元朝 元朝

元朝



元(げん)は、元朝(げんちょう)ともいい、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心とした領域を支配し、その後は北へ逃れ、遊牧政権としては最終的には1635年まで存続したモンゴル人王朝であり、モンゴル帝国の大ハーン直轄世襲領である。正式の国号は大元(だいげん)。
概要
中国王朝としての元は、北宋崩壊以来の中国統一政権であり、元の北走後は明が中国統治を引き継ぐ。ただし、後述するように、元は制度や政治運営の特徴において、モンゴル帝国に受け継がれた遊牧国家特有の性格が強く、用語上でモンゴル帝国が伝統的な中国王朝の類型に変化したものであるというような誤解を避けるために、遊牧民の国を指すウルスという語を用いて特に大元ウルスと呼ぶべきであるとする意見もある。
元は、1260年、チンギス・ハーンの孫でモンゴル帝国の第5代大ハーンに即位したクビライ(クビライ)が、1271年にモンゴル帝国の国号を大元と改めたことにより成立し、モンゴル語ではダイオン・イェケ・モンゴル・ウルス (Dai-ön Yeke Mongγol Ulus) すなわち「大元大蒙古国」と称した[1]。つまり、1271年の元の成立は従来のモンゴル帝国の国号「イェケ・モンゴル・ウルス」を改称したに過ぎないとも解せるから、元とはすなわちクビライ以降のモンゴル帝国の大ハーン政権のことである[2]。国号である「大元」もこれでひと続きの国家の名称として完結したものであったと考えられるが、中国王朝史において唐や宋など国号を一字で呼ぶ原則から、慣例としてこのクビライ家の王朝も単に「元」と略称される。例えば中国史の観念では元朝とはクビライから遡って改称以前のチンギス・ハーンに始まる王朝であるとされ、元とはモンゴル帝国の中国王朝としての名称ととらえられることも多い。
クビライが大ハーンの位につく過程において、兄弟のアリクブケと帝位を争って内戦に至り、これを武力によって打倒して単独の帝位を獲得すると言う、父祖チンギスの興業以来の混乱を招いた上での即位であった。このため、それまで曲がりなりにもクリルタイによる全会一致をもって選出されていたモンゴル皇帝位継承の慣例が破られ、モンゴル帝国内部の不和が互いに武力に訴えることで対立が顕在化することになった。特に、元の国号が採用された前後に中央アジアでオゴデイ家(オゴタイ)のカイドゥがクビライの宗主権を認めず、チャガタイ家の一部などのクビライの統治に不満を抱くモンゴル王族たちを味方につけてイリからアムダリヤ川方面までを接収し、ペルシア語の歴史書などでは当時「カイドゥの王国」(mamlakat-i Qāīdū'ī)と呼ばれたように自立した勢力が誕生した。帝国の地理的中央部に出現したその勢力を鎮圧するために、クビライは武力鎮圧するべく大軍をいくどか派遣したが、その都度に派遣軍自体が離叛する事件が続き、西方のジョチ・ウルスやフレグ家のイルハン朝を巻き込み、この混乱はクビライの死後1301年にカイドゥが戦死するまで続いた。かくしてハーンのモンゴル帝国全体に対する統率力は減退して従来の帝国全体の直接統治は不可能になり、ハーンの権威が大きな変容を遂げ、モンゴル帝国は再編に向かった。こうして成立した元は、モンゴル帝国のうちクビライの子孫である大ハーンの直接の支配が及ぶ領域に事実上の支配を限定された国家となり、その実態は緩やかな連合となったモンゴル帝国のうちの、中国とモンゴル高原を主として支配するクビライ家の世襲領(ウルス)にあたる。
一方、北宋以来、数百年振りに中国の南北を統一する巨大政権が成立したため、文化的には北中国と南中国でそれぞれ醸成された文化が融合が見られる。また、チンギス・カン時代に華北を領土として以来、各地の農耕地や鉱山などの開発が積極的に進められてきたため、元朝に入って獲得された雲南や江南などでも農耕地や鉱山、塩田などの開発も増強されている。さらに元々モンゴル帝国は傘下に天山ウイグル王国やケレイト王国、オングト王国などのテュルク系やホラーサーンやマーワラーアンナフルなどのイラン系のムスリムたちを吸収しながら形成されていった政権であるため、これらの政権内外で活躍していた人々がモンゴル帝国に組み込まれた中国の諸地域に流入し、西方からウイグル系やチベット系の仏教文化やケレイト部族やオングト部族などが信仰していたネストリウス派などのキリスト教、イラン系のイスラームの文化などもまた、首都の大都や泉州など各地に形成されたそれぞれのコミュニティーを中核に大量に流入した。
モンゴル政権では、モンゴル王侯によって自ら信奉する宗教諸勢力への多大な寄進が行われており、仏教や道教、孔子廟などの儒教など中国各地の宗教施設の建立、また寄進などに関わる碑文の建碑が行われた。モンゴル王侯や各種の開発で巨利を得た大商人たちは、各地の宗教施設に多大な寄進を行い、経典の編集や再版刻など文化事業にも資金を投入されている。大元朝時代には金代や宋代に形成された経典学研究が促進され、それらに基づいた類書などが大量に出版された。南宋末期から元朝初期の『事林広記』や元朝末期『南村輟耕録』などがこれにあたる。朱子学の研究も集成され、当時の「漢人」と呼ばれた漢字文化を母体とする人々は、金代などからの伝統として道教・仏教・儒教の三道に通暁することが必須とされるようになった。鎌倉時代後期に大元朝から日本へ渡来した仏僧一山一寧もこれらの学統に属する。
14世紀末に明朝によって大元朝のモンゴル勢力はゴビ砂漠以南を放棄して北方へ追いやられたが(北元)、明朝の始祖洪武帝(朱元璋)や紅巾の乱を引き起こした白蓮教教団がモンゴル王族などから後援を受けていた仏教教団を母体としていることに象徴しているように、その後の明朝の政権や文化も大元朝の強い影響を受けていたことが近年指摘されている。
歴史
クビライ登位以前についてはモンゴル帝国の項を参照せよ。
モンゴル帝国の再編
1259年、第4代大ハーンモンケが南宋遠征中に病死したとき、モンゴル高原にある当時の首都カラコルムの留守を預かっていた末弟アリクブケ(アリクブカ)は、モンケ派の王族を集めてクリルタイを開き、西部のチャガタイ家ら諸王家の支持を取り付けて大ハーン位に就こうとしていた。これに対し、モンケと共に南宋へ遠征を行っていた次弟クビライは、閏11月に軍を引き上げて内モンゴルに入り、東方三王家(チンギス・ハーンの弟の家系)などの東部諸王の支持を得て、翌年の3月に自身の本拠地である内モンゴルの開平府(のちの上都)でクリルタイを開き、大ハーン位に就いた。アリクブケは一月遅れて大ハーンとなり、モンゴル帝国には南北にふたりの大ハーンが並存し、モンゴル帝国史上初めて大ハーン位を武力争奪する事態となった。この時点では、モンケの葬儀を取り仕切り、帝都カラコルムで即位したアリクブケが正当な大ハーンであった。カラコルムにも戻らず、帝国全土の王侯貴族の支持も無く、勝手に大ハーンを称したクビライは、この時点ではクーデター政権であった。
クビライとアリクブケの両軍は何度と無く激突するが、カラコルムは中国からの物資に依存していたために、中国を抑えたクビライ派に対してアリクブケ派は圧倒的な補給能力の差をつけられ、劣勢を余儀なくされた。緒戦の1261年のシムトノールの会戦ではクビライが勝利するが、アリクブケは北西モンゴルのオイラトの支援を受けて抵抗を続けた。しかし、最終的はアリクブケの劣勢と混迷をみてチャガタイ家などの西部諸王がアリクブケから離反し、1264年、アリクブケはクビライに降伏した。この一連の争乱を、勝利者クビライを正統とする立場から、アリクブケの乱という。
アリクブケの降伏により大ハーンの位は再び統合されたが、西の中央アジア方面では、アリクブケの乱がもたらした混乱が大ハーンの権威に決定的な打撃を与えていた。1265年、クビライは西方の諸王家の当主たちに呼び掛けて統一クリルタイを開催を計画したが、程なく西方遠征軍の司令でイルハン朝の始祖となった次弟フレグ、ジョチ・ウルス当主ベルケ、クビライを支持していたチャガタイ家の当主アルグが次々と逝去し、この統一クリルタイによって自身の全モンゴル帝国規模の正式なモンゴル皇帝位の承認を目論んでいたクビライの計画は、大きく頓挫した。
1266年、クビライはアルグの死による欠を補いチャガタイ家と中央アジアの動向を掌握するため、チャガタイ家の傍流バラクをチャガタイ家の本領であるイリ方面へ派遣した。しかし、バラクはクビライから共同統治を指示されていたにも関わらず、クビライの命と称してをチャガタイ家新当主ムバーラク・シャーから権力を奪い取り、自ら新当主を宣言してクビライに叛乱を起こした。バラクはカイドゥの領土を侵犯しマーワラーアンナフルへ侵攻する構えを見せ、カイドゥはこれに対抗するためジョチ・ウルスへ救援を求めた。これに応えてジョチ・ウルス東方の総帥であるオルダ家の当主コニチは5万の軍勢を率いて加勢し、バラクは敗走したが、バラクは中央アジアの権益についての合議をカイドゥ、ジョチ・ウルス新当主モンケ・テムルへ申し入れた。1269年、中央アジアを支配するチャガタイ家のバラクとオゴデイ家のカイドゥ、そしてジョチ家当主モンケ・テムルの名代(ベルケの同母弟ベルケチェル)の諸王がタラス河畔で会盟し、中央アジアの大ハーン領の争奪を止め、このうち、マーワラーアンナフルの三分の二をバラクに、残り三分の一をジョチ家とカイドゥで折半することが決まった。
なお、この分割で大ハーン・クビライに対してジョチ、チャガタイ、オゴデイの三王家が自立の態度を明確にしたと従来言われていたが、三王家が一致してクビライに反抗した訳でも、カイドゥが大ハーンに即位したという記録もある訳ではない。『集史』などの記録から、この「タラス会盟」は王家同士の紛争に対する緊急避難的な領土分割協定であったと現在では考えられている。やがてオゴデイ家のカイドゥがクビライの統制に嫌って西方へ逃れて来た王族たちを匿う形になり、中央アジア諸王の間で盟主としての地位を確立し、カイドゥの反抗はモンゴル帝国中央部と東部を分ける抗争へと発展する(カイドゥの乱)。
1270年、バラクはイルハン朝のアバカとの会戦に大敗してブハラで客死し、アバカとのマーワーアンナフル争奪に敗れカイドゥとの紛争にも敗れたチャガタイ家の王族たちは、ムバーラク・シャーはアバカのもとへ帰順してアフガニスタンのガズニーを所領として分与され、バラクの子ドゥアはカイドゥに応じて中央アジアのチャガタイ家当主となり、アルグの遺児チュベイらの一門は東方へ赴いてクビライに帰順した。クビライは南宋がバヤンに降服した1267年、第4皇子ノムガンを主将とするカイドゥ討伐軍を中央アジアへ派遣し、同時にアバカにも正式な封冊によって「カアンの代官(ダルガ)」の称号を与えてカイドゥを挟撃する作戦に出た。ところが、ノムガンの遠征軍は、アルマリクで遠征軍に参加していたモンケの子シリギらに叛乱を起こされ、ノムガンは副将アントンや同じく第9皇子ココチュらともども捕縛されてしまった。シリギら叛乱王族たちはカイドゥやモンケ・テムルに共に決起するよう呼び掛けたノムガンとココチュ兄弟をモンケ・テムルヘアントンをカイドゥへ人質として送ったが、両者はノムガンらを保護したものの決起には全くに応じなかった。クビライは南宋戦線からバヤンをカラコルムへ転戦させると、反乱軍は速やかに鎮圧されてしまった。反乱軍に加わっていたアリク・ブケ家のヨブクルやメリク・テムルはクビライからの処罰を恐れてカイドゥのもとに逃れた。こうしてシリギの叛乱は収束したが、クビライによる中央アジア直接支配の計画は二度に渡り頓挫し、代わりに、カイドゥは自らの所領に加え、ドゥアの西部のチャガタイ家領、アルタイ方面にあったアリクブケ家の三つのウルスを勢力下に収めることが出来た。(シリギの乱)
