唐(とう/から、英:Tang Dynasty、618年 - 907年)は、中国の王朝。李淵が隋を滅ぼして建国した。「唐」の字義は「ひろい、おおきい」をさす。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化等の面で、多大な影響を与えた。日本の場合は、遣唐使などを送り894年に菅原道真の意見で停止されるまで、影響を受けた。
国号
国号の「唐」はもともとは晋の古名であり、もとは山西省を中心とする地域を指した。古代には堯が建てたといわれる伝説上の王朝「陶唐」があり、周の時代には武王の子・唐叔虞が立てた晋の別称としての唐とは別に、今の湖北省の一部に唐を国号とする小国があったことが知られる。唐の滅亡後、五代十国時代には李存勗の後唐、十国のひとつ南唐などが唐の後継者を自認して唐を国号としたこともあったが、いずれの皇帝も唐室の血は引いていない。
李氏
唐王朝の李淵が出た李氏は、隋の帝室と同じ武川鎮軍閥の出身で、北魏・北周以来の八柱国・十二将軍と称される鮮卑系貴族の内、八柱国の一家として隋によって唐国公の爵位を与えられていた。のちに、隋から禅譲を受けて新朝を立てるという易姓革命の手続きを踏んだ際に、この爵位にちなんで唐を国号とする。
『旧唐書』・『新唐書』によれば、李氏は李耳(老子)の子孫と称し、西涼の初代王・李暠をその遠祖としている。北周に於いて鮮卑への復古政策が行われた時に、李氏は北周より大野(だいや)と言う姓を与えられ、一時的にこの姓を名乗る事になる。ただし唐李氏の系譜についてはこの西涼の李氏とは繋がっておらず、唐李氏は鮮卑系であるとの見解が戦時中に日本の宮崎市定[1]によって出され、以後日本学界ではこの考え方がほぼ定説となっているが、中国学界からは「日本軍の中国支配のために持ち出された論説である」と批判されている[2]。
唐の歴史は300年にわたり、非常に長く、また唐代の間の社会変動も大きい。そこで、ここでは唐の歴史を更に初唐、盛唐、中唐、晩唐の4期に細分して通観する。
初唐(7世紀初頭~)
李淵
武則天7世紀初頭の中国は隋が統一国家を実現していたが、第2代煬帝の内政上の失政と外征の失敗のために各地に反乱がおき、大混乱に陥った。このとき太原留守(総督)であった李淵は617年(義寧元年)に挙兵、煬帝の留守中の都、大興城(長安)を陥落させると、煬帝を太上皇帝(前皇帝)にまつりあげてその孫恭帝侑を傀儡の皇帝に立て、隋の中央を掌握した。翌618年(隋義寧2年、唐武徳元年)に江南にいた煬帝が殺害され、李淵は恭帝から禅譲を受けて即位(高祖)、唐を建国した。
建国の時点では、依然として中国の各地に隋末に挙兵した群雄が多く残っていたが、それを高祖の次子李世民が討ち滅ぼして行った。建国に勲功を立てた李世民は、626年に高祖の長男で皇太子の李建成を殺し(玄武門の変)、第2代の皇帝(太宗)となる。
太宗は外征においては当時の北方の強国突厥をくだしてモンゴル高原を支配下に置き、北族から天可汗(テングリ・カガン)、すなわち天帝の号を贈られた。また内治においては中国においてその後も長く政治の理想形とみなされた三省六部、宰相の制度が確立され、その政治は貞観の治として名高い。その治世について書かれたものが『貞観政要』であり、日本や朝鮮にまで帝王学の教科書として多く読まれた。
唐の基礎を据えた太宗の治世の後、第3代高宗の時代に隋以来の懸案であった高句麗征伐が成功し、国勢は最初の絶頂期を迎える。しかし、高宗個人は政治への意欲が薄く、やがて天后[3]であった武后(武則天)とその一族の武氏による専横が始まった。夫に代わって実権を握った武則天は高宗の死後、実子を傀儡天子として相次いで改廃した後に自ら帝位に就き、690年(載初元年)国号を周と改めた(武周)。
中国史上最初で最後の女帝であった武則天は、酷吏を使って恐怖政治を行う一方で、人材を養成し優れた政治を行った。しかし武則天が老境に入って床にある事が多くなると権威は衰え、705年(神龍元年)、宰相張柬之に退位を迫られた。こうして武則天に退位させられた息子の中宗が再び帝位につき唐を復活、周は1代15年で滅亡した。
しかし今度は、中宗の皇后韋后が第2の武則天になろうと中宗を毒殺した。韋后はその後即位した殤帝を傀儡とし、いずれ禅譲させようとしていたが、これに反対して中宗の甥李隆基と武則天の娘太平公主がクーデターを起こした。敗れた韋后は族殺され、武則天により退位させられ皇位を離れていた李隆基の父・睿宗が再び帝位につき、李隆基はこの功により地位を皇太子に進められた。その後、今度は李隆基と太平公主による争いが起こる。
7世紀後半から8世紀前半に後宮を中心に頻発した政乱は、これを主導した2人の皇后の姓をとって「武韋の禍」と呼ばれている。
盛唐(8世紀初頭~)
8世紀前半の唐
玄宗712年(先天元年)、李隆基は睿宗から譲位され、即位して玄宗皇帝となった。翌年、太平公主を殺し、完全に権力を掌握した。玄宗の治世の前半は開元の治と謳われ、唐の絶頂期となった。この時期、唐の勢威は中央アジアのオアシス都市群にまで及んだが、751年にトランスオクシアナの支配権をめぐってアッバース朝との間に起こったタラス河畔の戦いには敗れた。
玄宗は、長い治世の後半には楊貴妃を溺愛して政治への意欲を失い、宰相李林甫、ついで貴妃の一族楊国忠の専横を許した。楊国忠は、玄宗と楊貴妃に寵愛されていた節度使の安禄山と対立し、危険を感じた安禄山は755年に反乱を起こした。節度使は玄宗の時代に作られたもので、辺境に駐留する将軍に行政権も与える制度である。北方3州の節度使を兼ねて大軍を握っていた安禄山は、たちまち華北を席巻し、洛陽を陥落させて大燕皇帝と称した。
都の長安も占領され、玄宗は蜀に逃亡、その途中で反乱の原因を作ったとして楊貴妃と楊国忠は誅殺された。失意の玄宗は譲位し、皇太子が粛宗として即位した。唐は名将郭子儀らの活躍や回鶻(ウイグル)の援軍(皇太子葉護ら)によって、763年に辛うじて乱を鎮圧した。9年に及んだこの反乱は、安禄山と、その死後乱を主導した配下の史思明の名をとって安史の乱と呼ばれる。
安史の乱によって、唐の国威は大きく傷付いた。反乱鎮圧に大きな役割を果たした回鶻(ウイグル)には外交上の優位を許し、交易でも主導権を奪われて多くの財貨が漠北へと運ばれた。この大幅な貿易赤字は唐の財政を悪化させた。
また、反乱軍の将軍を味方に引き入れるため節度使に任命していった結果、辺境だけでなく本国内にまで節度使が置かれるようになった。彼ら地方の節度使は、乱の後も小王に等しい権力を保持し続けた(「河朔三鎮」)。
各地に小軍事政権(藩鎮)が割拠する状態は、後の五代十国時代まで続き、戦乱の原因となった。
以降、唐は次第に傾いていく。
中唐(8世紀半ば~)
安史の乱により疲弊した唐は中央アジアのみならず西域までも保持することが難しくなり、国境は次第に縮小して世界帝国たる力を失っていった。また、この頃になると中央では宦官の力が非常に強くなって皇帝に対し強い影響力を行使し、地方では節度使が中央政府から自立して半独立的な地方支配を行っていくようになる。節度使の増加にともない、皇帝が全国に及ぼす支配力は非常に限られたものとなっていった。
これに対し、中興の祖と言われる憲宗は禁軍(皇帝直轄軍)を強化する事で中央の命令を聞かない節度使を討伐し、朝威を回復させた。しかしその後、不老長寿の薬と称された危険な薬を常用するようになり、精神不安定になって宦官を虐殺するようになり、恐れた宦官により逆に殺された。孫の文宗は宦官を誅殺しようと「甘露の変」と称される策略を練ったが失敗し、これ以後の皇帝は宦官の意のままに動く傀儡となった。
晩唐(9世紀半ば~10世紀初頭)
文宗の弟の武宗は廃仏運動を進めた。当時、脱税目的で僧籍を取る者が多く、これらの僧を還俗させて税をとることで財政改善を狙った。この時期、牛僧孺と李徳裕の政争が激しくなり、激しい党争により政治の活力は失われていった。これは牛李の党争と呼ばれる。
政乱による国力の低下は地方の圧政につながり、859年の裘甫の乱、868年の龐勛の乱に代表される反乱が各地で起きた。874年ごろから黄巣の乱が起きる。この乱は全国に波及し、黄巣は長安を陥とし、国号を斉として皇帝となった。しかし黄巣軍の構成員はその多くが貧民の出なので政務が出来ず、自滅に近い形で長安を去った。この時に黄巣の部下だった朱温は黄巣を見限り、唐に味方した。朱温は唐から全忠の名前を貰い、以後朱全忠と名乗る。この頃になると既に唐朝の支配地域は首都長安の周辺のみとなった。
経済の先進地である河南地方の節度使となった朱全忠は、唐の朝廷を本拠の開封に移して唐の権威を借りて勢力を拡大した。907年(天祐4年)、朱全忠は哀帝より禅譲を受けて後梁を開き、唐は滅亡する。しかし、唐の亡んだ時点で朱全忠の勢力は河南を中心に華北の半分を占めるに過ぎず、各地には節度使から自立した群国が立っていた。後梁はこれらを制圧して中国を再統一する力をもたず、中国は五代十国の分裂時代に入る。
律令体制とその崩壊
西晋で作られた泰始律令以来、何度か改変が重ねられ、隋の文帝により「開皇律令」が編纂され、唐はそれを受け継いで、何度か修正が加えられつつ運用されていた。
律は刑法、令は行政法であり、これを補足するものとして格式がある。律令に当てはまらないようなことを解決するために出された詔勅のうち、それが法として新たに加えられるものが格で、式は律令を運用する上での細則である。
後述する三省六部、九品制、均田制、府兵制などは令によって規定されるもので、このような律令を中心の柱として成り立つ国家体制を律令制と呼んでいる。
唐律令は何度か変更がなされ、玄宗の737年(開元25年)にほぼ完成を見る。この律令を開元二十五年律令と呼んでおり、後世に律令のお手本とされた。
ところが、この時既に律令が現実の政治状況と乖離していたとの指摘がなされており、それに代わって詔勅と格が現実に適応するためのものとして重要な役割を果たしたとされる。律令は体制の中心としては権威を持っていたが、実際に運用するに当たっては律令がそのまま適用されると言うわけではなかった。
更に安史の乱以後は、唐全体の社会状態が大きく変わり、格式が重要視され、律令は形骸化する。
科挙と貴族政治
初唐に於いては南北朝時代からの風潮を引き継いで、未だ貴族勢力が強い力を保持していた。皇室の李氏を含めて初唐の支配者層を形成したこれらの集団はいずれも同じ関隴の地域を基盤とした貴族集団であり、この集団の事を関隴貴族集団と呼ぶ。関は関中(陝西省)、隴は現在の甘粛省東部のことである。
