説もある。)
  宣王の治世でわずかに周の国勢は回復したが、宣王も後半期には政治に倦むようになったために再び衰退する。
  12代幽王の時代、申から迎えていた皇后を廃し褒姒を皇后としたため、申の怒りを買い、申は犬戎を伴い王都へと攻め込んだ。幽王は殺され、太子は西の携王 (周)と争って打ち勝ち、東の成周(現在の河南省洛陽市付近)へ移った。ここからは東周と呼ばれ、時代区分では春秋時代に移行した。
春秋戦国時代
  春秋時代の周は成周周辺を支配する小国となり、往時とは比べるまでも無い程没落した。それでも権威だけは保持しており、諸侯たちはその権威を利用して諸侯の間の主導権を握ろうとした(春秋五覇)。その僅かな権威も戦国時代に入ると完全に無くなり、各諸侯がそれぞれ「王」を称するようになった。
  その小さな王朝の中でも権力争いは続いており、東西に分裂したり、何度と無く王が殺される事が起きた。最終的には紀元前256年に赧王(延)の時、秦に滅ぼされる。
政治
  周の官制については周の諸制度について周公旦が纏めたとされる『周礼』に非常に詳しい記述があるが、この書物の成立は戦国時代以降と見られているのでこれを以って周の官制を論ずるには無理がある。金文によると周には卿事寮(けいじりょう)・大史寮(たいしりょう)と呼ばれる二つの組織があった。卿事寮の長官は太保・太師の二つがあり、後に太師だけになる。下に司馬(軍事担当)・司土(土地管理担当)・司工の職があり、各諸侯の下にも同じ職があった。大史寮の長官を太史と呼び、歴史の編纂・各種儀礼・祭祀などを行う。
  身分制度については春秋左氏伝によると、王の下に諸侯がおり、その下に大夫(たいふ)と呼ばれる一種の貴族層があり、その下に士と呼ばれる層があり、その下が庶民となっている。ただし大夫と士と言う階級は金文には無い。前述したように取引される対象である一種の奴隷階層があったことは間違いなく、主に主人に代わって農作業を行っていた。この中には職工と思われる職もあり、青銅器の鋳造に関わっていたと考えられる。
  土地制度については井田制が行われていたとされるが、この制度も実際に行われていたかは疑問視する声が多い。
文化
  殷の青銅器文化はその芸術性において最高の評価を与えられている。周も基本的にはその技術を受け継いでいたのだが、芸術性においては簡素化しており、殷代に比べればかなり低い評価となっている。
  この時代の青銅器はほぼ全てが祭祀用であり、実用のものは少ない。器には占卜の結果を鋳込んである。これが金文と呼ばれるもので、この時代の貴重な資料となっている。殷代と比べて周代はこの文が非常に長いものとなっていることに特徴がある。
  またそれまでの絶対的な祖先崇拝が薄められたことも殷と周との違いとして挙げられる。殷では祖先に対する崇拝と畏れが非常に強く、祭祀を怠ったりすればすぐにでも祟られるという考えを持っていた。周の人々も祖先に対する祭祀は行っていたが、祟りと言う考えは薄まり、純粋に敬意を払う象徴としてのものとなっていると言われる。殷では事あるごとに占卜を行い、祖先の祟りではないかなどと言う事を占っていたのだが、周にはそれが少なくなる。そのような理由から殷が残した金文に比べて、周が残した金文の数が少なく、時代が後の周代前期よりむしろ殷代の方が資料が多いと言う状態になっている。
  これらの青銅器に文字を鋳込む技術は王室の独占技術であったようで、諸侯には時に王室から下賜されることがあった。春秋時代に入るときの混乱から技術が諸侯にも伝播して諸侯の間でも青銅器に文字を鋳込むことが行われ始めた。