その間、クビライは、政治機関として中書省を設置し、カラコルムにかわる新都として中国北部に大都(現在の北京)を造営、地方ではモンゴル帝国の金攻略の過程で自立してモンゴルに帰附し、華北の各地で在地支配を行ってきた漢人世侯と呼ばれる在地軍閥と中央政府、モンゴル貴族の錯綜した支配関係を整理して各路に総管府を置くなど、中国支配に適合した新国家体制の建設に着々と邁進し、1271年に国号を大元とした。モンゴル帝国西部に対する大ハーン直轄支配の消滅と、中国に軸足を置いた新しい大ハーン政権、大元の成立をもってモンゴル帝国の緩やかな連合への再編がさらに進んだ。
中国の統一支配
しかし、当時のクビライはいまだ金を滅ぼして領有した華北を保有するだけで、中国全体の支配は未だ不完全であり、南宋の治下で発展した江南(長江下流域南岸)の富は、クビライの新国家建設には欠かせざるものであった。かくて、クビライは即位以来、南宋の攻略を最優先の政策として押し進め、1268年漢水の要衝襄陽の攻囲戦を開始する。
クビライは、皇后チャブイに仕える用人であった中央アジア出身の商人アフマドを財務長官に抜擢して増収をはかり、南宋攻略の準備を進める一方で、既に服属していた高麗を通じ、南宋と通商していた日本にもモンゴルへの服属を求めた。しかし、日本の鎌倉幕府はこれを拒否したため、クビライは南宋と日本が連合して元に立ち向かうをの防ぐため、1274年にモンゴル(元)と高麗の連合軍を編成して日本へ送るが、対馬、壱岐島、九州の太宰府周辺を席巻しただけに終わった(文永の役)。日本遠征は失敗に終わったが、その準備を通じて遠征準備のために設けた出先機関の征東行省と高麗政府が一体化し、新服の属国であった高麗は元の朝廷と緊密な関係を結ぶことになる。
1273年になると襄陽守備軍の降伏により南宋の防衛システムは崩壊する。元は兵士が各城市で略奪、暴行を働くのを厳しく禁止するとともに、降伏した敵の将軍を厚遇する等して南宋の降軍を自軍に組み込んでいったため、各地の都市は次々とモンゴルに降った。1274年旧南宋の降軍を含めた大兵力で攻勢に出ると防衛システムの崩壊した南宋はもはや抵抗らしい抵抗も出来ず、1276年に首都臨安(杭州)が無血開城する。恭帝をはじめとした南宋の皇族は北に連行されたが、丁重に扱われた。その後海上へ逃亡した南宋の遺民を1279年の涯山の戦いで滅ぼし、北宋崩壊以来150年ぶりとなる中国統一を果たした。クビライは豊かな旧南宋領の富を大都に集積し、その利潤を国家に吸い上げることのできるよう、後に詳しく述べる経済制度を整備し、元の経済は華北を中心とした政権としては空前の繁栄を迎えた。
しかし、その後の軍事遠征は特にみるべき成果なく終わった。1281年には再び日本に対して軍を送るが今度も失敗に終わり(弘安の役)、1285年と1288年にはベトナムに侵攻した軍が陳朝に相次いで敗れた。さかのぼって1276年には、中央アジアでカイドゥらと対峙していた元軍の中で、モンケの子シリギが反乱を起こし、カイドゥの勢力拡大を許していた。それでも、クビライは三度目の日本遠征を計画するなど、積極的に外征を進めたが、1287年には、即位時の支持母体であった東方三王家がナヤンを指導者として叛き、また中国内でも反乱が頻発したために晩年のクビライはその対応に追われ、日本遠征も放棄された。 また1292年にジャワ遠征を行っているがこれも失敗に終わっている。もっとも東南アジアへの遠征は商業ルートの開拓の意味合いが強く、最終的には海上ルートの安全が確保されたため、結果的には成功したと言える。
クビライの死後、1294年に孫のテムルが継ぐが、彼の治世期の1301年にカイドゥが死に、1304年に長い間抗争していた西方諸王との和睦が行われた。この東西ウルスの融和により、モンゴル帝国は大ハーンを頂点とする緩やかな連合として再び結びつき、いわゆるシルクロード交易の活況ぶりは空前となった。この状況を指してパクス・モンゴリカ(「モンゴルの平和」)と呼ばれることがある。
元の首都、大都は全モンゴル帝国の政治・経済のセンターとなり、マルコ・ポーロなど数多くの西方の旅行者が訪れ、その繁栄はヨーロッパにまで伝えられた。江南の港湾都市では海上貿易が隆盛し、文永・弘安の役以来公的な国交が途絶していた日本からも、私的な貿易船や留学僧の渡来は続き、ある程度の交流が続いた。
衰退への道
1307年、テムルが皇子を残さずに死ぬと、モンゴル帝国で繰り返されてきた後継者争いがたちまち再燃し、皇帝の座を巡って母后、外戚、権臣ら、モンゴル貴族同士の激しい権力争いが繰り広げられた。
まず権力争いの中心となったのは、チンギス・ハーンの皇后ボルテ、クビライの皇后チャブイ、テムルの母ココジンらの出身部族で、クビライ、テムルの2代においても外戚として権勢をふるってきたコンギラト部を中心に結束した元の宮廷貴族たちであった。テムルの皇后ブルガンはコンギラト部の出身ではなかったため、貴族の力を抑えるためにテムルの従弟にあたる安西王アナンダを皇帝に迎えようとしたが、傍系の即位により既得権を脅かされることを恐れた重臣たちはクーデターを起こしてブルガンとアナンダを殺害、モンゴル高原の防衛を担当していたテムルの甥カイシャンを皇帝に迎えた。
カイシャンの死後は弟アユルバルワダが帝位を継ぐが、その治世期には代々コンギラト氏出身の皇后に相続されてきた莫大な財産の相続者であるコンギラト部出身のアユルバルワダの母、ダギ・カトンが宮廷内の権力を掌握し、ハーンの命令よりも母后の命令のほうが権威をもつと言われるほどであった。そのため、比較的安定したアユルバルワダの治世が1320年に終わり、1322年にダギが死ぬと再び政争が再燃する。翌1323年にアユルバルワダの後を継いでいたシデバラが殺害されたのを皮切りに、アユルバルワダが死んでから1333年にトゴン・テムルが即位するまで、13年の間に7人の皇帝が次々に交代する異常事態へと元は陥った。
ようやく帝位が安定したのは、多くの皇族が皇位をめぐる抗争によって倒れた末に、広西で追放生活を送っていたトゴン・テムルの即位によってであった。しかし、トゴン・テムルはこのとき権力を握っていたキプチャク親衛軍の司令官エル・テムルに疎まれ、エル・テムルが病死するまで正式に即位することができないありさまだった。さらにエル・テムルの死後はアスト親衛軍の司令官であるバヤンがエル・テムルの遺児を殺害して皇帝を凌ぐ権力を握り、1340年にはバヤンの甥トクトが伯父をクーデターで殺害してその権力を奪うというように、元の宮廷はもはやほとんどが軍閥の内部抗争によって動かされていた。そのうえ成人したハーンも権力を巡る対立に加わり、1347年から1349年までトクトが追放されるなど、中央政局の混乱は続いた。
この政治混乱の中で、おそらくヨーロッパで流行したペストと同じとみられる伝染病が中国に流行し、相次ぐ天災が農村を荒廃させた。しかし、中央政府の権力争いにのみ腐心する権力者たちはこれに対して有効な施策を十分に行わなかったために国内は急速に荒廃し、元の差別政策の下に置かれた旧南宋人の不満、商業重視の元朝の政策がもたらす経済搾取に苦しむ農民の窮乏などの要因があわさって、地方では急激に不穏な空気が高まっていった。
元の北走
1348年、浙江の方国珍が海上で反乱を起こしたのを初めとし、全国に次々と反乱が起き、1351年には賈魯による黄河の改修工事をきっかけに白蓮教徒の紅巾党が蜂起した。1354年には、大規模な討伐軍を率いたトクトが、彼が強大な軍事力をもったことを恐れたトゴン・テムルによる逆クーデターで更迭、殺害されるが、これはハーンの権力回復と引き換えに軍閥に支えられていた元の軍事力を大幅に弱めることとなった。やがて、紅巾党の中から現れた朱元璋が他の反乱者たちをことごとく倒して華南を統一し、1368年に南京で皇帝に即位して明を建国した。
朱元璋は即位するや大規模な北伐を開始して元の都、大都に迫った。ここに至ってモンゴル人たちは最早中国の保持は不可能であると見切りをつけ、1368年にトゴン・テムルは、大都を放棄して北のモンゴル高原へと退去した。一般的な中国史の叙述では、トゴン・テムルの北走によって元朝は終焉したと見なされるが、トゴン・テムルの大ハーン政権は以後もモンゴル高原で存続した。したがって、王朝の連続性をみれば元朝は1368年をもって滅亡とは言えないが、これ以降の元朝は北元と呼んでこれまでの元と区別するのが普通である。だが、トゴン・テムルの2子であるアユルシリダラとトグス・テムルが相次いで皇帝の地位を継ぐ(明は当然、その即位を認めず韃靼という別称を用いた)が、1388年にトグス・テムルが殺害されて、クビライ以来の直系の王統は断絶する。
だが、この過程を単純に漢民族の勝利・モンゴル民族の敗走という観点で捉える事には問題がある。まず華北では先の黄河の改修などによって災害の軽減が図られた事によって、元朝の求心力がむしろ一時的に高まった時期があったことである(朱元璋がまず華南平定に力を注いだのはこうした背景がある)。また、漢民族の官吏の中には前述の賈魯をはじめとして元朝に忠義を尽くして明軍ら反乱勢力と戦って戦死したものも多く、1367年に明軍に捕らえられた戸部尚書の張昶は朱元璋の降伏勧告に対して「身は江南にあっても、心は朔北に思う」と書き残して処刑場に向かったといわれている。清の歴史学者趙翼は元に殉じた(漢民族の)官吏の数においては激しい抵抗が行われた南宋に次いで多かったと指摘している[要出典]。
その後の北元
北元では1388年にトゴン・テムルの子孫が絶えてクビライ家の大ハーン世襲が終焉し、クビライ家政権としての元は断絶した。しかし、その後もチンギス・ハーンの子孫を称するハーンたちが元の君主としてモンゴルには立ちつづけ、15世紀末にはクビライ家が復権を果たす。元が最終的に終焉を迎えたのは、クビライの子孫を称する君主、リンダン・ハーンが死に、モンゴル諸部族がリンダンの代わりに満州人の皇帝ホンタイジをモンゴルのハーンに推戴した1636年であった。詳細は、北元を参照のこと。
政治
元の政治制度、および後述する経済・財政制度はモンゴル帝国特有の制度がかなり維持されていたために、中国の諸王朝の歴史上でみれば、きわめて特異なものとなっている。
中央政府
元の首都は大都(現在の北京)および上都(内モンゴル自治区)であるが、少なくとも初期の皇帝は、遊牧国家の伝統にのっとって都城の城壁内で暮らすことはなく、冬の都である大都と夏の都である上都の近郊の草原の間を季節移動する帳幕(ゲル)群が宮廷(オルド)となっていた。