この関隴系の貴族は鮮卑系の北朝貴族であり、この他には漢族と北斉の流れを組む山東系貴族、そして南朝の流れを組む南朝貴族がある。血脈の尊貴さという考え方は魏晋南北朝時代を通して、強く刷り込まれており、唐が建国された後でもそれは変わらず、長い歴史を持ち最高の名門とされる山東系のもの達から見れば、関隴系は土族としか見えなかった。
これに対して自らより家格が高いとされる家と婚姻関係を結ぶ事で自らの家格を上げることが行われていたが、この場合は下の家格の者が上の家格のものに対して莫大な結納金を積むのが常であった。このような状態を打破するために太宗は貴族の格付けのための本である『氏族志』の編纂を命じ、そこで皇室の李氏を第一等とした。同じく武則天も自らの武氏を李氏に次ぐ第二等とした。
このようなことが行われる事は、家格が当時の人にとって大きな意味を持っていたと言う事を示している。
貴族勢力は政治に影響力を及ぼすに当たり、詔勅の審議を司る門下省と官僚の任免賞罰などを司る尚書吏部を支配下に置いており、貴族勢力を脅かそうとするものをこの力で排除していた。
上位官僚には課役の免除、刑罰を金銭であがなえるなどの特権が与えられており、また資蔭と呼ばれる官僚採用法があり、親の官品に応じて子が任官できる制度である。初唐の政治は貴族により掌握されており、資蔭の恩恵にあずかるのは当然貴族の子弟である。
その一方で隋より受け継いだ科挙も実施はされていたものの、資蔭によって与えられる地位よりも低い位置で任官するのが常であった。例えば最高位である一品官の子は正七品上に任官できるが、科挙では最高でも正八品上である。更に前述の通り、尚書吏部は貴族の意向が働いており、科挙出身者は冷遇された。
この体制を崩そうとしたのが武則天である。武則天自身も関隴貴族の出身ではあったが主流には遠く、女性の身で権力を握るという事への反発もあり、関隴貴族の後押しは難しい状態にあった。そこで武則天は科挙を通過してきた者を積極的に登用し、貴族政治を崩そうとした。
武則天の政治自体は705年の時点で終わったものの、次に権力を握った玄宗は武則天が登用した閣僚を使い、また科挙出身者からの登用も同じく行った。しかし玄宗が後期に堕落したことでこの方針は一時期遠のく。
中期以降の唐では科挙出身者が徐々に中央政界に進出し始める。貴族勢力の抵抗によって中々上位の官職につけない状態ではあったが、それでもその流れを押しとどめる事は出来ず、遂に国政に参加できる位置まで上る。この頃になると貴族勢力も自らの退勢を自覚しており、貴族出身でありながら科挙を受験するものも増える。
牛僧孺と李宗閔を筆頭とした科挙出身者達は貴族権力を激しく攻撃したが、政策争いから次第に党派争いへと堕し、この時期には既に唐の国力は傾いていた事もあって反って国力を弱める結果となった。
官制
律令制下の官制は三省六部を頂点とする。中書省が詔勅(皇帝の命令)の起草、門下省がその審議を行い、尚書省が配下の六部(礼部・吏部・戸部・兵部・刑部・工部)を通して詔勅を実行する。門下省の長官は侍中(2名)、中書省の長官は中書令(2名)、尚書省の長官は尚書令と呼ばれるが、尚書令は皇子時代の太宗が勤めていた時期があったため唐を通じて欠員とされ、副長官の僕射(ぼくや、左右一名づつ)が実質上の長官であった。
これら6人の省の長官たちが宰相職とされ、重要政策の決定は宰相の合議によって行われた。しかし次第に中書令の権力が強くなり、皇帝の代理人としての力を振るうことになる。
尚書六部の下には漢代以来の実務機関である九寺、五監があり、庶務を担当した。
また三省とは別に宮中の文書を扱う秘書省・皇帝の衣食などを取り扱う殿中省・後宮の管理を行う内侍省があり、合わせて六省と呼ばれる。他に監察機関として御史台があり、官僚たちの監察を行った。
これらの部署に配置される官僚達は従九品下から正一品までの計30階位に分けられている。
しかし律令制の崩壊に伴い、新たな状態に対応するために新たな官職が設けられるようになった。主なものに州の監察を行う観察使、国家財政を司る度支使、運送を司る転運使、後述の塩鉄専売を司る塩鉄使などがあり、それまでの令によって定められた役職を上回る権限を示す。これら令外官を使職と言い、令制官はそのまま形骸だけを残される。この状態は北宋にまで引き継がれ、神宗の元豊の改革まで残る。
これら使職は律令によって定められる役職の権限を上回って存在し、度支使は本来の財政担当である六部の一つ・尚書戸部を上回る権限を持つこともあり、塩鉄使はその財政上の重要さから宰相に準ずる職となる。その後、塩鉄使が転運使を兼ねて東南部の財政を、度支使が西北部の財政を監督するようになる。しかし節度使の割拠により、それらの地域の監督が難しくなると度支使と塩鉄使と戸部曹が一本化され、三司と称して中央財政を司る。
またそれまで中書省の中書舎人が行っていた詔勅の起草が、玄宗によって作られた翰林学士により奪われ、翰林学士はこれも宰相に準ずる職として大きな権限を持つ事になる。
地方制度
唐は、全国を10の道に分け、後の玄宗期に15に分けた。
道は監察など広域行政のための単位であり、実際の施政を行うのは刺史を長官とする州(郡)と、その下にあって県令を長官とする県の二本立ての行政区画である。州は全国で約350あり、県は全国でおよそ1550であった。
県の下に100戸をまとめて1里とし、5里を1郷とする行政単位がある。この制度を郷里制と呼び、これは隋より受け継いだものである。一つの里にはその里の諸事に責任を持つ里正と言う役が里の中から選ばれ、徴税・犯罪の取り締まりなどに当たった。これと並列して隣保制と言うものがある。これは郷里の中間組織として運用されていたと考えられているが、実際にどのように運営されていたかは資料の間で食い違いがあり、現在の所はっきりとは分かっていない。
安史の乱後は節度使・観察使の藩鎮勢力が地方に割拠するようになり、中央の地方への影響力は甚だ衰えた。州も本来は中央直属なのであるが、実質的に藩鎮の下部組織となってしまった。
また国内には領土の統治のために連絡用の駅伝が30里ごとに置かれており、有事に備えた。
宦官
唐代は歴代王朝の中でも後漢・明と並んで宦官悪の顕著な時代とされている。唐に於いて最初に権勢を持った宦官は玄宗の側近であった高力士である。高力士は玄宗から絶大な信頼を受け、李林甫などは高力士と結んで高位にまで上ったといわれる。高力士自身は玄宗への忠誠心で全てが出来ているような人物であり、あまり表には出ずに終わった。
安史の乱後、粛宗擁立に功績を挙げて宦官として始めて宰相となった李輔国、代宗の下で驃騎将軍となった程元振などを経て、神策軍を擁した魚朝恩の台頭の以後はほぼ宦官の存在が唐朝廷の大きな位置を占めることになる。
神策軍は元は唐の地方軍の一つに過ぎなかったのだが、魚朝恩の行動により皇帝親衛軍とされ、以後代々の長官には宦官が任命されるようになり、宦官の権力の拠り所となった。
これら宦官の専横に対して皇帝側でも宦官を排除しようとする動きが出てくる。憲宗は前述したように危険な薬物の副作用で宦官を虐殺したとされるが、これを副作用に事付けて宦官を殺そうとしていたのではないかと見る向きもある。憲宗の孫の文宗は宦官に対して不快感を抱いており、それを察した官僚李訓・鄭注は宦官殺害の策を練り、835年に「甘露が降ると言う瑞兆があった」と言う偽りを報告し、これを口実として宦官を集めて一気に殺害する計画を立てた。しかし内部の不一致によりこの計画は失敗し、李訓たちは殺される。これを甘露の変と呼び、これ以降は宦官を抑えようとする動きは無くなる。
こうして皇帝と宦官勢力の対立が表面化したこともあったが、両者は基本的に不可分の存在であった。宦官の権力の源泉は何といっても皇帝であり、皇帝なくして宦官はあり得なかった。仇子良が後輩たちに残した言葉はこのことを如実に示している。また宦官の悪が盛んに言われていたにも関わらず宦官の制度が残されたのは、皇帝側からも宦官を必要としてことを示しており、前述の皇帝側からの宦官に対する行動はあくまで宦官の専横の抑制を目的としており、宦官制度自体は唐代を通じて存された。宦官側・皇帝側、双方からの必要性があったからこそ宦官という存在がありえたのである。[4]
権勢を振るった宦官も唐末、朱全忠・李克用らが争いあい、皇帝の権力が名目のものに成り果てた状態になってからはその勢力を著しく衰えさせる。最終的に宦官勢力は902年、朱全忠の力を借りた昭宗により全滅させられるが、その2年後に昭宗は朱全忠により殺され、更にその3年後に唐は朱全忠に禅譲を行い、完全に滅亡する。
経済
唐代の単位については以下の通り。1畝=約580平方メートル。100斗=1石=59.4リットル。10尺=1丈=3.11m。1両=37.3g。
税制・兵制
唐の税制は北周以来の均田制・租庸調制であり、兵制は府兵制である。この両制度は互いが互いに不可欠な制度である。
均田制はまず全国の丁男(労働に耐えうる青年男性)一人につき永業田(その後、永久にその土地を所有する事が認められ、子孫に受け継がれる)を20畝、口分田(当人が死亡するか、60歳になるかすると国家に返却する)が80畝支給される。また官職にある者は職分田が与えられる(これは辞職した時に返却する)。その他にも丁男がいない戸、商工業者、僧侶・道士などの特別な戸に対してもそれぞれ支給量が決められている。
そしてこれらの支給に対して、租庸調と呼ばれる税を納める義務を負う。租は粟(穀物)2石、調は絹2丈と綿3両を収める。年間20日の労役の義務があり、それを免れるために収める税を庸と言い、労役一日に対し絹3尺あるいは布3.75尺を収める。
府兵制はこれらの戸籍に基づいて3年に1度、丁男に対して徴兵の義務を負わせた。
均田制・府兵制の両制度の実施には戸籍が必要不可欠であるが、玄宗期になると窮迫した農民が土地を捨てて逃亡する(逃戸と呼ばれる)事が多くなり、また窮迫した農民から買い取る事により、土地の兼併が進んだために戸籍を正確に把握することが難しくなった。均田・租庸調制と府兵制は崩壊し、それに代わる新しい税制・兵制が必要となる。
新しい兵制は節度使・募兵制である。それまでは労働税として兵役に就かせていたが、節度使制ではその土地の租税を節度使が徴収し、それを基に兵士を雇い入れて国境防備に使うというものである。