  建築の分野では周に入ってからそれまでの茅葺きから瓦が一般的になったことがわかっている。


周朝  (公元前1066 —前256)
英文名:The Zhou Dynasty
  周朝享国约800年,为中国历史上最长的朝代,从公元前11世纪中期到公元前256年,共传30代37王。可分为西周和东周两个时期,东周又分为春秋和战国两个时期。西周建都镐京(今陕西西安附近),到公元前771年结束。第二年,周平王迁都洛邑(今河南洛阳),开始了东周的历史。周朝各诸侯国的统治范围包括今黄河、长江流域和东北、华北的大部。
【西周朝】
西周的兴起
  西周(公元前1066 — 公元前771年)从周武王灭商朝建国,到周幽王亡国,共历三百多年,是中华帝国的一个重要时期,也是中华古典文明的全盛时期,他的物质文明和精神文明对后世历史的发展有巨大而很深远的影响。
  先周是活动与中原西部黄土高原的一个古老部落。周人的始祖传说是「帝喾(音「库」kù」元妃「姜嫄」的儿子「弃」。「弃」在「帝舜」时担任农师,号称「后稷」,教民耕稼有功,分封于邰。商朝初年,他的后代「公刘」率族人迁到磁。到古公「亶父」时,又迁到岐山南边的周原(今陕西岐山县)定居下来,逐渐发展成一个新兴的西部势力,自称为「周」。「古公」的幼子「季历」继位后,修行道义,发展生产,驱逐夷狄,力量更为强大,与商发生矛盾。商王「文丁」派人将季历杀死,「季历」的儿子「姬昌」继位。昌号称」西伯」,仁慈爱民,礼贤下士,天下士人都来投奔。周的发展,使商纣感到威胁,于是将西伯昌囚禁于羑里七年。周人以珍宝和美女将西伯赎出,此后,在吕尚的辅佐下,西伯昌表面上耽于游乐,对「殷纣」十分驯服,实际上却更为积善修德,和悦百姓,大力发展生产,使更多的诸侯前来归附,进而征讨不驯服的诸侯和商的盟国,终于三分天下有其二,成为所谓的受命之主,而自称王,即周文王,并将都城迁到丰邑(今陕西长安西南沣水西岸)。九年,周文王逝世。其子姬发继位,称周武王。他继续以吕尚为师,「周公旦」为辅,「召公」、「毕公」等人为主要助手,继续文王未尽的事业。将都城扩至沣水以东的「镐京」(今陕西长安县境),积极作灭商的准备。两年后,武王在盟津召集八百诸侯会师盟誓。周文王受命第十一年十二月,武王兵出潼关,联合各方国诸侯,挥师东向,于次年二月甲子日在牧野打败商朝的军队,杀死殷纣王,史称「武王灭商」,建立了中国历史上最长的一个朝代「周朝」。周朝经历了三十七代天子,八百多年,到公元前二百六年,才被秦国灭掉。公元前770年,平王迁都洛邑(今河南洛阳)。丰镐二京在西,洛邑在东,习惯上称公元前770年以前的周朝为西周,以后的为东周。
  周武王建周后,大封功臣谋士,如将「吕尚」封于「齐」,「周公旦」封于「鲁」,「召公奭」封于「燕」,叔「鲜」封于「管」,叔「度」封于「蔡」。据说,周初总计分封了七十一个诸侯国,其中兄弟之国十五,同姓之国四十。封邦建国的目的,是加强对各地的统治,并作为周王室的屏藩。诸侯再在自己的封地里分封卿大夫,卿大夫又在自己的封地里分封士,这样自上而下统治人民。武王死后,其子「诵」继位,为「成王」。成王年少,天下初定,「周公旦」恐怕诸侯不服,以王叔摄政。「管叔」、「蔡叔」不服,与殷纣之子「武庚」,带领淮夷,发动叛乱。周公毅然率兵东征,平定了叛乱,诛杀了武庚和管叔,放逐了蔡叔,收伏了殷的余民。为了加强对东方的统治,周公奉成王之命负责营建「洛邑」的工作。洛邑建成后,成王亲自来到洛邑王城,大会天下诸侯和四夷君长,并将跟随武庚叛乱的殷遗民迁进「成周」,以便控制。周公还制礼作乐,建立了周朝的各项典章制度和礼乐制度,确立了以宗法制度为中心的政治体制。成王曾亲自讨伐东夷,使东部得以安定。成王死后,继位的康王继承先王的事业,勤于政事,平易近民,刑罚几十年不用,社会更加安定。