モンゴル帝国の大ハーンのもとには、第二代オゴデイの時代から、時代と設置状況により、漢語で「中書省」、「尚書省」など様々な名称で呼ばれる書記・財務官僚機構が存在した。即位以前からモンケによって中国の征服事業を委ねられ、手元に漢人を含む様々なブレーンを集めていたクビライは、即位するとまず漢人ブレーンを中書省に組織した。このクビライの中書省は、オゴデイ時代の中央書記官庁のとしての中書省の性格を継承するとともに、唐以来の中書省の伝統を引き継いで下に六部を置き、民政・財政・軍事の一切を統括した。
1263年には中書省から軍政機能を分離して中央軍政機関として枢密院が設置され、中書省とあわせてクビライの嫡子チンキムが総裁し、中央政府管轄地域の庶政を父であるハーンにかわって代行した。しかし、これにより中央政府のすべての機能が中書令チンキムのもとに束ねられたわけではなく、1270年にはアフマドを長官とする財務官庁が拡大され、中書省と並ぶ地位の尚書省となる。さかのぼって1268年には中国王朝にならって御史台が設置されており、民政・軍政・財政・監察のそれぞれに関わる機関がひととおり整備された。ただし、中央官庁は中書省・枢密院・尚書省などの中国風の名前を持ってはいたが、職掌や官吏の定数に関する規定はなく、さらに後述するように省庁の要職は宮廷に仕える皇帝の側近たちから任用され、特に左右丞相などの長官クラスを務める者は家臣、隷属民、軍隊などを自ら保有するモンゴル貴族からなっていた。このため、官庁の行う業務は実際には官庁に定められた官僚機構ではなく、高官たちの個性や宮廷での力関係などに左右された。
なお、元代の中書省では、総裁である中書令を除くと、右丞相が長官、左丞相が次官であった。中国や日本の伝統的な官制では左が上、右が下であるから、右が上とされた元代はこの点でも特異であるが、これは、モンゴル人が右を尊いとする通念をもっていたためである。
元のモンゴル人は、長らく中国を支配してもさほど中国文化に親しまず、時代的に先行する征服王朝である遼や金と比較しても、特に民族固有の支配体制を維持していた。元では律令のような体系的な法令を編纂することはなかったので、政権の様々な部局から発せられる命令の積み重ねがそのまま法令となり、中でも皇帝の名をもって出される聖旨(ジャルリグ)や、令旨などと漢訳される皇族・王族の名によって発布された命令書(ウゲ)が高い権威をもった。モンゴル人は文字としてモンゴル文字と、クビライが新たに作らせたパスパ文字をもち、ジャルリグやウゲはこれらの文字で書かれたモンゴル語を正文としていた。漢文の翻訳も付されはしたが、そこでは口語的・直訳的な文体が用いられていた。なお、こうして積み上げられた法令は、『元典章』という中国語で書かれた書物にまとめられて現存しているが、文章は直訳体に加え、当時の官吏が使っていた特殊な文体、吏読が用いられており、伝統的な漢文とは大いに文体を異にしている。
地方制度
行中書省の配置元の中書省が直接的な権限を及ぼすのは「腹裏」と呼ばれる上都・大都を中心にゴビ砂漠以南のモンゴル高原(内モンゴル)と、河北・山東・山西の華北一帯においてのみである。
腹裏を除いた広大な支配領域はいくつかのブロックに分割され、各ブロックには地方における中書省の代行機関として意味をもつ「行中書省」(行省)という名をもった官庁が置かれた。各行省は中書省と同格に皇帝に直属し、腹裏における中書省に準じ、管下の地域における最高行政機関として、民政・財政・軍事の一切を統括した。現在も中国で行われている地方区分としての省は、元代の行省制度を起源とする。
行省の数は、最多の時期で11にのぼり、モンゴル帝国の東半分を覆う。裏返していえば、首都圏の中書省と地方の行省が管轄する諸地域の総体がモンゴル帝国再編後のクビライ家の大ハーン政権たる元の支配領域であった。行省の管下には路、州、県の三段階の行政区分が置かれ、路州県の行政の最高決定権は行省に直属する州県の行政機関ではなく、中央から路・州・県の各単位に派遣され地方の監督と軍事を司る役人、ダルガチが負った。
しかし、元の直轄支配地域の地方では、モンゴルの王族や貴族は自身の遊牧民を率い、皇帝と同じように季節移動を行う直轄所領(「位下」「投下」と呼ばれる)を持ち、それぞれの所領はチンギス・ハーン以来の権利によって貴族が所有する財産とみなされていたため、皇帝の直接支配を受けず、まったくの自治に委ねられていた。しかもひとつひとつの位下・投下は中国内地の定住地帯にモザイク状にちりばめられた領民・領地をもっており、皇帝の直接所有する領土・領民は、元の全領域から王族・貴族の位下領・投下領を除いた部分にすぎなかった。定住地帯においては、チンギス時代以来数十年にわたる征服の過程で形成された王族・貴族の投下領が入り乱れ、領土・領民の所有関係は複雑だった。王族・貴族は位下領・投下領に自らダルガチを任命したので、彼らは領主からの代官として働き、皇帝の直接の支配権が及ばないその支配がその位下領・投下領の含まれる地域全体を統括する行省の支配権力と並存していた。
元に服属したかつての独立王国である天山ウイグル王国や高麗は、所属する行省のモンゴル人たちによる掣肘は受けたものの、個々の従来からの国制を保ったまま自治を認められた。その王族はモンゴルの王族・貴族に準じる扱いを受け、クビライ家の皇女と婚姻を結んだ。特に高麗の場合、忠宣王以降の国王はモンゴル皇女を母とし、即位以前は元の宮廷に長らく滞在して皇帝の側近に仕えるなど、ほとんどモンゴル貴族のようになっていったほどであった。
このように元の地方制度は、一見中央集権的な中書省・行省と路・州・県の階層制と、きわめて分権的、封建的である皇帝直轄領・投下領の混在が交差していたが、元の支配に服しながらこれらとは異なる制度に置かれる例外として、チベット(吐蕃)があった。チベットは、各地で領域支配を行う土着の貴族たちが10以上の万戸府に分けられ、土司として掌握され、チベット仏教のサキャ派の教主を長官とする元の仏教教団統制機関、宣政院によって統括されていた。
人材運用
人材登用の面でも、元は中国王朝の通例に大きく反する。中央政府の人材登用では、チンギス・ハーン時代から存在する大ハーンの親衛隊組織で、守衛から食事・衣装の準備までハーンの身の回りのあらゆる事柄を管理運営する家政機関であるケシクテンが重要な意味をもち、政府の要職に任ぜられ政治に携わるものの多くは、ハーンである皇帝との個人的主従関係に基づき取り立てられたケシクテン所属者(ケシク)たちが出向を命ぜられたものであった。しかも、彼らは官庁の役職とは別にケシクとしての職務を続け、実際の政局運営は官庁の職員の上下関係よりも、むしろケシク組織内部の人間関係によって進められており、重要事項の決定はハーンとケシクに列する有力者の合議により行われた。
宰相など最高位の官職は、ケシクの中でもハーンに近侍する者たちが選ばれたが、彼らは主に千人隊長(千戸長)などのモンゴル有力者の子弟からなった。特に、ケシクの長官はチンギスの4人の功臣ムカリ、ボオルチュ、チラウン、ボロクルの子孫によって世襲され、中央官庁の長官は彼ら功臣や、代々皇族の娘婿(駙馬)となってきた姻族などのモンゴル貴族が独占した。また、有名な耶律楚材のように、早い時期にモンゴルに帰順して、ハーンの手足として行政や軍事に関わってきた者たちの子孫は、モンゴル人ではなくてもモンゴル人に準ずるものとしてケシクに加えられて高位の役職を与えられ、世襲することが約束されていた。
ハーン家との封建的主従関係に基づく世襲を旨とする元においては、科挙によってハーンからみて新参者の官僚を登用する必要は存在しなかったので、中国の伝統的な官僚機構の根幹をなす科挙もほとんど行われることはなく、ハーンの臣民となったのがもっとも遅い南宋の遺民たちが官界で立身する可能性は絶望的であった。漢民族官僚の需要は、オゴデイ時代の1237年に儒学を世業とする家として選定され戸籍に登録された人々、「儒戸」によってまかなわれていた(その後も儒戸の追加登録がなかったわけではない)。
このように人材運用において、「根脚」と呼ばれる、先祖の功績にもとづく家柄、ハーン家との姻戚関係などのハーンとの関係の深さ、主従関係の由緒の古さが重視されるモンゴル伝統の封権制度が元を支えており、宋以来の皇帝独裁制による中国の人材運用とは全く異質であった。モンゴル皇室の由緒を記録した『元朝秘史』が、チンギス・ハーンの功臣たちや各部族集団がチンギスの先祖とチンギス本人に仕えるようになった経緯を特に詳しく記述しているのは、個々の貴族の根脚の高さを説明するためだったと考えられる。
貴族の家門に属さなくとも出世することができた者もいたが、彼らはモンゴル帝国の初期から財政官僚として登用された色目人(ウイグル、ムスリムなど)の商人たちだった。オルトクと呼ばれる国際交易のための共同事業制度を通じてハーンや貴族と金銭を通じた繋がりをもった彼らは財務に明るいことから重用された。しかし、商業税や専売税の請け負いなど、中国の伝統的な財政観に馴染まない政策を取り、彼らの経済搾取を行ったことは中国人の怨嗟のまととなった。先述したアフマドのような色目人高官は、姦臣として中国史に名を残すことになる。
南宋出身の知識人が官吏となる道は、科挙が行われない以上、まず下級の事務官である吏員として出仕するしかなく、幸運に官界で引きたてられても首領官と呼ばれる吏員の管理職に列することが限界だった。科挙はようやく1315年に復活し、中断を含みつつ合計16回行われたが、漢人(金の支配下にいた華北の人々で、漢民族と漢化した渤海人、契丹人、女真人などからなる)と南人(南宋の支配下にいた江南の人々)の合計合格者数はモンゴル人と色目人の合計と同数とされた。しかも全合格者はわずか100名を定員としたため元朝の全科挙を通じた合計合格者数は1100名強に過ぎず、宋や明では1度の科挙で数百名が合格していたことと比較すればきわめて少ない。元代は士大夫階層の多くにとって挫折の時代となり、多くの知識人が処士として在野にあることに甘んじた。
民政制度
民間の掌握にあたっても、元では、個々の民とハーンとの個人的主従関係が重視された。元は戸籍を作成するにあたり、各戸を「軍戸」「站戸」「匠戸」「儒戸」「民戸」などの数十種ある職業別の戸籍に分け、職業戸は戸ごとに世襲させた。儒戸は上で既に触れたが、軍戸や站戸は、軍役や駅站に対する責任を負う代わりに免税などの特権を享受し、一般の民戸に比べると広大な土地を領有する特権階級となった。軍戸や站戸はかつての漢人世侯の配下の兵士たちが軍閥解体後に編成されたものが主で、モンゴルに対する旧功により特権を与えられたのだと理解される。地域的にも、モンゴルに帰順したのが早い華北に偏っていたといわれている。