710年に安西節度使(天山山脈南路の防衛)を置いたのを初めとして719年までに10の節度使を設置している。当初はあくまで国境警備のためのものであり、辺境地域にしか置かれていない。しかしこの制度は節度使に過度の権力を持たせる事になり、安史の乱の原因となった事は前述した。安史の乱後は内地にも節度使が置かれるようになる。このことで唐は半割拠状態となり、地方の節度使は唐に対する税の貢納は行っていたものの、徐々に自立色を深めていき、最終的には節度使により唐は滅ぼされることになる。
780年に施行された新しい税制は、それまで貧乏・富裕関らずに均等な額の税を徴収していたのを財産に応じた額に改めたものである。夏(6月)と秋(11月)の年二回徴収するので両税法と呼ばれる。ただし夏に収めるものは麦であり、秋に収めるものは粟と稲である。税額は一定しておらず、まずその年に使われる年間予算を計算し、それに併せて税額を各地に割り当てるというものである。
かつて安禄山軍から投降した三人の武将に授けた節度使職を元とする成徳軍・盧竜軍・天雄軍の三つの節度使は特に独立傾向が強く、節度使の地位を世襲化し、中央に納めるべき税を納めなかった。この三つを河朔三鎮と呼んでいる。
憲宗は節度使勢力を抑えるために自立傾向の強い節度使に対して討伐を加え、その結果、反抗の度合いが薄くなった節度使の権限を縮小し、その任期を短くする事で再び反抗することを抑えようとした。この思惑は成功はするが、思わぬ副作用を生んだ。任期を短くされた節度使のポストは官僚が中央へ帰るときに使う賄賂を溜め込むための物となり、短い任期の中で厳しい収奪と兵士の食料・給料などの着服が行われるようになる。
この影響は初めのうちは不満を持った兵士が兵乱(兵士中心の反乱)を起こす事により、上司たる節度使を追放し、自分達に都合の良い節度使を地位に据えるという形で現れる。このようになると新たに強い権限を得た上級兵士の間では不正が横行するようになり、その不正を是正するために強硬な姿勢を取った節度使もいたが、これも追放された。このような兵乱の代表が裘甫の乱である。
兵乱はあくまで自分達の利益のために背いただけであって、何れは矛を収めるのが、いわば予定調和としてあった。しかし収奪された民衆は節度使にも不満を抱くが、それを抑制できない唐政府にも不満を抱き、唐にとってより危険な存在であった。龐勛の乱は初めは兵乱として始まったが、後に多数の農民が参加して民乱(民衆が中心の反乱)と化した。この乱は黄巣の乱の前段階と言え、黄巣の乱は初めから民乱として出発する。
専売制
安史の乱以後の唐の財政は苦しくなり、その打破のために758年に塩と鉄の専売制を実施した。
専売の統括をする役職が塩鉄使である。塩の産地には製造業者を集める巡院という機関が置かれ、ここで登録を受け、出来た塩は登録された塩商人に売り、外部へ塩が流出しないように監視された。
専売制によってかけられる税は莫大で、塩にかかる税額の大きさは専売制実施前が1斗が10銭であったのが実施後には110銭になるというほどであった[5]。しかもこれ以後財政が悪化するとその都度値上げされている。また、生産者の自由も制約されるようになると製塩従事者の勤労意欲も減退して、品質の低下に繋がった。
生活に不可欠な塩に対してこのような価格をつけることに不満を持った人々により塩の密売が当然行われ、政府は取締りを行って摘発者には死刑などの厳しい処分を下したが、密売人側も次第に武力を持った組織だったものになっていった。黄巣はこの集団の中から登場して晩唐を揺るがし、唐に致命傷を与えることになる。
貴族の没落と市民経済の勃興
科挙は試験によって人材を選抜する制度であるが、合格のためには長期間にわたって勉強にのみ集中できる環境が必要であり、また書物を購入するための金額もかなりの高額になることから合格するにはそれなりの財産を持つ事が必要であった。
貴族によって科挙が軽視されていた時代に科挙を受けていた層は新興地主層で、唐全体の流通が活性化したことで財産を積み上げてきた。これらの科挙合格者達は武周期を境に官界へ進出し始め、官僚としての特権を元に更に財産を積み上げて行き、豪商・富農と呼べる存在が現れてくる。
商業が活発化したことは都市の市(いち)の変化によっても知れる。唐前半までの市は場所と時間が限られており、商売するためには役所に登録しなくてはならず、また都市の区画ごとに壁を作って、自由な流通を妨げていた。しかし唐後半より、商取引を望むものの増加に伴い、そこかしこで市が開かれるようになり、時間制限や登録制は有名無実化した。また、都市以外の場所でも草市(墟市)の形成が見られた。
また煬帝によって作られた大運河も流通の柱として大きな活躍をし、その重要さから政治都市・長安より、大運河沿いの商業都市・開封が中国の中心都市の地位を奪うことになる。
これら社会の変化に貴族層は付いていけず、貴族の影響力の牙城であった門下省はその実質を失い、中書省に吸収されて中書門下と呼ばれるようになる。前述のように退勢を自覚した貴族層は科挙を受けるようになるが、流れを止めることは出来ず、五代十国時代の戦乱の中で中国史に於ける貴族と言う存在は消滅する。
これら新興地主層は五代十国の中でも更に勢力を積み上げて、北宋代の形勢戸に繋がり、この層が科挙官僚を生み出す事で士大夫層の形成へと繋がる。
荘園の形成
初唐の荘園は皇族と貴族層によって経営されていた。荘園と均田制とは相容れない存在のはずであるが、間違いなく荘園は存在していた。貴族達の持つ均田制はその範疇外にあったと見る説もあり、そもそも均田制が全国的に施行されていたのかを疑問視する説もあるが、研究途上であり、容易に結論は出ない。
均田制が崩壊して、両税法に変わった。このことは別の面から見れば大土地所有を公認した事になる。
荘園の大きさは大体10頃から100頃(58~580アール)の大きさで、雇い入れた客戸(本籍地を離れた民)あるいは奴婢に田地の耕作や農産物の加工などに当たらせる。またその土地を小作農に貸し出す場合もあり、その際に種籾や耕牛などを貸し出すが、その借り賃で破産してそのまま荘園に囲い込まれる例も多かった。
後期以降は新興地主層が荘園の主な経営者となるが、他にも新たに台頭した節度使勢力も積極的に荘園経営に取り組み、財力を蓄えた。
文化
首都の長安は世界各国から人々が訪れ、国際色豊かな都市であった。日本や新羅、吐蕃など周辺諸国からやってきた使節・留学生はもちろん、西方からはるばるやってきた僧侶や商人たちがいた。後の時代の首都である開封や杭州が東の海の道を向いていたのに対し、長安は西のオアシスルートを向いた首都であった。
思想・宗教
科挙制度において儒教の経典が必須科目となり、太宗は孔穎達に命じてそれまで注釈により解釈の違いが大きかった五経を一つの解釈にまとめる『五経正義』を編纂させた。このことによりそれまでの不便が改められ、知識階級の中での教養を共通のものとした。しかしこれによって逆に思想の発展が阻害されることにもなった。
後漢代に伝来した仏教は魏晋南北朝時代の混乱の中で飛躍的にその勢力を伸ばし、在来宗教である道教を圧するほどになった。玄奘・義浄などはインドへ赴いて大量の経典を持ち帰った。貴族・皇族の庇護を受けて大いに栄えた。特に武則天は仏教を厚く保護したことで有名である。この時代の宗派には禅宗・浄土教・密教・華厳宗などがあり、それぞれ栄えたが、三階教は徹底的に弾圧された。
皇室の李氏は李耳(老子)を祖とすると称していたので、道教は唐代を通じて厚い保護を受け、道先仏後と言う原則が定められていた。特に玄宗はその廟号も道教風であり、道教に傾倒している。しかしこの保護はあくまで皇族の間に留まり、民間では圧倒的に仏教の勢力が強かった。
その他にも長安にはイスラム教・マニ教・景教(ネストリウス派キリスト教)・祆教(祆は示偏に天。ゾロアスター教)などの寺院が立ち並び国際都市としての景観を持っていた。これらが領土の広さと並んで唐の世界国家としての象徴である。
しかし安史の乱以後は領土が縮小し、西方を吐蕃に奪われたことで次第に国粋主義的になった。第15代武宗は道教を信奉し、仏教を初めとした外来宗教を弾圧した(会昌の廃仏・三武一宗の法難の第三)。ただしこの弾圧は宗教的な色は薄く、出家することで税逃れをする私度僧と呼ばれる者を還俗させる事で財政の改善を狙う目的が主だった。しかしながらこの弾圧を契機として、仏教はもとより上記の各宗教も大打撃を被り、往時の繁栄を取り戻すことはなかった。復興した仏教も、禅宗や再興した天台宗が中心となるが、それらは、各宗が混在した仏教センター的な大伽藍中心の仏教ではなくなっていた。そのことは、禅宗教団中の新たな規則である百丈清規中の「一日作さざれば一日食らわず」という有名な言葉に表されている。
また、停滞していた儒教の方でも、変化の兆しが見られ始める。それは、韓愈の著した『原道』『原性』などの中に見られる思想で、堯舜や孔子以来脈々と続く「道統」論を提唱し、宋学の先駆となった。
文学
唐は歴代でも漢詩の最高峰とされる時代である。日本にも『唐詩選』などを通じて多く紹介されており、日本で漢詩と言えばこの時代のものを思い浮かべる人が多い。
初唐の代表的詩人として、王勃・楊炯・盧照鄰・駱賓王の四人を初唐の四傑と呼んでいる。盛唐の詩人としては王維・孟浩然・岑参・高適・王昌齢などがあり、更に李白・杜甫の中国歴代でも最高とされる両人がいる。中唐では白居易・元稹(稹は禾編に真)が代表とされ、晩唐の代表が李商隠である。
中唐において韓愈・柳宗元らにより、それまでの六朝から引き継いだ四六駢儷体と呼ばれる華美であるが、空疎になってしまう事もある文体を漢代の質実剛健な物に戻そうと言う運動が行われ、それが漢詩においても反映されている。
歴史の分野においては、太宗によりそれまでに作られていなかった時代についての歴史書を作るようにとの命が出され、『晋書』・『梁書』・『陳書』・『周書』・『隋書』が房玄齢らにより編纂された。『史記』や『漢書』などは私選の書物が後から国定に昇格したものであるが、この事業の後は正史は国選のものとされ、滅びた王朝の正史を作る事が時代の王朝にとってある種の義務となった。しかし「このことにより、正史が国家の正当を主張するための道具とされるようになった」と批判する人もいる。また劉知幾による『史通』は中国に於ける史学を開いた存在とされ、後世の史学者にとって必携の書となった。
六朝時代に誕生した志怪小説が伝奇小説へと内容的に変貌を遂げて流布するようになり、『古鏡記』や『遊仙窟』、『杜子春伝』といった数々の作品が生み出された。