  武、成、康三代,政治清明,是周的黄金时代。但到第四代天子「周昭王」时,就出现了危机。当时,王道微缺,「周昭王」贵为天子,南巡汉水时,却被船夫用特制的胶船暗算,葬身于鱼腹之中。「周穆王」继位后,为了恢复周王朝的威望,新设太仆一职,作为太御众仆之长,以加强王朝的中枢管理。他制定刑律,减轻刑罚,以加强对臣民的控制,施善政于天下。他西征犬戎,南摄夷人,对边远民族的侵扰进行积极的防御,制止了掠夺。穆王又曾东平「徐偃王」所率徐夷诸部的反叛,南讨「楚国」,大会诸侯于「涂山」。
  「周穆王」以后,周朝逐渐衰微,「周共王」、「周懿王」、「周孝王」、「周夷王」四代,由于周围戎狭的不断侵扰,王朝陷入长期的战争之中,国力消耗很大,不得不加重对民众的剥削,国内矛盾日益尖锐。有的贵族也开始破产,而表现出对现实的愤懑。
  长期的矛盾逐渐积累,使王朝产生了深刻的危机。在这种情况下继位的「周厉王」,不仅不采取安抚民众、发展民生的措施,反而任用佞臣,大肆挥霍,连年对外征战,变本加厉地剥夺,垄断山泽之利,引起民众的不满和议论。他就派巫师监视,杀死议论的人,使矛盾更为尖锐。三年以后,愤怒的镐京居民终于发起暴动,将「厉王」流放到「彘(音「至」zhi」,由「周公」和「召公」共同执掌政权,历史上称为「周召共和」。 共和元年即公元前841年,中国历史从这一年开始有了明确而且连续不断的纪年。「周厉王」死后,他的儿子「宣王」整顿朝政,曾经使周王朝有所复兴。但到第十二代天子周幽王时,王朝的危机更为严重。关中地区发生地震、山崩和河水枯竭等严重自然灾害,周幽王不仅不抚恤灾民,反而更加奢侈腐化,贪得无厌。为了博得宠妃「褒姒」一笑,幽王举烽火欺骗诸侯前来勤王。最严重的问题是,幽王决定废去王后申氏,杀掉太子「宜臼」,另立「褒姒」为王后,立褒姒的儿子「伯服」为太子。「申」后的父亲申侯于是联合西方部族犬戎,举兵攻打周幽王,在骊山下杀死幽王,据走褒姒。幽王的儿子「宜臼」即位时,关中遭受兵火洗劫,残破不堪,犬戎又不时前来骚扰。「周平王」宜臼只得将都城迁到洛邑,史称「平王东迁」,东周开始。
西周主要诸侯国
  周武王姬发分封姬姓宗室子弟和功臣为列国诸侯,为五等:公、侯、伯、子、男,其不及五等者为附庸。其中姬姓子孙的封国最多,有53个,这就是中国封诸侯建同姓的“封建”的由来。
  分封的列国诸侯中著名的有:
  鲁国---姬姓,侯爵。系周文王姬昌第四子周公姬旦,佐文王、武王、成王有功,乃封其长子伯禽于曲阜,以辅周室。
  齐国---姜姓,侯爵。系炎帝裔孙伯益封地,今山东青州府。
  燕国---姬姓,伯爵。系周同姓功臣,曰君奭。封国地为今幽州蓟县。
  魏国---姬姓,伯爵。系周同姓功臣,曰毕公高。封国地为今河南开封府高密县。
  管国---姬姓,侯爵。系武王弟,曰姬叔鲜。封国地为今河南信阳县。
  蔡国---姬姓,侯爵。系武王弟,曰姬叔度。封国地为今河南汝宁府上蔡县。
  曹国---姬姓,伯爵。系武王弟,曰姬叔振铎。封国地为今济阳定陶县。
  成国---姬姓,伯爵。系武王弟,曰姬叔武。封国地为今山东兖州府汶上县。
  霍国---姬姓,伯爵。系武王弟,曰姬叔处。封国地为今山西平阳府。
  卫国---姬姓,侯爵。系王同母少弟,为康叔。封国地为今北京冀州。
  滕国---姬姓,侯爵。系武王弟,曰姬叔绣。封国地为今山东章丘县。
  晋国---姬姓,侯爵。系武王少子,曰姬唐叔虞。封于唐,后改为晋。封国地为今山西平阳府绛县东翼城。
  吴国---姬姓,子爵。系周太王长子姬泰伯之后。封国地为今吴郡。