こうした政治制度がとられた結果、モンゴルは必然として、モンゴルに帰順した順序によって、支配下の民族の扱いにある程度格差が見られるようになった。これが有名な、モンゴル人・色目人・漢人・南人の四等身分制度とされているが、四等身分制度が実施されたのは途中から細々と実施された科挙の受験枠においてであり、中国全体において厳格に実施された訳ではない、ということが今日では広く言われている。このような説が流布した原因は戦前の日本の一部の学者がこの四等身分制度が中国全体において実施されたと勘違いして主張し、これがモンゴルの「野蛮」なイメージとマッチしたため広く受け入れられたため、と考えられている。事実この身分制度で支配の頂点に立っていたモンゴル人でも没落して奴隷になる者もいた。クビライも皇帝即位以前からウイグル人、契丹人、漢人、女真人などからなる多種族混成のブレイン・実務集団を抱えている。元王朝では財務に優れた色目人(ムスリム)達には財政部門を、文化・宗教関係部門にはチベット人やインド、ネパール、カシミール地方の出身者を、そして科学・学術・情報・技術関係にはヨーロッパを含むあらゆる地域出身の人々が登用され、各人の特性や能力に応じた職務を分担した。そして元末にはキプチャク親衛軍やアスト親衛軍のようにもともとモンゴルではない出自の者がモンゴル貴族なみに政権を左右し、漢民族出身者でも元王朝に忠誠を誓うものが現れた。台北市の故宮博物院に収められているクビライの狩猟の様子を描いた「世祖出猟図」では黒人と思われる黒い肌をした馬に乗った人物がクビライの近くに描かれており、このことから黒人ですらこの様な扱いを受けているのに、南人や漢人が差別されたのは考えにくいことである[3]
このようにモンゴルの慣習に固執し、科挙によらず実力本位で人材を登用し、特にモンゴル人の中国への同化を嫌った元の政治制度はきわめて特異であり、その多核的、分権的であるがゆえに中世的とも看做せる支配は、唐代以来貴族階層の解体と皇帝独裁へと進んできた中国の歴史の大まかな流れからみれば大いに時代逆行的であった。しかし、その一方で、流通と貿易を振興し、紙幣を貨幣として流通させるなど、経済・商業政策における先進性はきわめて注目に値する。
経済
(単位は以下の通り ; 10升=1石=約95リットル。1畝=約565平方メートル。10銭=1両=37.3グラム)
元の繁栄は、人口の多く豊かな中国を数百年ぶりに統一したことで中国の北と南の経済をリンクさせ、モンゴル帝国の緩やかな統一がもたらした国際交易を振興することで達成された。すなわち、塩の国家専売による莫大な収入と、経済センターとして計画設計された都、大都に集中する国際的な規模の物流からあがる商税が国庫を支えた。元はこれも中国王朝としては異例なことに経済政策を商業に偏重させていたが、先述したようにその経済政策を担当していた者は多くは色目人であった。
中国統一の経済効果
中国の全土を見渡すと、元の国土の内側でもっとも生産性に富んでいたのは、南宋を滅ぼして手に入れた江南であった。江南は、元よりはるか以前の隋唐時代から中国全体の経済を支えるようになっていたが、華北を金に奪われた南宋がこの地を中心として150年間続いたことで開発は更に進み、江南と華北の経済格差はますます広がっていた。
「蘇湖熟すれば天下足る」「蘇常熟すれば天下足る」と言う南宋で生まれた言葉は、この事実を示している。この言葉は、蘇州・湖州・常州(湖州・常州は江蘇省太湖の西と南のこと)の作物が実ってくれれば他の地域が不作だったとしても心配は無いという意味である。これは決して大げさには言っていたわけではなく、江南を併合する前の1271年とした後の1285年では、その歳入の額が20倍に跳ね上がったという数字が出ている。[4]
江南の農業収穫を国家が効率的に得るために効果をあげたのは、国家直営の小作地で、単位面積あたりから通常の税収に数倍する小作料が得られる官田の経営であった。官田は南宋の末期に拡大が進んでいたが、元はこれを接収すると南宋の皇族や高官、不正を働いた者などから没収した田を加えて官田をさらに拡大し、江南で莫大な穀物を国庫に収めることができた。これに加え、クビライは『農桑輯要』という官撰の農書を刊行した。これまでにも同様の書籍はあったが、それらはあくまでも役人や知識人の個人的な関心の元で編纂されたものであり、国家の政策として同書が編纂されたと言う事は、元の内政が商業一辺倒であったわけではなく、国家的規模での勧農政策が推進された事を物語っている。更に虞集に代表される農業水利の専門家が登用されて、江南から移民を募って戦乱で荒廃した華北の農地の再建を図るなどして、農業生産の充実に努めている。
また、クビライは海に面した現在の天津から大都まで80kmほどの運河を穿ち、大都の中に港をつくって江南の穀物がはるか北の大都へと流入するようにした。
さらに、江南には、元の国家収入の屋台骨を支える塩、茶、酒、明礬などの専売制の生産の大半が集中しており、専売制は江南の富を国家が吸い上げるために重要な制度だった。専売制による利益は巨大であり、特に、塩は生活に絶対に欠かせないことから厳重に管理されていたし、後述するように元の経済制度の根幹に関わっていた。
この江南の経済力を元に繁栄が築かれたわけだが、これは別の一面からいえば、江南からの収入が無ければ元は立ち行かないということであり、南中国で反乱がおこってからの元が急速に衰退し、また反乱者の中で勝ち残ったのが江南を奪った群雄であったのは、必然でもあった。
税制
(政治の状況などにより税率は様々に変更されるものである。ここであげる税額は1260年のクビライ即位の年の例に拠っている。)
元の税制は、かつての金の領土(漢地)と、南宋の領土(江南)とで異なっていた。
漢地の税制は、オゴデイの時代に耶律楚材らによって整備された税制をもとにしたもので、それぞれに税糧の法、科差の法と呼ばれる2つの税法からなっていた。
税糧は、各戸の壮丁(労働に耐えうる男性)ごとに粟(穀物)1石、あるいは土地1畝ごとに畑は3升、灌漑地は5升、というように人数割と田畑の面積割の二種類のうちどちらかにもとづき、穀物を税として収めるものである。人数割と面積割のどちらを取るかは、高いほうを取るよう定められていたため、面積に対してかかる一般的な田税とは異なるし、田を持っていなくても成年男子であればすべての者に課せられるという点で、中国の税制の歴史において後にも先にも見られなかったものである。
もう一方の科差は戸に対して課せられる税で、更に糸料と包銀とに分かれる。糸料は最高で絹糸を22両4銭(重量)を収め、包銀は銀6両を収めた。包銀税は、モンゴルの王族・貴族が国際商業に投資するために当時の国際通貨である銀を集める目的で設けられたが、結果として中国史上でははじめて、税の銀納を義務付けた税となり、銀と、後に銀と換算される紙幣として流通される交鈔の通貨としての地位を高めた。
一方、江南の方では、南宋から引き継いだ両税法をそのまま用いていた。両税法では、各戸が夏に木綿などの物産、秋に穀物を、それぞれの資産に応じた額で年に2回納税する。
しかし、これらの農村からあがる税収は、基本的に地方の政府機関で使われ、中央政府の歳入は穀物よりも銀が重視された。そのため、先述したように、元は中央の歳入は専売や商税などの商業活動からあがる収入にほとんどを依存していた。
元の商税は銀納で、税率をおよそ3.3%に定められた。元の商税設定の特異な点は、都市や港湾を商品が通過するときにかけられていた関税を撤廃し、最終売却地で、売却時に商税を支払えばよいようにした点にある。こうして物流にともなう関税の煩雑な手続きが避けられるようになり、しかも実質税額が低く抑えられたので、元では遠隔地交易が活性化し、国庫に入る商税の総額は非常に莫大なものとなった。
しかし、元において8割とも言われる歳入のもっとも大きな部分を占めたのは、次に詳しく触れる塩の専売制である。
金融政策と塩専売制度
中国では北宋代には会子と呼ばれる紙幣が流通しており、モンゴル帝国も、オゴデイの時代には既に金や南宋で使われていた紙幣を取り入れ、帝国内で使用する事が出来る交鈔(こうしょう、あるいは単に鈔とも)と呼ばれる紙幣を流通させていた。元ではクビライが即位した1260年に中統元宝交鈔(通称・中統鈔)と言う交鈔を発行した。会子など旧来の紙幣は発行されてから通貨としての価値が無効になるまでの期間が限定されており、紙幣はあくまで補助通貨としての役割しか持たなかったが、モンゴルは初めて通貨としての紙幣を本格的に流通させた。
交鈔は金銀との兌換(交換)が保障されており、包銀の支払いも交鈔で行うことができるようにして、元は紙幣の流通を押し進めた。しかし、交鈔の増刷は連年進められ、特に南宋を併合した後に江南に流通させるために大増刷するが、これにより紙幣の流通に対して金銀の兌換準備が不足し、価値が下がった。
これに対して1287年に中統鈔の五倍の価値に当たる至元鈔を発行し、併せてだぶついた紙幣の回収も行い、紙幣価値は比較的安定に向かった。それでも、絶えず紙幣の増刷が行われたために紙幣価値の下落は避けられなかったが、元では塩の専売制を紙幣価値の安定に寄与させてこれを解決した。生活必需品である塩は、専売制によって政府によって独占販売されるが、政府は紙幣を正貨としているため、紙幣でなければ塩を購入することはできない。しかし、これは視点を変えれば、紙幣は政府によって塩との交換が保障されているということである。しかもごく少ない採掘額を除けば絶対量の増加がほとんど起こらない金銀に対し、消費財である塩は常に生産されつづけるから、塩の販売という形で紙幣の塩への「兌換」をいくら行っても政府の兌換準備額は減少しない。こうして、専売制とそれによる政府の莫大な歳入額を保障として紙幣の信用は保たれ、金銀への兌換準備が不足しても紙幣価値の下落は進みにくい構造が保たれたのである。
さらに塩の専売制はそれ自体が金融政策として機能した。元に限らず、中国では、政府の製塩所で生産された塩を民間の商人が購入するには、塩引と呼ばれる政府の販売する引換券が必要とされたが、塩引は塩と交換されることが保障されているために、紙幣の代用に使うことができた。元はこれを発展させ、宋では銭貨によって販売されていた塩引を、銀・交鈔によって販売した。こうして塩引は国際通貨である銀と交換される価値を獲得し、しかも一枚の額面額が高いために、商業の高額決済に便利な高額通貨ともなった。
歳出と国際商業
こうして、塩との交換で保障された交鈔・塩引を銀に等しい通貨として流通させることによって銀の絶対量の不足を補いつつ、塩引の代金と先に述べた商税を銀単位で徴収したことにより、元の中央政府、ひいては皇帝の手元には、中国全土から多量の銀が集められた。こうして蓄えられた銀は広大な領土を維持、発展させるための莫大な軍事費として使われるほか、少なくない部分が皇帝から家臣であるモンゴル貴族たちに対する下賜という形で使われた。
元では功臣達には毎年必ず下賜があり、それ以外にも臨時の下賜があった。この総額が専売で得られた利益の2割にも達すると見られている。王族に対する下賜は、遠く西方の諸王にまで下されていたことがしられる。チンギス・ハーンの時代には戦争による略奪をもたらす軍事指導者であることを求められていたハーンは、元においてはまずなにより富を集め、貴族・王族たちに再分配する能力と気前が求められる存在に変化していた。ハーンの側から見れば、ハーンたる皇帝の独裁政権であると同時に東方三王家を始めとするモンゴル貴族の連合政権でもある元の統一を保ち、元を宗主とするモンゴル帝国の緩やかな連合関係を保つためには下賜は不可欠な事業であり、そのために富を集積できる経済政策をとることは必然だった。そして、皇室・王族・貴族はこうして得た銀をオルトクに投資し、国際交易に流れた銀は中国への物流となって大都に還流し、そこからあがる利益の一部が商税となって再び皇帝の手元に戻る仕組みとなっていた。