美術
龍門石窟
唐三彩唐代の美術品については安史の乱や黄巣の乱により、多くが破壊され、現存するものが少ない。そこで唐代美術を伝えるものは莫高窟や龍門石窟などの石窟寺院や墳墓の中に残るものが主となる。初唐から盛唐にかけての絵画・塑像共に写実的であること、彩色が華麗であること、更に仏教美術が圧倒的に多いことが特徴であり、これらは西方の影響が強いと考えられる。
絵画に於いては閻立本・呉道玄・李思訓・王維と言った名前が挙がる。閻立本は太宗に仕え『秦府十八学士賀真図』などを描いた人で肖像画を得意とした。ボストン美術館にある『歴代帝王図』は閻立本の手によると伝えられるが、北宋代の模写であると推察されている。呉道玄は玄宗に寵愛された画家であり、人物・仏像・鬼神・鳥獣画など幅広いジャンルでそれまでの繊細な画風を改め、躍動的な絵を描いたと言う。蘇軾曰く「画は呉道士(道玄の元の名)に至りて終われり。」と。しかし作品は全て現存していない。李思訓は武則天期の人で、色鮮やかな山水画を得意とした。これに対して王維は水墨を用いた山水画を得意とし、後世からそれぞれ北宗画・南宗画の祖として扱われるようになる。これが安史の乱以降になると、西方の影響が薄れて水墨画の発展が著しくなり、次代の宋以降に繋がる流れが見られるようになる。この代表として同時代の絵画評論文集『唐朝名画録』は王墨・李霊省・張志和の三人を挙げている。
王羲之によって芸術の域にまで高められた書はその王羲之を尊崇する太宗とその周囲に集まった人物たちによって隆盛を迎える。書に於ける唐初三大家と呼ばれる存在が虞世南・褚遂良・欧陽詢である。これら初唐の書は王羲之以来の均整を重んじるものであるが、これに対して張旭は狂草と呼ばれる奔放な書体をつくり、更に張旭に師事した顔真卿は自らの意思を前面に押し立てた書体を打ち立てた。上述の呉道玄と同じく蘇軾曰く「書は顔魯公に至りて終われり。」と。[6]
陶磁器の分野では唐三彩と呼ばれる逸品が作られた。これらにはサーサーン朝の影響があると言われており、その名のとおり色鮮やかなことが特徴である。人物像や動物像(俑)などが多く、器になっているものも実用性の低いものが多い。一方、高温度で焼成する磁器も作られ始め、次代の宋代に於ける磁器の最盛期の基礎となっている。
国際関係
唐の最大領域は高宗期の7世紀半ばであり、東西は朝鮮北部から天山山脈のオアシス地帯まで、南北は外モンゴルからベトナム中部までの領域である。しかし周辺区域では異民族を緩やかに支配する間接支配を取っている。
唐の異民族支配は羈縻支配(きびしはい)と呼ばれる。この政策は冊封と似ているが、少し違い、その異民族の支配地に唐の地方制度の一単位である都督府・羈縻州を設置し、その長官に異民族の長を任命して自治権を認めるものである。完全な直接支配と冊封との間を取ったものと言える。
都督府・羈縻州の上に立って管轄するのが都護府であり、辺境に6の都護府が置かれた。
安西 - 640年設置。シルクロードの天山南路の守備。
安北 - 647年設置。外モンゴル支配。
単于 - 650年設置。内モンゴル支配。
安東 - 668年設置。朝鮮・満州支配。
安南 - 679年設置。ベトナム・その他の南海諸国支配。
北庭 - 701年設置。天山北路の守備。
盛唐までの唐は外国の文化に対して寛容であり、高句麗の高仙芝、百済の黒歯常之、日本人の阿倍仲麻呂や雑胡(異民族の混血)の安禄山のように外国人が政府の官職を受けて活躍していた。まったく外国人に対する差別が無かった訳ではないが、唐代は歴代でも極めてその傾向が低いと言える。
安史の乱以降は都護府による辺境経営が縮小し、唐の異民族政策は一気に緩んだ。このため唐は辺境地方への節度使の配置を進め、羈縻支配を改めていった。しかしこのことは周辺諸国の動きを活発化させ、ウイグルや吐蕃により唐の周辺は非常に不安定になる。9世紀にはそのウイグルや吐蕃も衰退に向かうが、唐にはもはや周辺諸国に干渉する力は残っていなかった。
北方
6世紀に巨大帝国を築いた突厥は隋の時代に東西に分裂していたが、それでもなお巨大な力を有しており、唐建国時に突厥から兵を借りているようにこの時期には明らかに突厥の力のほうが上であった。太宗即位の626年には長安のすぐ傍まで迫られて和約を結んでいる。
しかしその後の貞観の治により唐は急速に国力を拡大し、630年には突厥から独立した鉄勒と挟撃して東突厥を滅ぼして羈縻支配に組み込み、安北都護府(設置当初の名称は燕然都護府)・単于都護府を設置した。
太宗は鉄勒を初めとする諸部族から天可汗の称号を受けている。可汗(カガン)はハーン、すなわち遊牧民世界の最高君主を意味する称号であり、唐は中華帝国の王者であると共に草原の可汗でもあった。これは当時の唐帝国が帯びていた遊牧民的世界性を如実に示している。
しかしその後も、突厥の残部はその後も度々唐に対して反抗し、682年に再び独立して突厥第二帝国と呼ばれる国を建て、モンゴル高原において再び自立した。しかし突厥は745年にウイグルを中心とした部族連合(「九姓鉄勒」「九姓回鶻」)に攻められて滅び、ウイグルが突厥にかわって中央アジアから北アジアにかけて広がる遊牧国家を建設する。
ウイグルは唐に請われて安史の乱に援軍を送って以来唐に圧力をかけ続け、また高原経由の東西交易を中継して武力を背景に有利な取引を行い、中国の富を吸い上げて盛況をきわめた。しかし8世紀にキルギスの攻撃によりウイグル国家が倒壊してから後は高原を統一する勢力は消滅する。
西方
唐は640年に高昌国(現トルファン)を滅ぼしたのを初めとして、シルクロード沿いのオアシス国家を服属させて安西都護府(クチャ)を設置し、西域経営を行った。
また635年に青海の吐谷渾を支配下に置き、チベット高原の吐蕃も服属させた。しかし吐蕃に対する支配は強力なものではなく、吐蕃は度々唐の領内に侵攻し、それに対して唐から皇帝の娘と称する女性を和蕃公主として嫁がせるなどして懐柔に努めた。
唐の西域経営は8世紀前半には天山山脈・パミール高原以西のトランスオクシアナにまで及ぶが、751年のタラス河畔の敗戦によって頓挫、中央アジアの支配権はイスラム帝国に譲ることになる。
さらに安史の乱が起こると、吐蕃は安史の乱の混乱に乗じて一時期長安を占拠した。長安からはすぐに撤退したものの甘粛は吐蕃の領域に入り、シルクロードは吐蕃の手に入った。その後の787年には安西・北庭の両都護府が吐蕃に陥落させられ、唐の西域経営は終わる。吐蕃は唐の西方防備を大いに悩ませたが、ウイグルら周辺諸国が次々に唐との共存策に移ったことから唐との紛争を続けられなくなり、822年に唐と和睦した。
さらに9世紀には吐蕃も国内の争いから衰退し、天山ウイグル王国や甘州ウイグル、タングート(後の西夏)などの新勢力の勃興を許した。唐の西域経営後退後もこれらによる中継貿易による内陸の東西交易路は維持され、依然として盛況を示した。さらに8世紀以降はインド洋・南シナ海を通じて西アジアの商人と唐の商人が直接取引きする南海交易が次第に盛んになり、数多くのアラブ人やペルシア人のムスリム商人が広州に来航した。
東方
隋以来、中国の王朝と敵対関係にあった東の高句麗に対しては、太宗・高宗期に計5回の遠征軍を送るが、全て失敗した。しかし新羅と連合して660年にまず南の百済を滅ぼし、668年には最終的に高句麗を滅ぼすことに成功、平壌に安東都護府を設置する。
しかしその後は新羅が勢力を拡大し、半島の支配をめぐって唐と対立するようになると安東都護府は遼東半島にまで後退せざるを得なくなり、朝鮮半島では統一新羅が誕生する。新羅はその後、唐の冊封を受けて和解した。
一方同じ頃、東北地方(満州)ではこの地方に移住させらされた高句麗の遺民たちが中心となって震国(のち渤海)を立て、唐から独立した。当初はこの国に対して遠征軍を送ったが、この国が朝貢を行うようになると渤海郡王に冊封した。やがて渤海王・大武芸は黒水靺鞨の支配をめぐって唐と対立し、733年には水軍を送って山東半島の登州を一時占領したが、間もなく講和した。
渤海と新羅はお互いを仮想敵国とみなし、日本を巻き込んで外交戦を繰り広げたが、唐の時代を通じてそれぞれが唐への朝貢を続け、東方は唐にとって比較的安定した領域であった。
南方
南越の滅亡以来、長い間中国の支配下に置かれていたベトナムは、漢代から何度と無く独立運動を起こしており、この地に安南都護府を置いていたが、反抗は激しく実質的に統治は出来ていなかったようだ。
安史の乱で唐が衰えて以降は、吐蕃の盟下にいた雲南の南詔が勢力を拡大、四川の成都付近まで進出した。また南詔は、唐の安南都護府を何度か滅ぼし、その都度奪回はしてはいたものの、もはやこの地方に唐の支配力は及ばなくなっていった。
日本との関係
日本からは太宗の時代から散発的な遣使があったが、唐が660年に日本の同盟国である朝鮮半島の百済を新羅と結んで滅ぼすと敵対関係となった。さらに663年、唐・新羅の連合軍は百済の残党と日本の援軍を白村江の戦いで打ち破る。
しかしこの戦いは結局日本へこれ以上の大陸への政治的接触を断念させることになり、やがて遣唐使による平和的通交が再開された。遣唐使は合計16度にわたって日本から唐へ派遣され、先進の唐文化を吸収した。唐の国号は日本において中国の代名詞のように使われるようになり、大陸を意味する日本語の「から」「もろこし」などの言葉に「唐」の字があてられて使われた。
9世紀になると唐の衰えと日本独自の文化の発展から日本側が危険を冒して遣唐使を送る意欲を失っていった。894年、菅原道真の建議により遣唐使は廃止され、その後明の時代まで、長らく中国の王朝と日本の間に国家レベルの正式の通交はなかった。
唐朝(618年~907年),是中国历史上最重要的朝代之一,也是公认的中国最强盛的时代之一。
李渊于618年建立了唐朝,以长安(今陕西西安)为都,后来又设洛阳为东都。其鼎盛时期的公元7世纪时,中亚的沙漠地带也受其支配。在690年,武则天改国号“唐”为“周”,迁都洛阳,史称武周,也称“南周”直到705年唐中宗恢复大唐国号。唐朝在天宝十四年(755年)安史之乱后日渐衰落,至907年梁王(朱温)篡位灭亡,共延续了289年,传了20位皇帝(加武则天则为21位皇帝)。唐在文化、政治、经济、外交等方面都有辉煌的成就,是当时世界上最强大的国家之一。
文化方面,当时的东亚邻国包括新罗、渤海国和日本的政治体制、文化等方面亦受其很大影响。