  虞国---姬姓,公爵。系周太王次子姬仲雍之后。曰姬章已,为吴君,别封其为虞。封国地为今河东太阳县。
  虢国---姬姓,公爵。系王季子虢仲,文王之弟。封国地为今陕县东南之虢城。
  楚国---芈姓,子爵。系玄帝姬颛顼后裔。封国地为今丹阳南郡枝江。
  许国---姜姓,男爵。系伯夷之后,曰文叔。封国地为今许州。
  秦国---嬴姓,伯爵。系玄帝姬颛顼后裔。封国地为今陕西西安。
  莒国---嬴姓,子爵。系少昊之后。封国地为今莒县。
  纪国---姜姓,侯爵。系太公次子。封国地为今寿光市。
  邾国---曹姓,子爵。系陆终第五子晏安之后。封国地为今山东邹县。
  宋国---子姓,公爵。系商王帝乙之长庶子,曰微子启。封国地为今睢阳县。
  杞国---姒姓,伯爵。系夏禹王之后。封国地为今开封府雍丘县。
  陈国---妫姓,侯爵。系帝舜之后。封国地为今陈县。
  蓟国---姬姓,侯爵。系帝尧之后裔。封国地为今北京顺天府。
西周王系
西周朝:(公元前1106年—公元前770年)
周文王: 在位51年,文王姬昌,父名季。姬昌即位后曾一度被商王所泅,后被释放。他礼贤下士,有姜子牙等名辰辅佐,为以后灭商打下基础。据传文王死时97岁。
周武王:在位5年,武王姬发,父姬昌。即位后大举伐商,并于牧野,大败商军,纣王自焚,商亡。武王建都于镐京。史称西周。武王死时54岁。
周成王:在位30年,成王姬诵,武王子,即位时12岁。由周公旦摄政。之中,平定武更(纣王子)叛乱,并大封诸侯。成王造东都洛邑。成王死时42岁。
周康王:在位25年,康王姬钊,成王子。康王是一位有作为的周王,史称“成康盛世”。康王时,周朝较强盛。
周昭王:在位19年,昭王姬瑕,康王子。“昭王之时,王道微缺”,周国力开始下降,昭王南巡死于楚。
周穆王:在位55年,穆王姬满,昭王子。穆王时作《吕刑》,是流传下来的我国最早的法典。穆王是西周在位时间最长的周王。
周共王:在位23年,共王姬伊扈,穆王子。
周懿王:在位8年,懿王姬囏,共王子。懿王时,周室衰弱,外族入侵已无力抵抗。
周孝王:在位6年,孝王姬辟方,穆王的儿子,共王的弟弟。
周夷王:在位8年,夷王姬燮,周懿王的儿子。夷王时,周天子与诸侯的矛盾尖锐化,夷王曾烹杀齐哀公。
周厉王:在位37年,厉王姬胡,夷王的儿子。厉王是一位暴君,对外战争屡败,国势日危,后被国人放逐。
周召共和:执政14年,周,召共和是指周定公与召穆公共同执政。此二人均为宗周的大贵族。
周宣王:在位46年宣王姬静,厉王的儿子。即位后针对周王室的内忧外患,进行改革。取得成功,史称“宣王中兴”。
周幽王:在位11年,(前781-前771)。
【东周朝】
  公元前771年,犬戎杀幽王,灭西周。第二年(前770年),周幽王太子宣臼由镐京迁都于洛邑(今河南洛阳),史称东迁后之周王朝为东周。周赧王59年(前256年),东周为秦所灭,共传25王,历时515年。东周自公元前770年(周平王元年)至公元前476年(周敬王四十四年)之段历史时期,史称之为“春秋时期”,自公元前475年(周元王元年)至公元前221年(秦王政二十六年)秦始皇统一全国,则被称为“战国时期”。
(1)东周春秋时期:
  公元前770年至公元前476年的春秋时期,那时一些较大的诸侯国,为了争夺土地、人口以及对其他诸侯国的支配权,不断进行兼并战争。谁战胜了,谁就召开诸侯国会议,强迫大家公认他的“霸主”地位。 先后起来争当霸主的有:齐桓公、宋襄公、晋文公、秦穆公、楚庄王。历史上把他们称为“春秋五霸”。