このように、専売制による歳入は元の経済政策の根幹に関わったため、密売は厳しく禁止された。しかし、14世紀に入ると、中央政治の弛緩は塩の密売や紙幣の濫発による信用の喪失を招き、紙幣の価値が暴落した。この結果、元の金融政策は破綻し、交鈔は1356年に廃止された。
宗教
元来シャーマニズムを信仰してきたモンゴルは、チンギス・ハーンの時代より多宗教の共存を許し、いずれもひとつの天神(テングリ)を祀るものとして保護してきた。
中国の宗教でもっともはじめにモンゴルの保護を勝ち取ったのは金の治下で生まれた全真教を始めとする道教教団で、教主丘長春自らがサマルカンド滞在中のチンギス・ハーンの宮廷に赴き、モンゴルによる保護、免税と引き換えにハーンのために祈ることを命ぜられた。これにより全真教団はチンギスの勅許によって華北一帯をはじめとするモンゴル帝国の漢地領土において宗教諸勢力を統括する特権を得たため、その勢力は急速に拡大する事になった。金朝の首都であった中都(のちの大都が建設される)を拠点として、教団は金朝滅亡後に失職した官吏を保護し、さらに全真教系列の各地の道観は漢人官僚組織の育成機関も担うようになって、これらの官吏たちがモンゴル帝国支配下の漢地領土において行政組織の運営に携わった。しかし、この急激な教団の拡大は浄土教系や禅宗などの華北の中国仏教教団との深刻な対立を生み出した。特に、全真教の道士たちやそれに連なる漢人官吏たちが、既存の仏教寺院を不法に接収し道観に作り替えたり、寺院付属の荘園を没収して私領するなどの事件が多発したため、仏教諸派はモンゴル宮廷にこの事態を直訴する事態となった。モンケの治世にカラコルムと中都で都合3回行われたといういわゆる「道仏論争」は宗教問答の形を取っていたが実際はこの問題を詮議するため、モンケによって開催されたものであった。(カラコルムでモンケ臨席のもと開催された時は、ルイ9世から派遣されたウィリアム・ルブルックも出席しており、帝国内外のキリスト教徒やイスラム教徒の知識人たちも参加していた)
京兆府(現在の西安)から中都(燕京)に派遣されたクビライのもとで開催された時、華北仏教諸派の嘆願を汲んで全真教団はチンギス以来任されていた華北宗教界における政治権力を剥奪され、代わりに中都での宗教行政の総監であったカシュミール出身の仏僧「国師」那摩(ナーモ)の後任として招かれたチベット仏教サキャ派の高僧サキアパンディタ、およびパスパに宗教界を監督する権限を与えた[5]。全真教はこの「道仏論争」に敗れて勢力を一時的に後退させた。もっとも根本的に道教が弾圧されたわけではなく、また南宋の併合が進むと、後漢の五斗米道の系譜をひく正一教が江南道教の統括者の地位を与えられて、保護が拡大された。この前後から全真教のみならず少林寺、玄中寺などの浄土宗、禅宗の仏教大寺院をはじめ曲阜などの孔子廟などに加え、チベット仏教へも歴代モンゴル皇帝や王族、貴族層から多大な保護と寄進を受ける。
仏教は、はじめに保護を獲得したのは禅宗で、耶律楚材など宮廷に仕える在家信者を通じてモンゴルの信任を受けた。代表的な僧に杭州の中峰明本(1263年 - 1323年)がいる。しかし、やがてチベット仏教が勢力を拡大し、モンゴル貴族の間にチベット仏教が大いに広まる。クビライはサキャ派の教主パクパ(パスパ)に対し、1260年に「国師」、1269年に「帝師」の称号を授け、元領内の全仏教教団に対する統制権を認た。パクパの一族が叔父から甥へと継承したサキャ派の教主は代々国師・帝師として重用され、専属の官庁として宣政院を与えられて、宗教行政とチベットの施政を統括した。もっとも、次第にこれに耽溺するモンゴル王侯が増え、ラマに過大な特権を与えたり、宮廷に篭もって政治をかえりみなくなったり、宗教儀礼のために過大な出費を行ったことは元の衰亡の要因として古くからよくあげられる点のひとつである。
また、国際交易の隆盛にともなって海と陸の両方からイスラム教が流入し、泉州などの沿岸部や雲南省などの内陸に大規模なムスリム共同体があった。現在の北京にある中国でも最古級のモスクである牛街清真寺はこの当時、中都城内にあり、モンゴル帝国、大元ウルス時代に大きく敷地を拡大したモスクのひとつである。もうひとつの大宗教はキリスト教で、ケレイト王国や陰山山脈方面のオングト王国などモンゴル高原のいくつかの部族で信仰されていたネストリウス派のキリスト教は元のもとでも依然として信者が多く、またローマ教皇の派遣した宣教師が大都に常設の教会を開いて布教を行っていた。
ところで、科挙の中断などの点をあげて、しばしば元は儒教を排斥したのだと言われるが、漢文化にはじめて理解を示したとされるクビライよりはるか以前のオゴデイの時代より、モンゴル帝国は孔子や孟子の子孫の保護、曲阜の孔子廟の再建などを行うなど、宗教としての儒教はむしろ保護の対象とされていたことは注意されるべきである。既に述べた「儒戸」も、儒教の宗教指導者階層として捉えられていた可能性が高い。儒教の排斥とは、現実には、モンゴルの伝統を重んじる元が、従来の中国王朝に比べ、儒学の影響力をあまり受ける必要がなかったということである。
なお、復活後の元の科挙では、従来の科挙と比べると詩賦よりも経義に置かれており、しかも経の解釈で朱子の解釈を正統とすることが定められていたことが画期的な点として注目される。これは、実践を重んじる朱子学が元の時代的風潮の中で、儒教の主流の座を獲得していたことを示している。
科学技術
モンゴル・元代には有名なマルコ・ポーロ、イブン=バットゥータのように、西方からの旅行者が数多く中国にやってきたことで知られるが、それだけ交易など様々な理由で元の領土に留まった無名の人々も非常に多く、彼らにより数多くの西方の知識・文物が持ち込まれた。
例えば、モンケの時代にモンゴル宮廷に招聘されたイラン出身のジャマールッディーンにより暦法と天体観測器が持ち込まれ、1271年にそれを基とした回回司天台と呼ばれる天文台が作られている。回回司天台は、大元朝と友好関係にあったイルハン朝のフレグによって創設されナスィールッディーン・トゥースィーらによって運営されたマラーゲの天文台と天体観測データーの交換が活発に行われ、クビライの側近であった中国人学者郭守敬は、この観測結果をもとに新しい暦、授時暦を作り、この暦は明の滅亡まで使用された。
12-13世紀に西アジア一帯で流行した物と同形態の投石機回回(ふいふい)は、本来は「ウイグル」の音写である「回鶻」に由来する単語であるが、「回回教」「回教」と同じくイスラム教、イスラム教徒のことであり、元朝時代において語源である「ウイグル」が「畏兀兒」と音写され、「回回語」が実際にはペルシア語のことを指していたように、具体的にはマーワラーアンナフルやホラーサーンなど広く西方のイラン系の人々に由来する事物を指した。元は南宋の拠点であった襄陽の攻略にあたり、イラン出身の技術者を招聘し、呼ばれる重りを使い投擲距離が数百メートルに達する可動式の「マンジャニーク( منجنيق manjanīq)」:en という西洋式の投石機をつくった[6]。このマンジャニークも、中国では回回砲という名で知られていた。
文学
元の時代の文学で特筆すべきは雑劇と呼ばれる戯曲の作品である。漢文、唐詩、宋詞、元曲など言われるようにこの時代の曲は歴代でも最高とされる。
小説にも才能のある作者が集まり、西遊記、水滸伝や三国志演義などはこの時代に原型が出来たとされる。
このように元代に曲や小説などの娯楽性の強い文学が隆盛した理由は、元代の科挙制度によるという。それまでの中国では文学とは漢詩と歴史であって、フィクションを取り扱った物は俗な物であり立派な人物が手を染めるべき物ではないとの考え方が強かったが、元代に入って科挙の実行数が激減した事により職を失った知識人達がそれまで見向きもしなかった曲を書くようになったというわけである。
一方、漢詩の分野でも、宋の宗室の一人である趙孟頫(子昴)、元の四大家と言われる虞集・楊載・范梈・掲傒斯などの名前が挙げられ、伝統的な文学が沈滞したわけではない。元の後期には非漢民族(色目人)の詩人があらわれ、ムスリムの進士(科挙合格者)である薩都剌を元代最高の漢詩人と評価する意見も多い。
美術
書画の分野では、文学でも名をあげた趙孟頫がもっとも有名である。趙孟頫の書画は古典への復興を目指したもので、書は元代の版本はみな趙孟頫の書体に基づくといわれ、絵画は北宋以来の院体画を脱して呉興派と呼ばれる新潮流を開いた。元末には黄公望、倪瓚、呉鎮、王蒙の「元末四大家」が趙孟頫の画風を発展させ、南宗画とも後に区分される山水画の技法を確立していった。
陶磁器は、中国史上最高と呼ばれる宋のものを受け継いだが、さらに元代には染付などの鮮やかな新技法と大盤など大きな器形が新たに登場し、宋代までの青磁などの静謐と簡潔を重んじる美意識と対象をなす。青花と呼ばれる染付に使われているコバルト顔料は西方からの輸入品で回回青と呼ばれており、東西交流の進んだ元代の特性をよく示している。明以降の青花は輸入が途絶えたために色合いが元代とは変ってゆく。
元代の青花は中国各地の元代遺跡の考古学調査で発掘される上、中国から海外に輸出される国際商品として使われていたと考えられ、遠くトルコ、イスタンブルのオスマン帝国の宮廷トプカプ宮殿や、イラン、アルダビールのサファヴィー朝の祖廟サフィー廟に大規模なコレクションがある。
歴代皇帝
クビライ以前のモンゴル帝国大ハーン
太祖チンギス・ハーン(1206年 - 1227年)
太宗オゴデイ(1229年 - 1241年)チンギス・ハーンの次男。
定宗グユク(1246年 - 1248年)オゴデイの長男。
憲宗モンケ(1251年 - 1259年)チンギス・ハーンの子トルイ(睿宗)の長男。
世祖クビライ(1260年 - 1271年)睿宗トルイの次男。憲宗モンケの弟。
元の皇帝
世祖クビライ(1271年 - 1294年)
成宗テムル(1294年 - 1307年)世祖クビライの次男チンキム(裕宗)の三男。
武宗カイシャン(1307年 - 1311年)裕宗チンキムの次男ダルマバラ(順宗)の子。テムルの甥。
仁宗アユルバルワダ(1311年 - 1320年)順宗ダルマバラの次男。武宗カイシャンの弟。
英宗シデバラ(1320年 - 1323年)仁宗アユルバルワダの長男。
泰定帝イェスン・テムル(1323年 - 1328年)裕宗チンキムの子カマラ(顕宗)の長男。
天順帝アリギバ(1328年)泰定帝イェスン・テムルの長男。
文宗トク・テムル(1328年 - 1329年)武宗カイシャンの次男。
明宗コシラ(1329年)武宗カイシャンの長男。文宗トク・テムルの兄。
文宗トク・テムル(1329年 - 1332年)(8)と同一人物。
寧宗イリンジバル(1332年 - 1333年)明宗コシラの次男。
順帝(恵宗)トゴン・テムル(1333年 - 1368年)明宗コシラの長男。寧宗イリンジバルの兄。
「順帝」は明により贈られた諡号
クビライ家の北元皇帝
恵宗トゴン・テムル(1368年 - 1370年)元の(12)。
昭宗アユルシリダラ(1370年 - 1378年)恵宗(順帝)トゴン・テムルの子。
天元帝トグス・テムル(1378年 - 1387年)昭宗アユルシリダラの弟?