军事方面,在继北魏破柔然之战之后,唐朝又一次取得了中原王朝对大漠部落的军事上的巨大胜利。
经济方面,到了唐玄宗时期,唐朝经济已经远超过了同一时期的拜占庭以及阿拉伯。
“唐”这国号是晋的古名,泛指今山西省的中心地域。传说君主尧号称“陶唐”氏。周朝时在现今湖北省有一小国唐国。李渊在隋朝时继承唐国公;在隋恭帝禅让后便以唐为国号。唐朝灭亡后,五代的李存勖所建的后唐和十国的南唐都自称是唐朝的承继者而用“唐”作为国号。事实上他们的皇帝与唐王朝并无血缘关系。
唐朝皇族李氏自称出自汉族的赵郡名望,同时李氏家族也是陇西军事贵族。陇西李氏从秦代开始就是中国著名的武将军人世家。这个家族涌现过西汉飞将军李广等著名将军。不过也有人对此说法表示怀疑,认为唐朝皇族李氏为鲜卑血统。而《旧唐书》和《新唐书》中则称唐朝皇族李氏是老子李耳的子孙,十六国的西凉开国君主李暠亦是其远祖。北周时期,奉行关陇集团的本位政策,李氏改成“大野氏”,这是一个新创立的姓氏。北周灭亡后,又恢复为李氏。
唐朝连同隋朝被历史学家黄仁宇认为是相继于秦汉之后的中国第二帝国时期,日本历史学者则普遍认为唐朝是中国“中世”时期的结束。唐朝国力在中国历史上数一数二,因此华人也被称为“唐人”,现今西方华人聚居处也被称为“唐人街”。
唐朝历史
隋炀帝统治后期,暴虐无道。爆发隋末农民大起义。617年五月,太原留守、唐国公李渊在晋阳起兵,十一月占领长安,拥立杨侑为帝,改元义宁,即隋恭帝。李渊任大丞相,进封唐王。大业十四年三月隋炀帝在江都被大臣宇文化及杀死,隋朝灭亡。
同年五月,李渊称帝,定国号为唐,李渊就是唐高祖。改元武德,都城仍定在长安。而后,长子李建成被封为太子,次子李世民为秦王,三子李元霸早夭,四子李元吉为齐王。唐朝建立后,李渊派李世民征讨四方,剿灭各方群雄。武德九年六月初四,四方征战有功的李世民发动玄武门之变,李建成和李元吉被杀。李渊退位,是为太上皇。李世民即位,李世民就是唐太宗,改元贞观。
贞观之治
太宗时期将为突厥所支配的蒙古高原纳为势力范围,唐朝北方的诸民族专称李世民为天可汗。内政方面承继了宰相制,发展完善和确立了后世运用的三省六部和科举选士制,又推行均田制,实行租庸调制,他不计出身,网罗了一大批精明强干的大臣,不论降将或建成旧臣,他也一一重用。例如魏征,为前太子建成的幕臣,太宗登位后不计前嫌,而且事事也听从魏征的劝练。这时期社会秩序安定,经济繁荣,历史上称为“贞观之治”。其政绩的总结《贞观政要》成为日本和朝鲜的帝王教科书,亦为后世君主模彷学习的对象。
日月当空
唐太宗晚年,因为太子的问题而烦恼,太子李承乾与魏王李泰内斗,结果太宗也废掉他们二人,并立仁孝的第九子晋王李治为太子。唐太宗死后,李治即位,是为唐高宗。高宗时期对外接受了新罗之请,终于灭了高句丽和百济并打败日本援军。使新罗统一朝鲜半岛。唐高宗在太宗晚年,结识了唐太宗的才人武氏,在太宗死后,武氏入感业寺为尼。时高宗的王皇后与萧淑妃内斗,王皇后准许高宗接武氏回宫。武氏入宫后,先后使高宗废了王皇后及萧淑妃。在大臣的反对下,高宗立武氏为皇后。
高宗健康状况不好,许多政事都交给皇后武氏来处理。高宗死后不久,武皇后立太子李显为帝,是为唐中宗。不久又废中宗为庐陵王,改立另一个儿子李旦为帝,是为唐睿宗。平定了徐敬业领导的反叛后,在天授元年(690年),皇后武氏废睿宗秸号称帝,改国号“唐”为“周”,称圣神皇帝。武后也成为了中国历史上唯一自称皇帝的女人,前后掌权50余年。由于谥号中的“则天”二字,所以近代以来一些学者称其为“武则天”,但这是一个不严谨的称号。
在武周十五年统治时期,武后为了制衡甚至打击高宗以来的世家大族的权力,所以对以科举进身仕途的官员大力提拔。狄仁杰是其中的代表。她又安排她的侄儿党羽武三思和武承嗣等人担任重要机务。传统史学家对武后批评,如索元礼、来俊臣和周兴等官员在她的鼓励下替她以告密、酷刑等监视群臣。武后又常绕过门下省,中书省直接对官员发号施令,开了破坏官吏制度的先例。
男性内侍张昌宗弟兄和薛怀义等。不过传统男性皇帝的后宫亦很多。武后对佛教亦大力推崇,例如武周时期的佛寺兴建频繁,使用年号证圣、大足等;这与李氏皇族推崇道教和如贞观、永徽、景云、开元等年号相对。另外武后成了后来唐朝后宫女性争权的效法者。
韦氏当权
神龙元年(705年),敬珲和宰相张柬之等人发动政变,拥立中宗李显复位,恢复了唐朝的政权。李旦被立为相王。中宗却一直受到韦皇后、女儿安乐公主和武后的旧有党羽武三思等人的影响,张柬之和敬珲等人全部被流放或诛杀。韦皇后有意成为第二个武后,安乐公主则曾要求被立为皇太女。在景龙四年(710年)韦皇后和安乐公主合谋毒杀中宗,韦皇后立温王李重茂为帝,是为少帝,并欲加害相王李旦。李旦的儿子,当时是临淄王的李隆基在姑母太平公主的协助下发动政变,诛杀韦皇后、安乐公主及武氏残余势力,拥立李旦复位。
开元盛世
后来睿宗妹太平公主与李隆基发生权力之争。延和元年(712年),睿宗让位于太子李隆基,李隆基即唐玄宗,又称唐明皇。713年,唐玄宗将太平公主赐死,党羽或杀或逐,结束了这段史称“韦后之乱”的混乱政局。同年改元开元。唐玄宗在位44年,前期(开元年间)政治比较清明,经济迅速发展,唐朝进入全盛时期,史称“开元盛世”。这一时期被认为是继汉武帝时期之后,中国历史上出现的第二次鼎盛局面。首都长安城成为当时世界上最大的城市。
安史之乱
唐玄宗改元天宝后,志得意满,决意放纵享乐,从此不问国事。在纳杨玉环为贵妃后,更加沉溺酒色。唐玄宗任用有“口蜜腹剑”恶名的李林甫为宰相长达十八年,使得朝政败坏。李林甫死后又以杨国忠为相,此时期又开始出现了宦官干政的局面,高力士的权势炙手可热。唐玄宗好大喜功,为此边境将领经常挑起对异族的战事,以邀战功。又由于当时兵制由府兵制改为募兵制,使得节度使与军镇上的士兵结合在一起,就出现了边将专军的局面。其中以胡人安禄山最著。安禄山掌握重兵,在天宝十四载(755年)十一月趁唐朝政治腐败、军事空虚之机和史思明发动叛乱,史称“安史之乱”。唐玄宗逃到成都,太子李亨在灵武称帝,是为唐肃宗,奉玄宗为太上皇。安禄山则自称大燕皇帝,年号圣武。经过8年时间这场叛乱才被平定。
大唐衰落
唐朝元气大伤,从此由盛转衰。此时均田制已经逐步瓦解,土地兼并现象日趋严重,租庸调制也无法实行。藩镇割据的形势已经形成。
唐代宗时,刘晏改革盐法,改善了国家的财政状况,唐德宗任用杨炎为宰相,于建中元年(780年)开始实行两税法,一年分夏、秋两季依土地征税。唐德宗还力图平藩,但是引起朱滔、李希烈、朱泚叛乱。结果发生奉天之难。战争持续了5年,最后虽然朱泚和李希烈等败死,但是唐朝却与其余藩镇妥协,条件是取消王号,朝廷承认他们在当地的统治权。从此割据局面进一步深化。
元和中兴
自此以后,唐朝有吐蕃、回纥、南诏等外患,内有宦官掌权,禁军兵权甚至皇帝的废立都由宦官决定。节度使对地方有独立于中央的管理权。唐德宗死后,经过了顺宗的过渡阶段,然后由永贞内禅而受宦官支持的唐宪宗登基,依靠禁军的兵力令全国所有的藩镇至少名义上全部归服唐朝,史称元和中兴。
会昌中兴
宪宗末年,以牛僧孺和李德裕为首的大臣之间的朋党之争亦越演越烈,使宦官更加得势。牛党、李党相继执政,史称“牛李党争”。
唐文宗在太和九年(835年)与李训和郑注等发动甘露之变,密谋诛杀宦官失败。甘露之变而后,宦官团结一致;群臣唯有借藩镇兵力对抗宦官权力,埋下残唐时藩镇和宦官的直接冲突。
文宗死后,唐武宗继位,建元会昌。武宗在宦官仇士良的拥立下,经过派系斗争而继位。由于拥立武宗的宦官仇士良鉴于朝廷派系林立,不得已给武宗亲自处理朝政,武宗重用李党首领李德裕,削减仇士良的权力。武宗一连串振兴朝廷的政绩,史称会昌中兴。武宗重视道教,禁止道教以外的佛教、景教等。故在佛教史上列为三武灭佛的其中一位称号武字的君主。又称为会昌灭佛。
宣宗之治
唐武宗死去后,唐宣宗在宦官的协助之下继位。未即位前的宣宗表面上是容易被宦官利用的君主。但即位以后励精图治。一改唐武宗的封杀佛教政策,再次尊崇佛教。
残唐而亡
宣宗之后,唐懿宗与唐僖宗是著名的无能之君,使唐朝的国势一直走下坡。唐朝后期,战争不断,经济政治衰退,唐宣宗大中十三年(859年)爆发唐末农民战争,经过黄巢的打击,唐朝统治名存实亡。经过黄巢之乱后,把唐朝的基础打破。而宦官所管理的禁军也损失过重,所以宰相与宦官争权不断。黄巢之乱后,唐僖宗在节度使的动乱之中去世,由弟唐昭宗继位。
而朱全忠与李克用成为唐末的风云人物,在朝廷各树党派,在朱全忠的支持下,宰相派胜利,朱全忠入宫尽诛宦官。天佑二年(905年),朱全忠大肆贬逐朝官,并全部杀死于白马驿,投尸于河,史称白马驿之祸。唐昭宗被朱温毒死。天佑四年(907年),朱全忠逼唐哀帝李祝禅位,改国号梁,是为梁太祖,改元开平,定都于开封。唐朝灭亡。
【疆域和政区】
大唐盛时疆域图唐朝的疆域在最盛时期东至朝鲜半岛,西达中亚咸海,南到越南顺化一带,北包贝加尔湖。唐朝周围的异族很多,为了有效管理突厥、回纥、靺鞨、铁勒、室韦、契丹等,分别设立了安西、安北、安东、安南、单于、北庭六大都护府。
但安史之乱后数十年间,由于大量河陇边兵参与平乱(主要为陇右节度使、朔方节度使所部)导致边防空虚,吐蕃趁势进逼,回纥则入据河套草原,使得唐政府能控制之疆域大减,黄河以西甘、凉皆不可得,终唐之世对于敦煌以西之控制亦完全丧失。在东北由于新罗的崛起,安东都护府早已撤回辽河以西,同时契丹、奚等部族成为大患。西南方面吐蕃和南诏亦在中唐之后令唐政府蒙受重大损失。
唐代开创了中国政区史上道和府的建制。贞观元年(627年),太宗分天下为10道:关内、河南、河东、河北、山南、陇右、淮南、江南、剑南、岭南等十道。贞观十四年(640年),全国共设360州(府),下辖1557县。开元年间又将山南、江南各分东西,并增置京畿、都畿、黔中道,形成十五道的格局。道下设州、府,州、府下再设县,开元末年,全国共有州、府三百二十八座,县一千五百七十三座。
官吏制度
中央官制
三师:太师、太傅、太保(荣誉职务);
三公:太尉、司徒、司空(荣誉职务);
三省:中书省(决策、秘书)、门下省(侍从、谏议)、尚书省(行政)、;
尚书省下辖六部:吏部(人事)、户部(户口、财政)、礼部(礼宾)、兵部(国防)、刑部(法院)、工部(工程、水利);
一台:御史台(监察);
五署:国子监、少府监、将作监、军器监、都水监(循旧制,与六部分工);
九寺:太常寺、光禄寺、卫尉寺、宗正寺、太仆寺、大理寺、鸿胪寺、司农寺、太府寺(与六部分工合作)。
散官:(荣誉职务)。
地方官制
虚设(道)置观察使
州(郡):刺史(太守);别驾、长史、司马;录事、参军事;
六曹:司功、司仓、司户、司兵、司法、司士。