  在诸侯争霸的过程中,大国兼并小国,诸侯国数目逐渐减少,华夏族和其他各族接触频繁,促进了民族融合。春秋末年,长江下游和钱塘江流域的吴国和越国,也参加了争霸战争。起初,吴国打败了越国,强迫越国臣服。越王勾践天天舔尝苦胆,立志报仇。他注意增加生产,训练士兵,积聚力量。经过长期努力,越国终于重新强盛起来,最后灭掉了吴国。 春秋时期,铁器已经在农业、手工业生产中使用。农业生产中使用铁锄、铁斧等。铁器坚硬、锋利,胜过木石和青铜工具。铁的使用,标志着社会生产力的显著提高。那时,也开始用牛耕地。耕作技术提高了,农业生产进一步发展起来。一些贵族把公田化为私田,逐渐采取了新的剥削方式,让种田的劳动者交出大部分产品,保留一部分产品。
(2)东周战国时期:
  公元前475年至公元前221年,是中国的战国时期,经过春秋长期激烈的争霸战争,到战国开始,主要的诸侯国有齐、楚、燕、韩、赵、魏、秦等七国,历史上称之为“战国七雄”。
  东周时期,以农田灌溉为重点的水利建设高潮逐渐兴起。水利工程有多种类型,如陂塘蓄水、灌溉分洪、渠系灌溉以及多首制引水等。东周的建筑技术已有很高的水平。著名的鲁班,即鲁国人公输般,是土木工匠中的杰出代表,后人尊称为祖师。考古发掘所见东周的建筑遗迹,多为宫殿遗址,出土的建筑构件以瓦当最为常见,还有青铜斗拱、青铜饰件和青铜屋模型等。由此可以想见东周宫殿建筑的宏伟壮观。东周时期,大国争霸,战乱频繁。各诸侯国为其政治、军事和经济的需要,在商、西周交通干线的基础上,不遗余力地将道路扩展到更为遥远险绝的地方,因而在客观上促进了交通的发展。东周的丝绸西传路线甚至横贯欧亚大陆。当时马车的使用已很普遍。这时,天子直辖的“王畿”,在戎狄不断袭扰和诸侯不断蚕食下,大大缩小了,最后,仅剩下成周方圆一二百里,即今河南西部一隅的地盘;同时,天子控制诸侯的权力和直接拥有的军事力量,也日益丧失。天子不仅经济上有求于诸侯,政治上也往往受诸侯的摆布。但天子以“共主”的名义,仍然具有号召力。因此,一些随着地方经济发展逐步强大的诸侯国,就利用王室这个旗号,“挟天子以令诸侯”,积极发展自己势力。
东周王系
  东周朝:(公元前771年—公元前256年)
周平王:(姬臼),在位51年,(公元前770—公元前719年)。
周桓王:(姬林),在位23年,(公元前719—公元前696年)。
周庄王:(姬佗),在位15年,(公元前696—公元前681年)。
周釐王:(姬胡齐),在位5年,(公元前681—公元前676年)。
周惠王:(姬阆),在位25年,(公元前676—公元前651年)。
[font color=#000000] [/font]周襄王:(姬郑),在位33年,(公元前651—公元前618年)。
周顷王:(姬壬臣),在位6年,(公元前618—公元前612年)。
周匡王:(姬班),在位6年,(公元前612—公元前606年)。
周定王:(姬瑜),在位21年,(公元前606—公元前585年)。
周简王:(姬夷),在位14年,(公元前585—公元前571年)。
周灵王:(姬泄心),在位27年,(公元前571—公元前544年)。
周景王:(姬贵),在位25年,(公元前544—公元前520年)。
周悼王:(姬猛),在位1年,(公元前520—公元前519年)。
周敬王:(姬匄),在位44年,(公元前519—公元前475年)。
周元王:(姬仁),在位7年,(公元前475—公元前468年)。
周贞定王:(姬介),在位28年,(公元前468—公元前441年)。
周哀王:(姬去疾),在位1年,(公元前441—公元前441年)。
周思王:(姬叔),在位1年,(公元前441—公元前440年)。
周考王:(姬嵬),在位15年,(公元前440—公元前425年)。
周威烈王:(姬午),在位24年,(公元前425—公元前401年)。