元の年号
中統(1260年 - 1264年)
至元(1264年 - 1294年)
元貞(1295年 - 1297年)
大徳(1297年 - 1307年)
至大(1308年 - 1311年)
皇慶(1312年 - 1313年)
延祐(1314年 - 1320年)
至治(1321年 - 1323年)
泰定(1324年 - 1328年)
致和(1328年)
天順(1328年)
天暦(1328年 - 1330年)
至順(1330年 - 1333年)
元統(1333年 - 1335年)
至元(1335年 - 1340年)
至正(1341年 - 1368年)


元朝(1271年-1368年),是由蒙古侵略者在中国建的一个殖民政权。
元朝由蒙古人贵族忽必烈(元世祖)于1271年所建,1279年攻灭中国南宋,定都于大都(今北京),1368年8月由朱元璋领导的农民起义军攻陷蒙元大都,元朝灭亡,蒙古侵略殖民者被赶出中国。元顺帝北逃,蒙古人失去对中国地区的统治。同年,朱元璋在应天(今南京)称帝,建立了明朝。之后,在漠北的元君臣仍沿用元朝国号,史称北元。北元于1388年天光帝被阿里不哥后裔也速迭尔袭杀后(一说1402年鬼力赤即位后)去国号。1635年末代蒙古帝国大汗林丹汗归降皇太极彻底终止。
元朝建立之前的蒙古
蒙古高原地区的众多蒙古部落原为金朝的臣属民族,随着金朝的逐渐衰落,蒙古的势力也开始壮大起来,逐渐脱离金朝政权的统治。金泰和四年(1204年),蒙古族领袖铁木真通过残酷战争统一了蒙古高原各蒙古部落。泰和六年(公元1206年),铁木真被各部落推举为“成吉思汗”,建立政权于漠北,国号“大蒙古国”(Yeke Mongghol Ulus),即大蒙古帝国。建立大蒙古国后,不断发动征服战争扩张其疆域,1217年灭亡西辽、1219年西征花剌子模,一直进攻到伏尔加河流域。于1225年东归,1227年又灭西夏,成吉思汗也在对西夏的远征中病逝。蒙古军队的对外战争具有征服性质,为了减少蒙古军队的伤亡,加快战争的进度,蒙古军队在战争期间对敌人采取了残酷而野蛮的政策。向蒙古军队投降的地区遭受的破坏相对较小,而大量敢于英勇反抗的地区破城之后人口被屠杀和奴役,无数财产被掠夺损毁。战争的结果是建立起了疆域空前广阔、人口规模和经济总量居世界第一、影响力盛极一时的庞大帝国,基本实现了世界一统、天下大同的格局,对后世的影响很大。但是应该看到,这一系列的征服战争给包括中国在内的欧亚大陆众多古老文明带来了巨大的破坏,众多民族受到了残酷而不公正的民族压迫,难以记数的人口和财产在战火和随后的瘟疫、饥荒及自然灾害中损失,对战火涂炭地区而言也是少有的黑暗时期。整个蒙古帝国的持续时间是从1206年到1635年。
元朝的建立
汗王蒙哥1259年在四川去世后,其弟忽必烈与阿里不哥开始争夺汗位。1260年3月,阿里不哥在宗王阿速台等大多数蒙古正统派的支持下于蒙古帝国首都哈拉和林通过“忽里勒台”大会即大汗位。与此同时,忽必烈与南宋议和后返回开平(今内蒙古多伦),在中原儒臣及部分蒙古宗王的支持下集会自称大汗。1260年4月,忽必烈设立中书省,总管国家政务。1260年5月,忽必烈颁布《即位诏》法令,并建元中统。由于忽必烈在中原汉地自行集会称汗,并且推行汉法,明显违背了蒙古传统,引起了阿里不哥和蒙古正统派的强烈不满,忽必烈与阿里不哥随即展开了四年的汗位战争。直到1264年阿里不哥兵败投降,忽必烈定为一尊,但他推行的“行汉法”主张却造成许多蒙古贵族的不满,拒绝归附忽必烈汗国,结果导致其他几个蒙古汗国纷纷敌对,忽必烈的政权遂只包括“中国”(并非完全今天意义上的中国)与蒙古高原地区,从此蒙古帝国不复存在。
至元八年(公元1271年),忽必烈公布《建国号诏》法令,取《易经》中“大哉乾元”之意,正式建国号为“元”。这是蒙古帝国政权由世界性大一统帝国转为中原王朝的分水岭,蒙古政权之前对中原地区推行的是极具游牧性质的掠夺式统治,中原地区仅是其属地的一部分,到忽必烈时才转型为以中国为主体的王朝,且在这之前“元”之名尚未出现,故“大元”的建立应由此算起。
至元九年(公元1272年),在刘秉忠规划下,建都于中原的大都(今北京市)。至元十三年(公元1276年),元军攻陷南宋都城临安(今浙江杭州),俘虏5岁的宋恭帝及谢太后。至元十六年(公元1279年),元军在崖山海战消灭了南宋最后的抵抗,陆秀夫背着8岁的小皇帝赵昺投海而死,南宋灭亡。
之后,元军曾进攻过周边一些地区,如越南和日本等,其中以试图征服日本的战争最为著名,通常认为台风(日本人称之为“神风”)是造成元军失败的最大原因。
元朝统一后四等人的划分
元朝统一全国后,将各族人民划分为蒙古、色目、汉人和南人4个等级,并且规定这4等人在做官,打官司、科举诸方面有一系列不平等的待遇,乃是整个元朝施行民族压迫政策的铁证。
蒙古族在各等人中名列第一等,是元朝的“国姓”。
色目人继蒙古人之后名列第二等,主要指西域人,如钦察、唐兀、畏兀儿、回回等。
汉人为第三等,指淮河以北原金朝境内的汉、契丹、女真等族以及较早被蒙古征服的云南(大理)人,东北的高丽人也是汉人。
南人为第四等,也叫蛮人、新附民,指最后被元朝征服的原南宋境内各族(淮河以南的人民)。
元朝中期
大德十一年(1307年),元成宗加封孔子为“大成至圣文宣王”,并对孔子的家族、弟子等加封了种种称号。
大德十一年(1307年),成宗死,前太子真金之孙海山即位于元上都,是为元武宗。并立其弟爱育黎拔力八达为皇太子,约定兄终弟及,同时又约定爱育黎拔力八达死后,帝位复归武宗之子和世剌。
至大四年(1311年),仁宗即位,但违背前约,封和世剌为周王,令其出镇云南,而改立自己的儿子硕德八剌为皇太子。
延佑二年(1315年),元仁宗下令恢复科举制度,将儒家学说中的程朱理学定为考试的主要内容。从此程朱理学成为元朝(以及其后的朝代)的官方思想。
延佑七年(1320年),仁宗死,硕德八剌即位,是为元英宗。
至治三年(1323年),元英宗下令编成并颁布元朝正式法典——《大元通制》,共2539条。
至治三年,英宗从南返途中,驻跸南坡,被权臣铁失等人杀死。谋乱诸王大臣拥立当时镇守漠北的前太子真金之孙也孙铁木儿即帝位,改元泰定,是为泰定帝。
泰定五年(1328年),泰定帝死。丞相倒剌沙在上都奉泰定帝之子阿剌吉八为帝,而与此同时,元武宗的旧部重臣燕帖木儿与河南行省丞相伯颜则分别秘密向漠北和江南遣使,同时迎接周王和世剌与其弟图贴睦儿。结果,图贴睦儿先至元大都,遂于天历元年(1328年)自立为帝,是为元文宗。而和世剌抵达和林后,也宣布即位,是为元明宗。文宗表面上表示愿意退位,奉兄为帝,两人遂相会于上都之南,文宗毒死明宗后称帝。
至顺三年(1332年),文宗卒。临终下诏立明宗子为帝。权臣燕帖木儿为了控制朝政,故意舍长立幼,立懿璘质班为帝,是为元宁宗,但宁宗即位未及一月就病逝,其兄妥欢贴睦尔才得以即立,是为顺帝。
至正三年(1343年),元惠宗下令修撰辽史、金史、宋史三史,至1345年修成。
元朝的灭亡 侵略殖民者的失败
元朝后期,统治者不断向人民收取各种名目繁杂的赋税,人民被压迫被掠夺更为严重。早在泰定二年(1325年)就发生了河南赵丑厮、郭菩萨领导的起义。顺帝至正十一年(1351年)发生的刘福通领导的红巾军起义,同时元朝统治阶级内部却依旧在为争权夺利而互相征战,由此加速了元朝灭亡的进程。至正十六年(1356年)到至正十九年(1359年),起义军首领朱元璋不断扩充自己的势力,统一了江南的半壁江山。至正二十七年(1367年),朱元璋开始北伐,在大将徐达、常遇春等的协助下,于1368年八月攻陷元大都,元顺帝北逃,元朝的统治结束,蒙古人的侵略彻底失败。同年,朱元璋在应天(今南京)称帝,建立了明朝。之后,在漠北的元君臣仍沿用大元国号,史称北元。北元于1388年天光帝被阿里不哥后裔也速迭尔袭杀后(一说1402年鬼力赤即位后)去国号。元朝灭亡后皇室血脉一直在蒙古代代相传直到1696蒙古被清朝征服为止。
蒙古人的殖民政治制度
中央机构:
中书省,领六部,主持全国政务。
枢密院,执掌军事。
御史台,负责督察。
地方行政机构:
行省,行省是朝廷委派重臣到各地署事,行使中书省职权的派出机构,“行中书省”的简称
军事机构:
宿卫军队,由皇帝或亲信大臣直接节制。担任京城(大都和上都)防卫的军队是侍卫亲军。
三十馀卫,卫设都指挥使或率使,隶属于枢密院。
镇戍军,负责镇守全国各地。军队包括蒙古军、探马赤军、汉军、新附军等。
忽必烈时代,蒙古统治集团越来越清楚地意识到:“夫争国家者,取其土地人民而已。”战争破坏因而日益减少。“保守新附城壁,使百姓安业力农”的方针获得部分实施。在中原汉地,元政府也采取一些相应措施来扭转长期战乱所造成的残破局面,元朝社会经济由战时的衰敝状态渐臻恢复乃至一定程度的发展。这种恢复乃至发展,在全国各地区呈现出颇为明显的不平衡性。蒙古统治者仿效金朝在用人方面先女真、次渤海、次契丹、次汉儿的作法,分全国居民为蒙古、色目、汉人、南人四等。迄今所知,元朝政府并没为四等人的划分颁布过专门的法令,但却反映在有关他们政治、法律地位以及其他权利和义务方面的诸多不平等规定中。儒生在参预国家治理方面失去了宋金时那种优越的地位,加上元政府在赋税方面优遇儒户的规定经常不得贯彻,他们的社会地位和实际利益不能不受到很大损害,以至当日戏台上有“一官二吏、九儒十丐”的谑语。元王朝的统治秩序,仍然是在封建的社会关系、并保留了部分奴隶制度的基础之上建立起来的,民族属性成为阶级划分的重要依据,民族压迫政策激化了民族之间和阶级之间的矛盾。蒙古、色目贵族通过赐田、战争掠夺以及强占兼并等手段,成为占有大片田地的封建地主,汉人和南人中的官僚、军阀,不得不依附征服者的政治势力而扩大自己的封建权益。
在成吉思汗时代,蒙古对汉人的刑罚是残酷的,杀死一个汉人只需付一头驴的罚款。到了元朝,其刑法明文规定:蒙古人即使把第三等“汉人”和第四等的“南人”殴打致死,也只需“断罚出证”,并付罚款和埋葬费;而汉人/南人即使被殴打也不得反抗,而是只能向官府提告,若反抗而使蒙古人致死,则是死刑。