县:县令;县丞、主簿;县尉、录事、佐史。
乡:耆老;
里:里正;
村:村正;
保:保长;
邻:邻长。四家一邻,五邻一保,五保一里,五里一乡;一自然村为一村。城市内无村设坊,坊正和村正同级。
科技
天文学家僧一行在世界上首次测量了子午线的长度;药王孙思邈的《千金方》是不可多得的医书;868年,中国《金刚经》的印制是世界上已知最早的雕版印刷。中国的造纸、纺织等技术通过阿拉伯地区远传到西亚、欧洲。
军事
在军事上,唐朝是中国历史上战绩很彪炳的朝代。军力强大是唐代的一个鲜明的特点。唐朝统一了隋朝末群雄割据的中国。唐太宗、高宗、武后在位时又远征东西两突厥,灭高昌、收其地为州县,灭高句丽和百济并在白村江战役打败日本援军,又与靺鞨、铁勒、室韦、契丹等民族征战。当时唐朝在亚洲军事制度,经济和科技的优势都是这些战绩的基础。唐玄宗时唐朝的势力与来自现在阿拉伯、新兴和信奉伊斯兰教逊尼派的阿拔斯王朝(即黑衣大食)的势力在包含昭武九姓国、大小勃律、吐火罗在内的中亚诸国相遇,结果唐朝在怛罗斯战役战败,中国的势力从此退出中亚。接踵而至的安史之乱和藩镇割据导致华北地区经济萧条和胡化。
唐朝的众多著名将领中,除了凌烟阁二十四功臣中的将领、郭子仪、李晟及其子李愬、高骈等汉族统帅外﹐异族将领也占据了重要地位:比较重要的有杂种胡安禄山、史思明、百济人黑齿常之、高句丽人高仙芝、契丹人李光弼、靺鞨人李怀光、突厥突骑施部人哥舒翰、铁勒部的仆固怀恩、浑瑊和阿跌光进等。
均田制和租庸调制的破坏导致府兵制改为征兵制和募兵制。安史之乱中,临时代府兵制而起的扩骑并不能抵御与节度使的兵力。自始唐朝在军事上失势:内有藩镇割据,外有回纥、吐蕃、南诏的入侵。例如唐朝需要借回纥兵来平定安史之乱,763年吐蕃军曾经占领长安达十五日,南诏军一度攻打成都并占领安南直至十国的南汉才收回。唐朝防备南昭之士兵不满又导致了庞勋之变。后来的黄巢的流寇叛乱导致朱全忠和沙陀人李克用的争战,直至唐朝灭亡后依然未平息。
经济
1.货币
唐王朝建立后,迅速出台了自己的铸币政策。武德四年(621年)七月,“废五铢钱,行开元通宝钱,径八分,重二铢四絫,积十文重一两,一千文重六斤四两”。确立了国家铸币的法币地位。同时,又继承魏晋南北朝时期以绢帛为货币的传统,实行了“钱帛兼行”的货币制度——钱即铜钱,帛则是丝织物的总称,包括锦、绣、绫、罗、绢、絁、绮、缣、紬等,实际上是一种以实物货币和金属货币兼而行之的多元的货币制度。唐政府不断出台严厉打击私铸和滥铸等的法令,并禁断使用恶钱,但是由于铜钱供应量严重短缺,币值不断上升坚挺,私铸和滥铸有暴利可图,所以成效并不理想。 两税法实行以后社会发展中长期存在的一大矛盾,突出表现为钱重物轻即所谓“钱荒”问题的不断恶化。
文化艺术和宗教
唐朝由于经济发达,文化在当时也处于世界领先的地位,与世界许多国家的文化交流非常频繁。朝鲜、日本派来许多留学生到长安学习。唐朝同阿拉伯地区的友好往来,使绿宝石、胡椒、伊斯兰教先后传入中国。敦煌莫高窟中的壁画和雕塑有40%是唐代的作品。
唐朝最令人瞩目的文学成就可算唐诗。自陈子昂和“初唐四杰”起,唐朝著名诗人层出不穷,盛唐时期的李白、杜甫、岑参、王维,中唐时期的李贺、韩愈、白居易,晚唐时期的李商隐、杜牧是其中的几个代表。他们的诗作风格各异,既有对神话世界的丰富想象,又有对现实生活的细致描写,既有激昂雄浑的边塞诗,亦有沉郁厚重的“诗史”,还有清新脱俗的田园诗。这些诗作共同构成了中国文学成就的杰出代表。后世宋、明、清虽仍有杰出诗人出现,但律诗和古诗的总体水平都不如唐朝诗人,使得唐诗成为了中国古诗不可逾越的巅峰。
首都长安小雁塔近景唐朝的传奇小说继承六朝笔记小说的传统并有新的发展。从唐传奇起,小说真正开始有完整的故事结构和人物关系,并开始反映社会现实。唐朝的传奇代表作有:《枕中记》《莺莺传》和《李娃传》等,这些作品为后世宋朝的话本和明清小说的发扬光大奠定了基础。
唐朝前期的宗教政策比较宽容,中国传统两大宗教——佛教和道教都有较大发展。唐朝初年,高僧玄奘远赴天竺(现在的印度)取经657部,唐朝特此兴建了大雁塔来保存这些佛经。佛教经典的大量翻译以及中国僧人自身思想体系的逐渐成熟使得中国佛教在此时期迎来空前的发展,中国佛教的各主要宗派大多在此时期形成或成熟。其他宗教如伊斯兰教,景教(基督教聂斯脱利派)和祆教也随着国际交流传入中国。唐武宗时对佛教采取高压政策,史称会昌灭法,使得除禅宗等少数宗派外,其他佛教派别从此一蹶不振。
外交
唐朝政府对外推行的是比较友好的外交政策。641年,唐太宗派人护送文成公主到吐蕃,与赞普松赞干布结婚。其后还有金城公主下嫁赞普赤德祖赞,并结成联盟,将唐朝的先进文化带到了吐蕃。822年,唐蕃会盟,划定了疆界,互不侵犯,唐蕃会盟碑现在还保存在拉萨的大昭寺。794年,唐朝与南诏在点苍山会盟,双方建立了良好的关系。
帝王年表
显庆 656年~661年
龙朔 661年~663年
麟德 664年~665年
乾封 666年~668年
总章 668年~670年
咸亨 670年~674年
上元 674年~676年
仪凤 676年~679年
调露 679年~680年
永隆 680年~681年
开耀 681年~682年
永淳 682年~683年
弘道 683年
中宗(被废) 大和大圣大昭孝皇帝 李显 684年,705年~710年 嗣圣 684年
睿宗(被废) 玄真大圣大兴孝皇帝 李旦 684年,710年~712年 文明 684年
则天顺圣皇后 武曌 684年~705年 光宅 684年
垂拱 685年~688年
永昌 689年
载初 690年
凌烟阁大唐开国二十四功臣为:
长孙无忌、李孝恭、杜如晦、魏征、房玄龄、高士廉、尉迟敬德、李靖、萧禹、段志玄、刘弘基、屈突通、殷开山、柴绍、长孙顺德、张亮、侯君集、张公谨、程知节、虞世南、刘政会、唐俭、李绩、秦叔宝。
赵公长孙无忌第一。李世民长孙皇后之兄,自幼与李世民友善,李渊太原起兵后投靠李世民。参与李世民历次战役,起到非常重要的作用。终身为李世民信任,李世民评价为“我有天下,多是此人之力”。李世民去世后,辅佐唐高宗。反对唐高宗立武则天为皇后,后来武则天被诬陷谋反,自杀。
赵郡王李孝恭第二。其父为李渊堂弟,李渊起兵后,他负责经略巴蜀。得李靖之助,灭萧铣、辅公佑,长江以南均受其统领,战功几可与李世民分庭抗礼。李世民登基后,退出权力中心,以歌舞美人自娱。贞观十四年,暴病身亡。
莱公杜如晦第三。李世民主要幕僚。攻克长安时投靠李世民,得房玄龄推荐而受李世民重用,为十八学士之首。参与李世民历次战役。玄武门之变主谋。贞观年间与房玄龄共掌朝政,但于贞观四年病故,年仅四十六岁。其死深为李世民痛惜,死后极尽哀荣。
郑公魏征第四。原为李密谋士,后随李密降唐,为唐朝招降李世绩。窦建德进攻河北时被俘,窦灭亡后重回唐朝,为太子效力。玄武门之变后,归顺李世民。因感知遇之恩,凡事知无不言,以进谏著称。终生深受李世民信任,李世民评价说贞观之前辅佐之功以房玄龄第一,贞观之后以魏征第一。贞观十六年病故。
梁公房玄龄第五。李世民主要幕僚,善于谋略。李渊起兵后派李世民进攻渭北,受温彦博推荐投入李世民幕府,被委以心腹,参与李世民历次战役。玄武门之变主谋。李世民登基后论功行赏,被比为汉之萧何。贞观年间负责行政,为相近二十年,深得李世民信任。李世民出征高丽时被委以留守重任。贞观二十三年病故。
申公高士廉第六。李世民长孙后、长孙无忌的亲舅舅,二人之父早死,实际由高士廉抚养。高对李世民极为器重,以至主动将长孙后许配给李世民。因得罪杨广,被发配岭南,随后中原大乱,被隔绝在外,直到李靖灭萧铣南巡时才得以回归。其人善行政、文学,为李世民心腹,参与玄武门之变的策划。
鄂公尉迟敬德第七。原为刘武周部将,刘武周灭亡后投降李世民。起初不被众将信任,几乎被处死,但李世民坚持起用他。唐郑决战时有单骑救主之功,得以稳固地位,此后以勇将身份参与李世民历次战役。玄武门之变的主要角色,亲手杀死齐王元吉,又率兵威逼李渊下旨立李世民为太子,拥立之功第一。突厥倾国进犯时以骑兵迎击取胜,为李世民求和打下基础。天下安定后无用武之地,晚年闭门不出,最终得享天年。
卫公李靖第八。是“使功不如使过”的典型,曾试图揭发李渊谋反,因此几乎被李渊处死,幸而为李世民所救。后来戴罪立功,协助李孝恭经营巴蜀、灭萧铣、辅公佑,被李渊评价为“萧、辅之膏肓”。拒绝李世民的拉拢,未参加玄武门之变。贞观年间负责抵御突厥,成功地消灭突厥政权,战功无人可及。后来又挂帅出征,消灭吐谷浑势力。因军事能力过高遭人疑忌,屡次被诬告谋反,为免嫌疑,主动退休闭门不出,直到老死。
宋公萧瑀第九。隋炀帝萧后之弟,以外戚为隋炀帝重臣。因反对出征高丽,被贬为河池郡守,到任后受薛举进攻,奋力抵御。李渊起兵后,归附唐朝,善行政,终生为李渊重用。李世民即位后,因与房玄龄、杜如晦不和,多次得罪李世民,仕途沉浮,但从不“改过自新”。后来李世民评价其为“疾风知劲草,板荡识诚臣”。
褒公段志玄第十。李渊在太原时的旧部,首义功臣。参加李唐历次重要战役,以勇武著名。李世民兄弟相争时,拒绝建成、元吉的拉拢,忠于李世民,并参加了玄武门之变。其人治军严谨,李世民评价为“周亚夫无以加焉”。贞观十六年病故。
夔公刘弘基第十一。游侠,隋炀帝征高丽时,因避兵役逃往太原依附李渊。太原起兵时,与长孙顺德一同负责招募勇士,有大功。进攻长安途中于霍邑之战阵斩隋主将宋老生,攻克长安后被评为战功第一。进攻薛举时在浅水原大败,力尽被擒,李世民灭薛氏后获救。又在刘武周进攻太原时战败被俘,侥幸自己逃回,随后配合李世民在介休歼灭宋金刚。因唐朝与突厥关系恶化,常年驻守北边抵御突厥。贞观年间曾随李世民征高丽。唐高宗时病故。
蒋公屈突通第十二。原为隋朝大将,历仕杨坚、杨广,战功赫赫。杨广南巡江都,委以镇守都城长安的重任。李渊起兵后进攻长安,屈突通率部下死战,力尽后自杀未遂,最终投降李渊,被封为兵部尚书。后参与唐朝历次重大军事行动,尤其灭王世充被评为战功第一。后被委派镇守洛阳,于贞观元年病故。
郧公殷开山第十三。李渊旧部,太原起兵时投奔李渊,参与进攻长安。进攻薛举时,在浅水原大败,与刘文静一同被追究责任,贬为庶民。后随李世民灭薛氏有功,得以重被任用。参加李世民历次战役,在进攻刘黑闼时,得病身亡,是凌烟阁功臣中最先去世的一个。
谯公柴绍第十四。李渊之婿,娶平阳公主。李渊起兵时身在长安,侥幸逃脱追捕前往太原。参与攻克长安、灭薛举、刘武周、王世充、窦建德等重要战役。贞观年间作为主将消灭最后一位反王梁师都。贞观十二年病故。