周安王:(姬骄),在位26年,(公元前401—公元前375年)。
周烈王:(姬喜),在位7年,(公元前375—公元前368年)。
周显王:(姬扁),在位48年,(公元前368—公元前320年)。
周慎靓王:(姬定),在位6年,(公元前320—公元前314年)。
周赧王:(姬延),在位59年,(公元前314—公元前256年)。
政治制度
  周灭商后,国王大搞分封,把王族与功臣分封到国家各个地方,建立起众多诸侯国,数量超过百个。通过宗法制和封建制,又建立起一个以周“天子”为中心,各个诸侯国围绕的封建王朝,同时建立起一套无孔不入的礼乐制度,形成了一个有秩序的封建国家。西周的官制,更为繁杂。周王左右的辅佐为太师、太傅、太保,合称三公。三公之下有三事官(政务官、事务官和地方官)、四方(诸侯和方国、部族)和卿事寮。王朝官员为:总揽朝政的太宰、掌祭祠礼仪的太宗、掌历法记事的太史、掌祈祷的太祝、掌神事的人工、掌占卜的人卜,合称六卿,六卿的僚属,总称为卿事寮。王朝还有掌土地和农人的司徒、掌百工职事的司空、掌军赋军政的司马、掌版籍爵禄的司士、掌刑罚的司寇,合称五官。为王室服务的内廷事务官,有三公之佐的三少(少师、少傅、少保),有道、辅、弼、承四辅,有膳夫、缀衣、小臣、寺人、内竖、阍者、门尹、司王宥、火师、水师、大酋、太仆、御、右、萃车、趣马、师氏、虎资、舆人、医、艺人、隶人、太子宫尹等。在王畿外服的封国,称为四方,包括侯、甸、男等诸侯。王朝有时派使臣到诸侯国任监国。诸侯在自己的封国内仿照王室设置百官有司,成为相对独立的政权,主要有三事官,即司徒、司马、司空,分掌政务、司法和民事。周的各级主要官吏,都是在宗法制度基础上世袭,而且文武不分,平时治民,战时就是各级将领。周朝的地方制度,有国、都、邑、野、鄙。周王和诸侯的都城为国,诸侯国中的大城为都,小城为邑,此外的地方称为野或鄙。
经济技术
  西周时,锋利的青铜农具得到较普遍的使用,进行了规模较大的垦殖和耕耘;原来的抛荒制被休耕制代替,土地利用率提高;沤治和施用绿肥,以火烧法防治病虫害,标志了田间管理的新水平。西周实施了比较完善的土地耕种制度即“井田制”,王朝中担任司稼的官员必须熟悉作物的不同品种及其适应地区,从而更好地指导农业生产。农作物品种增加,谷类有黍、稷、粟、禾、谷、梁、麦、稻等,豆类有菽,任菽、藿等,麻类有麻、苴、苎等。王朝特设场人,专管园圃,从事蔬菜、瓜果的生产。这样,为封建制度的最终确立提供了基础。
  西周比较重要的手工业都由王室和诸侯控制,众多的百工在司空的领导下负责管理各项手工业,其中最重要的仍然是青铜铸造业。其分布地区很广,生产能力扩大,效率和水平提高,铸造工艺改进。发明了一模翻制数范和焊接的技术。陶器业已逐渐采用快轮法,产品走向规格化。原始瓷片的烧成温度已达一千二百度以上,胎质更为细腻,施以青、黄绿二色釉,矿物组成已接近瓷器。能够生产石灰石──硅石琉璃。漆器制作逐渐普遍,器表夹苎,施以红、黑两种彩绘,颜色鲜艳,花纹精美。家蚕的饲养十分普遍,纺织成为农家的一项重要副业。丝织物有斜纹提花织品和刺绣品。已经掌握池水沤麻的微生物脱胶法,以便将纤维分离出来。
  西周时,商业已成为社会经济不可缺少的部门,由官府独裁,设有“质人之官”作为市场的管理者,限制私人从商。商贸的品种有作物、牛马、用具、珍异和兵器等,甚至掠卖奴婢。西周的货币除贝以外,已开始使用铜币。
科学文化