元朝作为一个蒙古族建立的政权,在经过对欧亚广大地区的征服后,在文化思想领域也主动或被动地吸收集合了多种文明长处,因此,整个元朝统治时期充满了“汉法”与“色目法”的主导地位之争。
元朝作为中国历史上的一个重要朝代,不仅在中华文化史上发挥了承上启下的作用,而且在诸多领域出现了新的飞跃,推进了中国多元一体文化的发展进程,开创了中国各民族文 化全面交流融合的新局面,对中华文化的繁荣和发展作出了重要的贡献。
元朝中西经济文化交流的空前繁荣,使不同地区、国家和地区间的经济文化双向交流加速。中国的火药、指南针、印刷技术传入阿拉伯和欧洲,推进了这些地区的文明进程。阿拉伯的医学、天文学、农业技术,欧洲的数学、金属工艺,南亚的雕塑艺术等传入中国,促进了中国古代文化的丰富和发展。元代中西文化交流信息量之大、传播范围之广、对未来历史影响之大,都是人类历史上空前的。可以说,中西方文明成就第一次出现了全方位共享的局面。
中国自古以来就是一个多民族国家,每一个民族在不同的历史时期都为中华文明的进步和发展作出过贡献,在中国王朝序列中,尽管该政权存在的时间较短,但它对中国历史发展产生的影响还是非常重要的。
13世纪初,蒙古族统治者经过半个多世纪的征服战争,先后消灭西夏、金、大理、吐蕃、南宋等政权,完成了多民族国家的空前统一,形成了有利于各民族文化交流发展的有利环境,中国多民族文化并存的格局进一步得到肯定。自春秋时代开始,中原地区所形成的“夏夷”之说,强调“尊夏攘夷”、“以夏变夷”的思想,对各民族之间的平等交往形成障碍。例如在史学领域极具影响的“正闰”说,主张“四夷不得正统”,将北方民族入主中原的政权,与“窃国”、“篡国”者并列,纳入非“正统”序列,事实上对其他民族政治文化形成排斥。由于元朝亦属入主中原的少数民族政权,统治者为了确立自身地位的合法性,需要努力扭转这一传统观念。在编纂《辽》、《宋》、《金》史时,三史都总裁官、中书右丞相脱脱力排众议,“独断曰:‘三国各与正统,各系其年号。’议者遂息。”这一举措结束了自辽朝灭亡后200多年的“正统”之辩,同时也在中国史学史上,第一次以中央政府的名义肯定了各民族政权的合法地位。其意义正如韩儒林先生所总结的那样:“这一决定确定了三史以平等看待的基本原则,它符合中国是一个多民族国家的客观实际,也符合辽、金、宋三朝互不相属的历史状况,因而是正确的,所以脱脱对三史的贡献不能忽视。”
元朝统治者实施的民族政策和文化政策,使古代中国各民族文化的交融和发展出现了很多新的气象。蒙古族文字产生于这一时期,并沿用至今;北方游牧民族历史上第一部用本民族文字撰写的历史著作《蒙古秘史》诞生;在中国封建王朝历史上,元朝政府官员的民族成份最为复杂;元朝也是中国统一王朝史上第一个多民族文字并用的王朝;《辽史》、《宋史》和《金史》,是廿四史中仅有的、由多民族史家共同编修的史籍,也在中国史学史上首开一朝官修三朝历史之先河,为后世保存了珍贵的历史文化遗产;中原文化在边疆民族地区得到广泛传播,儒家经典著作被翻译成蒙古文出版,漠北、云南等偏远地区首次出现了传授儒家文化的学校;中国首次出现了由中央政府批准成立的、全国性的少数民族语言文字教育机构——蒙古国子学和回回国子学,蒙古、契丹、女真和色目人中间涌现出一大批汉文著述家;西域各民族文化进一步向中原社会流传,藏传佛教在中原得以传播,海南黎族的木棉种植和纺织技术推动了中国棉纺业的发展;在宽松的政治文化氛围下,各民族间的交融也进入又一个高潮期,契丹、女真、党项等民族悄然融入到蒙古族、汉族和周边其他民族之中,而一个全新的民族——回回族在中华大地上诞生。对于元朝各种文化和谐并存的局面,中世纪欧洲“四大旅行家”之一的鄂多利克,曾感慨地称之为“世界上最大的奇迹”。
由此可见,元朝的建立,打破了此前历史上出现过的人为的文化屏蔽现象,中华文化多样性的现实得到普遍认可,“四海为家”、“天下一家”的观念深入人心,多元一体格局在统一的环境里变为事实。
与大多数中国封建王朝相比较,元朝时期思想文化观念有两个特点是十分显著的:其一是兼容,其二是“不尚虚文”。在这一思想的指导下,元朝的文化环境表现出兼容务实的特征。
元王朝的文化兼容主要体现在以下几个方面:它是中国古代历史上唯一没有从官方角度提出“避讳”制度的王朝;它是中国封建历史上思想文化禁锢制度较少的王朝之一,据统计,元代的文化禁令仅是明清两朝的几十分之一;它还是中国封建历史上唯一明确提出宗教信仰自由的王朝,当时世界上所有的主要宗教在中国都有活动场所和信徒,这在当时的整个欧亚大陆恐怕是绝无仅有的文化现象。
兼容的文化氛围为中国文化的发展提供了良好的环境。中国“戏剧史和文学史上的重大事件”——元曲(散曲和杂剧)就是在此环境下形成的。今人把元曲与唐诗、宋词并列,视之为中国文化的瑰宝。一些学者认为元曲之所以在元代诞生并繁荣,主要得益于元代北方少数民族伦理道德的影响和文化政策的宽松,“使得社会思想能够较多地摆脱传统规范的束缚”自由创作。
儒家文化的社会地位进一步提高。孔子在元代被封为“大成至圣文宣王”,使其美誉达到无以复加的程度。孟子等历代名儒也获得了崇高的封号;元朝在中国历史上首次专门设立“儒户”阶层,保护知识分子,“愿充生徒者,与免一身杂役”。元代的民众普及教育超过了前代,书院达到400余所,州县学校的数量最高时达到24400余所。
务实的精神推动了文化与社会实践的互动。建立元朝的蒙古族处在封建社会上升阶段,有着较为迫切的发展要求。因此与宋代相比较,元朝务实的文化精神是十分显著的。元朝的奠基人忽必烈主张“应天者惟以至诚,拯民者惟以实惠”,强调“务施实德,不尚虚文”。据此,他提出了“科举虚诞,朕所不取”,废止了科举制度,在人才选拔上强调才干,而不单纯是“以文取胜”;一些关乎国计民生的科学文化在政府的扶持下也得到了快速发展:由政府组织的一系列大规模的天文实测活动,使中国在很多天文学领域处于世界先进水平(如黄道夹角的科学数据、星辰的数量、历法等);在地理学方面,《大元一统志》开中国官修地理总志之先河,也是中国古代史上篇幅最大的一部官修地理志书;元代编修的方志达到160种,数量超过了宋代;元政府还组织了中国历史上首次对黄河河源的实地科考;在农业技术及农学普及方面,南北东西农作物广泛交流,各地农业技术(如生产工具)取长补短,棉花种植在元代得到全面推广,很多农作物得到普及。政府加强了农业科技的总结和普及工作,司农司编辑的《农桑辑要》是中国古代政府编行的最早的、指导全国农业生产的综合性农书,鲁明善的《农桑衣食撮要》是中国月令体农书中最古的一部,王祯的《农书》是中国第一部对全国农业进行系统研究的农书;在宋代发明活字印刷术的基础上,元代发明了金属活字、转轮排字法和套色印刷术。此外,元政权对医学、造船业、陶瓷制造和水利也给予了高度的重视。
元朝以及四大汗国等政权的产生,使13世纪之后的欧亚政治格局发生重大的变化,东亚、中亚和西亚地区昔日林立的诸多政权顷刻间消失,欧洲的部分地区也纳入蒙古汗国的统治之下。毫无疑问,残酷的战争,剧烈的社会动荡,曾给欧亚各国人民带来巨大的痛苦。但是,征服战争以及随之建立的蒙古政权,在客观上带来的积极影响也是不容忽视的,它使欧亚之间经济文化交流的壁垒被打破。蒙古族统治者鼓励通商的开放政策,便利、安全的驿站交通,拉近了欧亚之间的距离,使各种文化之间的直接对话成为现实,缩短了欧亚大陆区域之间因发展不平衡以及由于地理空间和人为封闭造成的文明进程的差距。交流让中国认识了世界,世界也认识了中国,东西方之间的神秘面纱被揭开,世界文明史由此进入了新的时代。如果从中国文化史角度观察,元王朝的影响主要体现在两个方面:
优惠的通商政策、通畅的商路、富庶的国度、美丽的传说,使元朝对西方和阿拉伯世界的社会各界形成了巨大的吸引力。上都、大都、杭州、泉州、广州已具有国际化都市的色彩,泉州港成为国际最大的对外贸易口岸。旅行家、商人、传教士、政府使节和工匠,由陆路、海路来到中国,他们当中的部分人长期旅居中国,有些人还担任政府官员。据统计,这些人分别来自波斯、伊拉克、阿速、康里、叙利亚、摩洛哥、高丽、不丹、尼泊尔、印度、波兰、匈牙利、俄罗斯、英国、法国、意大利、亚美尼亚、阿塞拜疆、阿富汗等国。归国后一些人记录了他们在中国的见闻。正是这些游记,使西方人第一次较全面地掌握了中国和东方的信息,一个文明和富庶的中国真实地展示在世界面前。这些信息改变了欧洲人对世界的理解和认识。学术界普遍认为,马可波罗等人的著作对大航海时代的到来产生了至关重要的影响。
元朝通过海上“丝绸之路”进行经贸往来的国家和地区由宋代的50多个增加到140多个。海路到达非洲海岸,陆路往来直抵西欧,统一的环境为国际间、地区间的交往创造了前所未有的便利条件,史称“适千里者,如在户庭;之万里者,如出邻家”。在大量阿拉伯人、欧洲人涌向东方的同时,中国人的视野也更加开阔,对周边国家、中亚、南亚和印度洋地区的了解更加清晰,足迹甚至延伸到西亚和西欧。人们对外部世界的了解和介绍,不再局限于道听途说,而大多是亲身经历。如汪大渊的《岛夷志略》一书,所记印度洋沿岸和南海各国史实“皆身所游览,耳目所亲见,传说之事,则不载焉”。该书记录了数百个地名,以及各地的山川险要、气候物产、人物风俗,与我国的经济、文化交往情况等等,多属前人未载内容。类似的文献还有《西游记》、《西游录》、《北使记》、《西使记》、《真腊风土记》、《异域志》等,反映了元代中国人对外部世界的新认识和开阔的文化视野。
元朝的疆域
元朝统一全国后,强盛时期的疆域是:北到蒙古、西伯利亚(一说到达北冰洋),南到南海,西南包括今西藏、云南,西北至今新疆东部,东北至外兴安岭、鄂霍次克海。元朝总面积超过1200万平方千米;若到达北冰洋,则超过2200万平方千米。
全国划分为中书省和11个行中书省,以及总制院(1288年更名为宣政院)所管辖的吐蕃地区。
行省制度
行中书省
元朝地方最高行政机构,并为一级政区名称。简称行省,或只称省。元置中书省总理全国政务,也称都省;因幅员辽阔,除腹里地区直隶于中书省、吐蕃地区由宣政院管辖外,又于诸路重要都会设立十个行中书省,以分管各地区。在世祖、武宗朝三次短期设立尚书省主管政务期间,行中书省也相应改称行尚书省。元人称其制为:“都省握天下之机,十省分天下之治。”