邳公长孙顺德第十五。李世民长孙后之叔,外戚。隋炀帝出兵高丽时,为避兵役逃往太原依附李渊,与李氏父子友善。太原起兵时,与刘弘基一同负责招募勇士,有大功。进攻长安时任先锋,擒隋主将屈突通。此后功劳不显。玄武门之变充当打手角色。贞观年间因多次贪污被弹劾,李世民不忍治罪,只贬官而已,病故。
郧公张亮第十六。原为李密部下,隶属李世绩,随李一同降唐。得房玄龄、李世绩推荐入李世民幕府。李世民兄弟相争时,派其到洛阳招募私党,被元吉告发而下狱,张拒不招供掩护了李世民,因而有功。贞观年间,因善于行政而颇得信任,又揭发侯君集谋反、随征高丽而立功。但其后因好巫术而逐渐名声败坏,贞观二十年被告谋反,受诛。
陈公侯君集第十七。李世民心腹,常年担任其幕僚。玄武门之变的主要策划人。贞观年间,担任李靖副将击败吐谷浑,又任主将击灭高昌。回朝后因私吞高昌战利品而被弹劾,为此怀恨在心。李世民诸子争当太子的斗争中,依附太子李承乾,图谋杀李世民拥立承乾,事泄被杀。
郯公张公谨第十八。原为王世充部下,后投降唐朝,受李靖推荐进入李世民幕府。因参与玄武门之变的谋划而得到赏识,又在事变时充当主要打手,功劳很大。李世民登基后,以其为李靖副将抵御突厥,协助李靖灭亡突厥。次年病故,仅三十九岁。
卢公程知节第十九。本名程咬金,原为瓦岗军勇将,李密失败后降王世充,因不满王的为人,与秦叔宝一同降唐,分配到李世民帐下。参加李世民历次战役。玄武门之变的主要打手。唐高宗时出征贺鲁,屠杀已投降的平民,因此免官,后病故。
永兴公虞世南第二十。隋朝奸臣虞世基之弟,自幼以文学著称。宇文化及江都兵变后被裹胁北返,宇文被灭后归窦建德,窦死后入李世民幕府。此后尽心辅佐李世民,被评价为德行、忠直、博学、文辞、书翰五绝。贞观十二年病故。
渝公刘政会第二十一。李渊任太原留守时的老部下,随李渊起兵,首义功臣。此后负责留守太原,刘武周进攻时被俘。忠心不屈,还找机会打探刘武周军情秘报李渊。刘武周灭亡后获救。曾担任刑部尚书,贞观九年病故。
莒公唐俭第二十二。唐家与李家均为北齐大臣,有世交之谊,唐俭亦与李渊为友。参与李渊太原起兵的策划,为首义功臣。最大功劳是揭发独孤怀恩谋反,被特赐免死罪一次。贞观初年负责与突厥外交事宜,被李靖“谋害”,竟奇迹般逃生。后来任民部尚书,因怠于政事贬官。唐高宗年间病故。
英公李绩第二十三。原为瓦岗军大将,少年从翟让起兵,翟死后跟随李密。李密降唐后成为独立势力,但仍坚持以李密部下的身份降唐以示不忘故主,被李渊称为“纯臣”。遭窦建德进攻后,因父亲被窦擒为人质不得已投降。密谋暗杀窦重归唐朝,但未能成功,侥幸逃走。随李世民灭王世充、窦建德、刘黑闼,又担任主将灭徐圆朗,随李孝恭灭辅公佑。拒绝李世民的拉拢,未参加玄武门之变。贞观年间与李靖一起灭亡突厥,此后十六年负责唐朝北边防御,多次击败薛延陀势力,又随李世民进攻高句丽。李世民死后辅佐唐高宗,被委以军事,担任主将再次出征高句丽,终于将高句丽灭亡。唐高宗重画其形象于凌烟阁。灭高句丽后次年病势。
胡公秦叔宝第二十四。本为张须陀部下勇将,张死后归裴仁基部下,又随裴投降李密,为瓦岗军大将。在李密与宇文化及童山之战中立下大功。李密失败后投降王世充,因不满王的为人,与程知节一同降唐,分配到李世民帐下。参加李世民历次战役,每战必冲锋在先。玄武门之变的主要打手。后因历次作战负伤太多而疾病缠身,贞观十二年病故。
唐朝各代帝王简介
唐高祖
唐高祖李渊唐高祖李渊(566年出生于长安,635年逝世于长安)是唐朝的开国皇帝。其母是元贞太后独孤氏,和隋朝独孤皇后是姐妹。
李渊的父亲李虎是西魏的太尉,死后被追封为唐国公。李渊七岁时他父亲逝世,他世袭为唐国公。李渊是隋炀帝的姨表兄弟,他的母亲和隋炀帝的母亲是鲜卑贵族独孤氏的亲姐妹,他曾深受隋炀帝的重用。
615年李渊被调任到太原,太原也是他起家的大本营。在太原李渊成功地解决了北方突厥的威胁,同时他成功地战败了多支反隋军队,并通过受纳败军而不断地扩大了自己的力量。617年7月,李渊正式开始起兵反隋。名义上他并不直接反隋,而只反隋炀帝。他从太原出发进攻长安并很快(617年11月)就占领了长安。他拥代王杨侑做皇帝,自封为大丞相和唐王。618年隋炀帝被叛军杀死后,李渊命令杨侑将帝位传给他,建立唐朝。
在官僚制度上李渊基本上使用了隋朝的制度。在农业方面他颁布均田制,将田地平等地分配给农民。对绢税他也做了调节,减轻了受田农民的负担。在法律上他废弃了隋炀帝的许多苛政,修订了唐律。李渊对中国的管理和政策为李世民“贞观之治”打下了非常重要的基础。
由于李渊对他的继承人的问题一再反覆,这导致了他的儿子李建成、李元吉和李世民之间的冲突。玄武门之变后李渊受软禁,被迫将皇帝位让给李世民,自己退位为太上皇。
李渊死后谥号神尧皇帝,葬在献陵。
唐太宗
唐太宗,名李世民(599年~649年),是唐朝第二位皇帝,他的名字意思是「济世安民」。太宗是他死后的庙号。他还是唐朝军事家,政治家、书法家。他开创了历史上著名的「贞观之治」,将中国封建社会推向鼎盛时期。皇后长孙皇后。
唐太宗于开皇十八年(公元599年)在京兆武功(今陕西武功西北)出生,是唐高祖李渊与窦皇后的次子。公元615年娶妻长孙氏,(登基后称长孙皇后)。公元617年,李世民随父亲、刘文静起兵反隋,攻入长安,并且灭隋。李世民被封为秦王。
此后,李世民经常出征, 逐步消灭各地割据势力:破李轨,杀薛仁杲(薛举之子),败宋金刚、刘武周。在虎牢之战中,一举翦灭中原两大割据势力:王世充和窦建德。李世民自此威望日隆,尤其是在虎牢之战后进入长安时,受到部分军民以皇帝的礼仪招待。被李渊封为“天策上将”。
此后,李世民与自己的哥哥太子李建成,四弟齐王李元吉的猜忌日益加深。大臣间互相倾轧,分为两派。宰相裴直、谋士王珪、魏徵、东宫卫士将领薛万彻等跟随李建成、李元吉为一派,谋士杜如晦、房玄龄,将领秦叔宝、尉迟敬德、段志玄、王君廓等跟随李世民为一派。大臣长孙无忌等暗中支持李世民。将领李靖、徐世绩、大臣宇文士及等保持中立。公元626年,李世民在长安城宫城玄武门发动政变,杀了李建成、李元吉和侄子,强迫高祖让位,自己即位为帝,次年改年号为贞观。在李世民统治其间,唐朝国力强盛,被称为贞观之治。晚年著《帝范》一书以教戒太子,其中总结了他一生的政治经验,也对自己的功过进行了评述。
他在位期间,推行府兵制、租庸调制和均田制,并积极推行科举制。
630年,击败东突厥,被尊为“天可汗”。641年嫁文成公主给吐蕃的松赞干布。
公元649年,唐太宗得了痢疾,医治最终无效,命太子李治到金液门代理国事。李世民于649年5月病死于长安含风殿。葬于今陕西礼泉县东北50多里的山峰上的昭陵。谥号为“文武皇帝”。
唐太宗善于听从大臣的批评和见解,魏徵直谏200多次直陈他的过失。
唐高宗
李治(628~683年)
唐代皇帝。唐太宗李世民第九子。字为善。贞观五年(631年)封晋王。十七年立为太子。二十三年即位。高宗即位,贬房遗爱(房玄龄子)为房州刺史。永徽四年(653年),房遗爱、荆王李元景及吴王李恪等谋反。事发,房遗爱被杀,李元景、李恪及高阳公主(太宗之女,房遗爱之妻)等均赐死,高宗帝位由此得到巩固。朝鲜半岛高句丽和百济攻新罗,应新罗之请,高宗曾先后派兵出击高句丽和百济。并派兵大败援助百济的倭国军,破百济。高宗即位不久,西突厥阿史那贺鲁自号沙钵罗可汗。
永徽六年,唐西击沙钵罗可汗,从此连年用兵西域。显庆二年(657年),唐大将苏定方等大破西突厥,西突厥亡。次年,徙安西都护府于龟兹(今新疆库车)。唐代的版图,以高宗时为最大。高宗即位后纳武则天入宫为昭仪,不久欲废王皇后,改立武氏为后。对此,长孙无忌及褚遂良等元老重臣表示反对。高宗在李义府等人的支持下,终于在永徽六年立武氏为皇后。长孙无忌及褚遂良等均遭贬斥。显庆末年,高宗患风眩头重,目不能视,难于操持政务,皇后武则天得以逐渐掌握朝政。从此武则天成为掌握实权的统治者,高宗处于大权旁落的地位。高宗去世后,葬于乾陵。
武则天
(624年~705年)是中国历史上唯一一位女皇帝,尊为武周圣神皇帝。本名武媚娘,即位后改名武曌,取意“日月当空”(有另一种写法,瞾,取其“双日当空”之意)。并州文水人(今山西文水)她的国号为周,不是唐。
她是唐太宗的才人,太宗死后入感业寺出家为尼姑。后成为唐高宗李治的昭仪,655年立为皇后。号“天后”,参与朝政,时与高宗并称“二圣”。她是唐中宗李显、唐睿宗李旦的母亲。高宗死后,她把持朝政。
690年,废睿宗,自称圣神皇帝,改洛阳为神都,国号为周,史称南周或武周。
武氏执政其间由于宠信酷吏,加上后世史学家不齿于她供养男妃嫔,所以史书内都对她的所作所为大加鞭鞑。她开创了科举考试的殿试制度。
武氏晚年希望儿子李显改武姓可以继位,但李显的软弱使她放心不下。直到后期武氏病重,朝臣推举李显继位,并复辟唐朝,武周亡。
705年去世时发遗诏:“去帝号,称则天大圣皇后。”
唐睿宗
李旦(662年~716年),唐朝第五位皇帝(如不将武则天算为唐朝皇帝),他的在位时间是684年~690年和710年~712年。其父为唐高宗李治,母为武则天,唐中宗是其兄长。
684年,武则天废中宗帝位,立其为帝,改元文明。不过由于是武则天操纵朝政,睿宗毫无实权。690年,武则天自己登皇帝位,于是废除睿宗。705年,武则天去世,唐中宗复位,710年,中宗被毒杀。于是睿宗再次即位。与其子李隆基(后任皇帝唐玄宗)一起铲除了杀害唐中宗的势力。712年,让位于唐玄宗,自称太上皇,716年病逝,享年55岁。其并无特别的治国才能,晚年也受其子李隆基的左右。
唐中宗
(656~710年) 中国唐代皇帝。即李显 。 705~710年在位 。高宗第七子。永隆元年(680),章怀太子李贤被废 ,立为皇太子 。弘道元年(683)即位,太后武则天临朝称制。次年,被武则天废为庐陵王 ,并先后迁于均州 、房州等 地 。圣历二年(699)被则天召还洛阳,复立为皇太子。神龙元年(705),宰相张柬之等起兵发动政变,杀死张易之、张昌宗等,拥中宗复位,废周为唐。即位后,放宫女3000余人出宫,仍旧重用武三思等人,武三思与韦后勾结,将反对武氏集团的张柬之等人排挤出朝 。朝政被皇后韦氏把持 。景龙元年(707)太子李重俊发兵诛武三思,事败被杀。中宗在位期间,恢复唐朝旧制,免除租赋,设十道巡察使,置修文馆学士,发展与吐蕃的经济、文化交往,实行和亲政策,把金城公主嫁给吐蕃赞普,保证了边疆地区的稳定。四年,韦后欲临朝称制,与安乐公主合谋,毒死中宗。
李重茂
(695年—?),唐中宗幼子,为韦后所生,前身为温王。710年中宗被毒死以后,韦后立时年仅16岁的李重茂即位,改元“唐隆”。李重茂即位后1个月,韦后被杀,太平公主和李隆基联合废掉了李重茂,并将李重茂赶出长安,恢复其温王爵位。后事不详。
李重茂号“少帝”或者“殇帝”。
李隆基