  中华科学、思想文化的源泉是《易》。作为儒家六经之一的《易经》,最早提出「天文」的定义。《周易》虽然成书于战国时期,但他表达的确实是周代型成的天命思想。《易》说:「观乎天文,以察时变,」《易.系辞》说:「天垂象,见吉凶,圣人象之。》等等,西周萌生的阴阳思想,对中国天文学的发展有着重要的影响。《周易》有很长的形成和发展过程。被后人称为河图、洛书的东西,是烧灼卜骨的表现,是远古先民在长期生活和占卜的实践中感悟出的理性思维和形象思维互相串连、互相渗透的反映。相传伏羲氏将其归纳总结,对蓍草反复排列,而画为八卦,将天地间万物的现象都包括于其中,这是原始的易。后来,据说经过周文王的悉心钻研,将其规范化、条理化,演绎成六十四卦和三百八十四爻,有了卦辞、爻辞,人称《周易》。它以简单的图像和数字,以阴和阳的对立变化,来阐述纷纭繁复的社会现象,显示成千上万直至无穷的数字,具有以少示多,以简示繁,充满变化的特点。其所以称为「易」,郑玄解释有三义:一是简,二是变易,三是不易。就是讲万物之理有变有不变,现象在不断变化,而一些最基本的原则又具不会变的,这就从客观世界的辩证发展中抽象出了理论上十分丰富的朴素的辩证法。旧说到春秋后期,孔子对《周易》进行解释和论说,完成十翼,即《易传》,《周易》发展成为一部内容博大精深的阐述宇宙变化的哲学著作,对中华文化的发展产生巨大而深远的影响。
  周代的另一种完善的文化就是礼乐文化,周礼非常繁缛,据《周礼》有吉、凶、军、宾、嘉五礼,乐在西周很重视,有专门职官管理,金文中也记有乐官。周代乐舞如《大武》为周武王克商所作。周代的已有比较完善教育制度,如“礼”“乐”“射”“御”“书”“数”六艺就是周代贵族的文化教育内容,中国最早的经典如《周易》、《尚书》、《诗经》、《周礼》、《乐经》(已佚)、《春秋》都产生这个时期,以及春秋时期的诸子学说等。
二、北周
(公元557年—公元581年)
  中国历史上代西魏而立的朝代。北朝王朝之一。为区别周朝历史学家把这段时期叫“北周”。宇文觉创建。后为隋所灭。西魏恭帝三年(556 ),实际掌握西魏政权的宇文泰死,遗命宇文护掌管国家大政。因宇文护想早日夺取政权,即迫使西魏恭帝禅位。次年,宇文泰之子宇文觉(孝闵帝)建立北周,都长安(今西安)。577年,北周灭北齐,统一北方。581年,杨坚簒北周,取代周静帝,建立隋朝。
  北周的法律制度,北周代西魏后,沿用西魏的《大统式》至周武帝时,仿《尚书·大浩》制定了《大律》。
三、武周
  唐载初元年九月(690年—705 年)是武则天在位时间,自号“圣母神皇”的武则天——中国历史是唯一的女皇帝,革“唐”命,改国号为“周”,为了与周朝区别,史称“武周”、“南周”。
  武则天从参与朝政,自称皇帝,到病移上阳宫,前后执政近半个世纪,上承“贞观之治”,下启“开元盛世”,历史功绩,昭昭于世。诚如宋庆龄对她的诚恳评价:武则天是“封建时代杰出的女政治家”。
四、后周
公元951年-960年)
  五代时由后周太祖郭威所建,历经周世宗柴荣、恭帝柴宗训三帝,为了与周朝相区分,故史学界称之为后周。后周于960年为赵匡胤所灭,其事件即著名的“黄袍加身”、“陈桥兵变”。
五、周政权
  吴三桂反叛清政权而建立的割据政权。
  清廷于康熙十二年(1673年)下令撤藩。吴三桂闻讯后叛清。自称周王、总统天下水陆大元帅、兴明讨虏大将军,发布檄文,联合平南王世子尚之信、靖南王耿精忠及广西将军孙延龄、陕西提督王辅臣等以反清复明为号召起兵反清,挥军入桂、川、湘、闽、粤诸省,战乱波及赣、陕、甘等省,史称三藩之乱。清政府调重兵全力镇压叛乱,逐渐扭转了战局,康熙十七年(1678年),吴三桂在湖南衡州称帝,国号大周,建元昭武。同年秋在长沙病死。其孙吴世璠继位,退据云南。康熙二十年(1681年)昆明被围,吴世璠自杀,余众出降。吴三桂的子孙后代被彻底杀光。包括襁褓中的婴儿。《清史稿》有吴三桂本传。