行省制度的渊源
行省制度渊源于魏晋的行台。北朝、隋和唐初,都曾置行台(或称行台尚书省)于外州以行使尚书省职权,亦设尚书令、仆射、尚书、丞、郎等官,但不必皆备。如任职者权大位高,则称大行台。多是因军事需要而设的临时机构,唐太宗以后取消这种建置。金初,曾置行台尚书省于汴京,以治河南地,后罢。金章宗时(1190~1208),遣尚书省宰臣出征、戍边或处理地方重大事务,许便宜行事,称行省于某处。金末,为抵御蒙古和镇压农民起义,常命宰臣出镇诸路,或以宰相职衔授予地方长官,皆称行省,先后所置有大名、河北、陕西、河东、中都、山东、东平、辽东、上京、益都、京东等行省。同时,蒙古所占金地,多委付归降的金朝官吏或地方军阀管辖,并仿照金朝官称随宜命职,其辖土大者,也授为行省,如石抹明安、石抹咸得不父子为燕京行省,严实为山东西路行省(或称东平行台),张荣为山东行省(或称济南路行省),李全为山东淮南行省(或称益都路行省)等,但都不带宰相职衔,与金朝的行省不同。后来,这一类行省名号逐渐被取消。
蒙古灭金后,置中州断事官统领中原诸路民政,在燕京设立官府,时称燕京行尚书省,或燕京行台、中都行台。中亚和波斯地区也设立了类似的统治机构。蒙哥即位后,重新任命大汗直辖的上述三大地区的行政长官,称为燕京等处行尚书省事、别失八里等处行尚书省事和阿母河等处行尚书省事。当时蒙古国大汗政府还没有尚书省的建置,只是以断事官治政刑,职任略同中原官制的幸相;其分治各大地区的断事官,汉人习惯上称为行省,并非蒙古定制。如燕京行省布智儿,蒙古职名实为“大都(应作中都)行天下诸路也可札鲁忽赤”。
元朝的行省建置元世祖中统元年(1260),遵用汉法,立中书省总领全国政务,始置丞相及平章政事、左丞、右丞、参知政事等宰执官。其后,相继于各大地区建立行中书省。初期,仍沿用前代制度,以中书省宰执官出领各行省,称行某处中书省事。以后此类行省实际上已成为常设的地方行政机构,与前代所置临时性的分遣机构不同,行省官若仍以中书省宰相行省事系衔,就与中书省的权限没有区别,嫌于外重,遂更定官制,只称某处行省某官,不再带中书省宰相职衔。至元二十三年(1286),铨定省、台、院、部官,罢各行省所设丞相,只置平章政事为最高长官,以与都省相区别。后来,部分地大事繁的行省许设丞相。延祐七年(1320),复罢各行省丞相,已置者皆降为平章政事。泰定(1324~1328)以后,某些行省又设丞相,视需要及任职者的地位而定。各行省一般置平章政事两员(从一品),右丞、左丞各一员(正二品),参知政事两员(从二品),其品秩与都省官同;左司、右司合为一,置郎中、员外郎、都事,品秩皆低于都省。元末,有些行省还增置“添设”平章、右丞、左丞、参政等官。行省掌管辖境内的钱粮、兵甲、屯种、漕运及其他军国重事,统领路、府、州、县;距离省治远的地方,另设宣慰司统之,作为行省的派出机构。、
各行省设立经过和辖境如下:
①陕西行省——中统元年,立秦蜀行省(也称陕西四川行省、陕蜀行省等),治京兆(今陕西西安),其后两次移治兴元(今陕西汉中);至元八年罢,以京兆诸路直隶中书省。次年,封皇子忙哥剌为安西王,以京兆为其分地,置王相府治之。十七年,忙哥剌死,罢王相府,复立陕西四川行省于京兆;十八年,分设四川行省,于是只称陕西行省。辖境包括今陕西及甘肃、内蒙古部分地区。
②甘肃行省——中统二年,立西夏中兴行省,治中兴府(今宁夏银川),至元三年罢,改置宣慰司,隶中书省。八年,复立;十年,又罢。十八年,再立。次年,分设行省于甘州(今甘肃张掖),称甘州行省,二十二年罢。二十三年,徙西夏中兴行省治甘州,改称甘肃行省。辖境包括今甘肃省、宁夏自治区及内蒙古部分地区。
③辽阳行省——至元元年,置行省于北京(今内蒙古宁城西),称北京行省;二年罢,改置宣慰司,隶中书省。六年,又置行省于东京(后改辽阳,今属辽宁省),称东京行省,后徙治北京。十五年,又改为宣慰司。二十三年,以东北诸王所部杂处,宣慰司位轻,不足镇抚,再立东京行省,同年罢。二十四年,因乃颜叛乱,复置辽阳行省,以控制东北州县。辖境包括今辽宁、吉林、黑龙江三省及黑龙江以北、乌苏里江以东地区。
④河南江北行省——至元五年,因攻宋战争需要,立河南行省。十年,分立荆湖、淮西两行枢密院负责攻宋,罢行省,河南路仍直隶于中书省。二十八年,立河南江北行省,治汴梁(今河南开封),并割江淮行省所领江北州郡隶之。辖境包括今河南省及湖北、安徽、江苏三省的长江以北地区。
⑤四川行省——至元八年,罢陕西四川行省,另立四川行省于成都;十年罢,分置东、西川行枢密院。十五年,罢二行院,复立行省,次年复罢。十八年,从陕西四川行省中分出,又于成都置行省。其后一度再合于陕西行省,二十三年又分两省。二十五年徙四川行省治所于重庆,二十七年复还治成都。辖境包括今四川省大部及湖南、陕西部分地区。
⑥云南行省——至元十年置,治中庆(今云南昆明)。辖境包括今云南省全境,四川、广西部分地区,以及泰国、缅甸北部一些地方。⑦湖广行省——至元十一年,初置荆湖行省于鄂州(今湖北武昌)。次年,元军取荆湖南路地,立行省于江陵以治之,称荆南行省。十四年,移治潭州(今湖南长沙),称潭州行省或湖南行省。同年,鄂州行省并入潭州,并以新得广西地属之,故又称湖广行省。十八年,徙治鄂州。辖境包括今湖南、贵州、广西三省之大部及湖北部分地区。
⑧江浙行省——至元十三年元灭宋,置江淮行省于扬州,统两淮、两浙地,又称淮东行省、扬州行省。二十一年,徙省治于杭州,称江浙行省。二十三年,还治扬州,复称江淮行省。二十六年,再次徙治杭州。二十八年,以江北州县隶河南行省,改称江浙行省。大德三年(1299),罢福建行省,以其地属江浙行省。辖境包括今江苏南部,浙江、福建二省及江西部分地区。
⑨江西行省——至元十四年置,治隆兴(今江西南昌),又称隆兴行省。十五年,并入新置的福建行省(治泉州)。同年,又立行省于赣州,次年,仍还治隆兴。后因减省江南冗官,江西、福建两省曾经几次分合。大德三年福建地并入江浙,江西单为一省。辖境包括今江西省大部及广东省。
⑩岭北行省——大德十一年置和林行省,治和林。皇庆元年(1312),改和林行省为岭北行省,和林改名和宁,仍为省治。辖境包括蒙古人民共和国全境、中国内蒙古、新疆一部分和苏联西伯利亚地区。
此外,元朝还于高丽置征东行省,但行省丞相由高丽国王兼任,得自辟官属,高丽国原有的政权机构和制度均不改变,财赋亦不入都省,与元朝国内诸行省性质不同。除上述统治各大地区的行省外,元朝还设过几种专主大征伐的行省。一为征宋时所设,只称“行中书省”,不系地名;一为用兵外国时所设,系所征国名,如日本行省、交趾行省(安南行省)、缅中行省(征缅行省)、占城行省等。还有一种是授权某省负责征伐某国军事,将省名与所征国名合称,如荆湖占城行省。这些都是临时性的建置,事毕即罢。元末农民起义爆发后,元朝政府为镇压和抗拒农民军,先后于中书省辖境内的济宁(今山东巨野)、彰德(今河南安阳)、冀宁(今山西太原)、保定、真定(今河北正定)、大同等地置中书分省。又先后设立淮南江北行省(至正十二年设于扬州)、福建行省(至正十六年设于福州,后分省泉州、建宁)、山东行省(至正十七年)、广西行省(至正二十三年)和福建江西行省(至正二十六年)。农民起义军也仿元制立行省为地方行政机构,如天完政权之江南行省、汴梁行省、陇蜀行省、江西行省,宋政权之江南行省、益都行省,以及朱元璋所置江西行省、湖广行省、江淮行省、江浙行省等。
元代行省制度的确立,是中国行政制度的一大变革。明灭元后,改行省为承宣布政使司,但习惯上仍称行省,一般简称省。省作为地方一级行政区的名称,一直沿用到现代。
元朝帝王年表
一、蒙古国时期
庙号 谥号 汗号 姓名 统治时间 年号
太祖 法天启运圣武皇帝 成吉思汗 孛儿只斤铁木真 1206年~1227年 无
睿宗(元世祖追尊) 监国景襄皇帝 也可那颜孛儿只斤拖雷摄政 1227年~1229年 无
太宗 英文皇帝 窝阔台汗 孛儿只斤窝阔台 1229年~1241年 无
称制 昭慈皇后 乃马真脱列哥那摄政 1241年~1246年 无
定宗 简平皇帝 贵由汗 孛儿只斤贵由 1246年~1248年 无
称制 钦淑皇后 斡兀立海迷失摄政 1248年~1251年 无
宪宗 桓肃皇帝 蒙哥汗 孛儿只斤蒙哥 1251年~1259年 无
二、元朝时期1271年~1368年
庙号 谥号 汗号 姓名 统治时间 年号
世祖 圣德神功文武皇帝 薛禅汗 孛儿只斤忽必烈 1260年~1294年 (中统1260年~1264年,至元1264年~1294年)
成宗 钦明广孝皇帝 完泽笃汗 孛儿只斤铁穆耳 1295年~1307年 (元贞1295年~1297年,大德1297年~1307年)
武宗 仁惠宣孝皇帝 曲律汗 孛儿只斤海山 1308年~1311年 至大
仁宗 圣文钦孝皇帝 普颜笃汗 孛儿只斤爱育黎拔力八达 1312年~1320年 (皇庆1312年~1313年 延佑1314年~1320年)
英宗 睿圣文孝皇帝 格坚汗 孛儿只斤硕德八剌 1321年~1323年 至治
无 (泰定帝) 也孙铁木耳孛儿只斤也孙铁木儿 1324年~1328年 泰定
无 (元顺帝) 阿里加巴孛儿只斤阿刺吉八 1328年 天顺
文宗 圣明元孝皇帝 札牙笃汗 孛儿只斤图帖睦尔 1328年~1329年
1329年~1332年 天历
1328年~1330年至顺
1330年~1332年
明宗 翼献景孝皇帝 和西拉古图土孛儿只斤和世琜 1329年
宁宗 冲圣嗣孝皇帝 宜林奇葆孛儿只斤懿璘质班 1332年 至顺
惠宗 顺帝 图干铁木耳孛儿只斤妥欢贴睦尔 1333年~1368年 (至顺1333年 ,元统 1333年~1335年,至元1335年~1340年,至正1341年~1370年)
三、北元(1368年元朝灭亡后)时期(1368年~14世纪末或15世纪初)
庙号 谥号 汗号 姓名 统治时间 年号
惠宗 顺帝 图干铁木耳孛儿只斤妥欢铁木儿 1368年~1370年 至正1341年~1370年
昭宗 和孝皇帝 闭里可图汗 孛儿只斤爱猷识理答腊 1370年~1378年 宣光
平宗 宁孝皇帝 乌萨哈汗 孛儿只斤脱古思铁木儿 1378年~1388年 天光