(685年~762年),唐朝皇帝(712年~756年在位);李隆基为睿宗李旦第三儿子,庙号“玄宗”,得名“唐玄宗”,又谥号为“至道大圣大明孝皇帝”,故亦称为唐明皇,后封元圣文神武皇帝。玄宗在位年间,是唐代由盛变衰的关键时期。
即位前
李隆基曾与太平公主合谋发动宫廷政变,杀韦后拥其父睿宗即位,被立为太子。
开元盛世
延和元年(712年),受禅即位,改元为“先天”;开元初年,励精图治,任用姚崇、宋璟等为相,革除弊害,鼓励生产,经济发展,史称“开元盛世”。
杨贵妃与安史之乱
晚期因骄奢淫逸,终日只顾与杨贵妃玩乐。杨贵妃原为他的儿子寿王的妃子,但玄宗竟不顾礼教,把她纳为自己的妃子。他又倚信奸宦如李林甫、高力士和安禄山,任由他们把持朝政,引发「安史之乱」后出逃,从此唐朝由鼎盛时期转入衰弱时期。
文学作品上的李隆基是感情很专一的皇帝,他和杨贵妃的故事,透过《长恨歌》和《长恨歌传》在中国家喻户晓。
唐肃宗
李亨(711年~762年),唐玄宗第三子,唐朝第七位皇帝(去武则天以外,757年~762年在位),玄宗天宝十五年(756年)六月镇守潼关之大将哥舒翰受杨国忠逼迫出兵讨叛,结果大败,潼关陷落,长安震动,玄宗携太子、宠妃仓皇逃往成都,行经马嵬驿(今陕西兴平县西),军士哗变杀杨国忠,并逼迫玄宗缢死杨贵妃。马嵬民众拦阻玄宗请留,玄宗不从。太子李亨留下,随即前往朔方节度使所在地灵武(今宁夏灵武西南),同年七月,李亨即位于灵武,尊玄宗为太上皇,改元至德,庙号肃宗,在位6年,死于762年,时年52岁,死后谥号文明武德大圣大宣孝皇帝。
唐代宗
李豫(726年~779年),唐肃宗长子。初名俶,封广平王,唐朝第八位皇帝(去武则天以外,763年~779年在位),在位17年,享年54岁。天宝十五年(756年),安禄山叛军攻占潼关,玄宗逃至马嵬驿,当地民众揽留肃宗,于是护送肃宗北上灵武即帝位。安史之乱中,以兵马元帅名义收复洛阳、长安两京。乾元元年(758年),被立为皇太子。宝应元年(762年),宦官李辅国杀张皇后,肃宗受惊吓而死。代宗即位。次年,安史之乱平定,唐朝开始转为衰落。当时,东有诸多藩镇割据,北方又有回族不断勒索,西面有吐蕃侵扰,甚至在广德元年(763年)占领首都长安十一日。代宗又迷信佛教,寺院多占有田地,国家政治经济进一步恶化。779年驾崩,传位于唐德宗李适,死后谥号睿文孝武皇帝。
唐德宗
李适(kuò)(742年~805年),唐代宗长子,唐朝第九位皇帝(去武则天以外,780年~805年在位),在位26年。享年64岁。广德二年(764年)被立为皇太子,大历十四年(779年)即位。次年,为了改善财政,听从杨炎的建议,废除庸调制,颁布“两税法”。另外,也试图削弱藩镇割据实力,加强中央集权,但由于措施失当,反而引起节度使的反抗。建中四年(783年),泾原兵变,仓皇出逃到奉天(今陕西乾县),朱泚称帝,后朔方节度使李怀光叛变,再逃到汉中。于是发布了《罪己诏》,声明不再约束节度使,对其姑息迁就。从此,唐朝的中央权力进一步削弱。
其在位期间,时局稍为稳定,但任用宦官为统帅,并且勒索地方官进奉物资,在长安施行宫市,征收间架、茶叶等杂税,民生更加困苦。虽有人称之为“中兴之治”,但并没有特别显著的成就。
唐德宗于贞元二十一年(805年)死,死后谥号为神武孝文皇帝。
唐顺宗
李诵(761年~806年),唐德宗长子,唐朝第十位皇帝(去武则天以外,805年在位)。大历十四年(779年)立为皇太子。贞元二十一年(805年)即位,改元永贞。任用王伾、王叔文为翰林学士,在韩泰、韩晔、柳宗元、刘禹锡、陈谏、凌准、程异、韦执宜等人支持下,从事改革德宗以来的弊政,贬斥贪官,废除宫市,停止盐铁进钱和地方进奉,并试图收回宦官兵权,史称“永贞革新”。不久患中风。同年八月,宦官俱文珍等勾结部分官僚和藩镇,逼其退位,传位于太子李纯,贬王伾等人,史称“永贞内禅”。王叔文、王伾即遭贬逐。王叔文被贬后又被赐死。王伾死于贬所。柳宗元等八人都被贬为“边州司马”。史称“二王八司马事件”。次年病死,一说被宦官杀害。死后谥号为至德大圣大安孝皇帝。
唐宪宗
李纯(出生于778年,逝世于820年),唐朝第11位皇帝(去武则天以外),他的统治时期是从805年到他逝世。唐宪宗是唐顺宗长子,先被封为广平郡王,805年初顺宗即位后,李纯被立为太子,顺宗试图进行改革,威胁了宦官的利益,被俱文珍逼迫退位给宪宗,同年八月,宪宗继位,顺宗被尊为太上皇。
宪宗继位后,开始对割据的藩镇开展了一系列战争,他继位次年就开始对西川节度副使刘朋开战获胜,同年杨惠琳不肯交出他的兵权,宪宗也对他作战,杨惠琳战败被杀。807年讨伐镇海节度使李锜,813年魏博节度使田兴归伏唐朝,813年他开始对抗拒唐朝的成德节度使王承宗作战,但没有能够获胜,从815年到817年他平定了淮西吴元济的叛乱。这些成果被称为“元和中兴”。吴元济被平定后,全国所有的藩镇至少名义上全部规伏唐朝。
但同时宪宗的皇位是由宦官逼迫获得的,因此他信用宦官,他的军队中有许多将军是宦官,而且有些拥有很高的军权。820年他自己被宦官陈弘正杀害,享年43岁,在位15年,死后谥号为昭文章武大圣至神孝皇帝。
唐穆宗
李恒(795年~824年),原名宥。元和七年(812年)被立为皇太子,改名恒。他是唐朝第12位皇帝(去武则天以外,820年~824年在位),在位4年,享年30岁。在位期间荒于朝政,奢侈放纵,措施不当,导致河北三镇再度背叛,直到唐朝灭亡。朝廷内宦官权势日盛,官僚朋党斗争剧烈。使唐宪宗的“中兴”局面完全丧失。后服长生药而死,死后谥号为睿圣文惠孝皇帝。
唐敬宗
李湛(809年~826年),唐穆宗长子。他是唐朝第十三位皇帝(去武则天以外,824年~826年在位),位3年,享年19岁。即位后,只知在后宫嬉戏,奢侈荒淫。宦官王守澄把持朝政,勾结权臣李逢吉,排斥异己,败坏纲纪。导致官府工匠突起暴动攻入宫廷的事件。后为宦官刘克明等人杀害,死后谥号为睿武昭愍孝皇帝。
唐文宗
李昂(809年~840年),唐穆宗第二子。唐敬宗之弟。敬宗宝历二年(826年),被宦官王守澄等拥立为帝。他是唐朝第十四位皇帝(去武则天以外,827年~840年在位),在位14年,享年32岁。在位期间,朝臣朋党相互倾轧,官员调动频繁,政权甚至皇帝的废立生杀,均掌握在宦官手中。后起用李训、郑注等人,意欲铲除宦官。大和九年(835年),李训引诱宦官参观所谓“甘露”,企图将其一举消灭,但事情败露,反而导致宦官大肆屠杀朝官,史称“甘露之变”。事后,文宗更被宦官钳制,慨叹自己受制于家奴,境遇不如汉献帝。开成五年(840年)抑郁病死,死后谥号为元圣昭献孝皇帝。
唐宣宗
李忱(810年 ~859年),唐朝第十六位皇帝(847年~859年在位,除去武则天以外),初名怡,前身是光王,在位13年。唐宪宗李纯十三子,唐穆宗李恒的弟弟,唐武宗李炎的叔叔。
李忱登基之前,为了逃避唐武宗的迫害,传说他当过和尚,曾作过《瀑布联句》一诗。会昌六年(846年),唐武宗被道士上供的长寿丹毒死。李忱被迎回长安登基做皇帝,是为唐宣宗,改元大中。
唐宣宗登基后,唐朝国势已很不景气,藩镇割据,牛李党争,农民起义,朝政腐败,官吏贪污,宦官专权,四夷不朝。唐宣宗致力于改变这种状况,他先贬谪李德裕,结束牛李党争。宣宗勤俭治国,体贴百姓,减少赋税,注重人才选拔,唐朝国势有所起色,阶级矛盾有所缓和,百姓日渐富裕,使十分腐败的唐朝呈现出“中兴”的小康局面。宣宗是唐朝历代皇帝中一个比较有作为的皇帝,因此被后人称之为“小太宗” 。另外,唐宣宗还趁吐蕃、回纥衰微,派兵收复了河湟之地,平定了吐蕃。
由于宣宗曾当过和尚,所以对佛教极力推崇,据说曾在大中七年(853年)大拜释迦牟尼的舍利。
大中十三年(859年),唐宣宗去世,享年50岁。谥号圣武献文孝皇帝。
唐懿宗
李漼(833年11月14日~873年),唐朝第十七位皇帝(除去武则天以外,860年~873年在位),在位14年,终年41岁。李漼初名温,是唐宣宗的长子。宣宗病死后,被宦官迎立为帝,是为唐懿宗,改元“咸通”。死后葬于简陵,谥号昭圣恭惠孝皇帝。
唐懿宗是一个昏庸无能、奢侈无度的君主。他即位后,不思朝政,沉湎于酒色之中,政治十分腐败,藩镇割据重新兴起。他将唐宣宗中兴的果实损耗殆尽。此时唐朝已无可救药,病入膏肓,大动乱正在酝酿之中。当时赋税刻薄,百姓无法过日子,于是出现人吃人的惨剧,百姓被逼得无路可走,只好起义。859年,袭甫在浙东领导起义;868年,庞勋领导徐泗地区的戍兵在桂林起义。唐懿宗派遣王式、康承训等残酷镇压了这两次农民运动,但是对人民的剥夺并没有停止。
此人乃唐朝间接之亡国之君也。
唐僖宗
李儇(xuān)(862年~888年),唐朝第十八位皇帝(去武则天以外)。唐懿宗第五子,初名俨。873年-888年在位,在位13年,享年27岁,死后谥号为惠圣恭定孝皇帝。懿宗咸通十四年(873年)由宦官拥立,时年十五岁。政事全交给宦官田令孜掌握,自己却玩物丧志。当时灾害连年,人民生活困苦,官员盘剥沉重。干符元年(874年),濮州王仙芝发动起义。次年,黄巢也起兵于冤句,唐末农民大起义爆发。王仙芝失败后,起义军由黄巢率领,百战百胜,并于广明元年(880年)占领长安,他仓皇逃亡入蜀。中和四年(884年),黄巢起义失败,次年三月唐僖宗返回长安,唐朝已接近灭亡的尾声。
唐昭宗
李晔(867年~904年),原名杰,又名敏,是唐朝第十九位皇帝(去武则天以外,889年~904年在位),在位16年,享年38岁。他是唐懿宗第七子,唐僖宗弟。葬于和陵,死后谥号为圣穆景文孝皇帝。
唐昭宗即位后,藩镇趁着平定农民起义的机会逐渐扩大,唐政府已经名存实亡,唐昭宗根本没有实权。后来,唐昭宗被当时最大的藩镇朱温控制着。朱温为了灭亡唐朝,自己做皇帝,先杀掉宫里所有宦官,再不顾大臣反对迁都洛阳,接着镇压各地藩镇,最后又于天佑元年(904年)杀害了唐昭宗。
唐昭宗在他即皇帝位以来16年间,一直是藩镇手中的傀儡。
唐哀帝
李拀(892年~908年),原名祚。唐昭宗第九子,唐朝末代皇帝(第二十代,去武则天以外,904年~907年在位),在位3年,被废。次年死,享年17岁,葬于温陵。
唐哀帝即位时,不过是藩镇手中的一个傀儡皇帝。唐天佑四年(907年),朱温见废帝灭唐时机已到,便先将唐朝朝臣全部杀光,接著又废哀帝为济阴王,自己做皇帝,建国号“大梁”,史称“后梁”,改元“开平”至此,立国290年、传20帝的唐王朝灭亡,中国进入自魏晋南北朝以来又一次大分裂时期——五代十国。
唐哀帝也在被废后次年,即开平二年(908年),被朱温毒死。何太后(唐昭宗皇后)也被杀。
李祝死后最初由朱全忠加封的谥号为“哀皇帝”,后唐庄宗时改谥为“昭宣光烈孝皇帝”,议庙号为“景宗”。