塔吉克族(タジク族) 塔吉克族(タジク族)

塔吉克族(タジク族)

塔吉克族(タジク族)

  タジクは、タジキスタンを中心に、アフガニスタン北部、ウズベキスタン東部、中国領新疆ウイグル自治区の西部などに居住するペルシア系民族。元来、中世から近世にかけての中央アジアやイラン高原といった中央ユーラシアの乾燥地帯において、住民を、ペルシア系の言語を使い都市、あるいはオアシス集落定住民が多く、都市文化になじんだ諸集団に属する人々をタージーク(タジク)、テュルク系の言語を使い、都市やオアシスの間に広がるステップ地帯で遊牧生活を送る遊牧民の諸集団に多くが属している人々をテュルクと呼んで大きく2つに大別していたことに由来する、近現代的民族区分である。
  現在タジク民族とされている人々は、バクトリア人、ソグド人、サカ人等、中央アジアの歴史に名を留める多くの民族の系譜を引いている。タジク民族の基となったタージークと呼ばれる諸集団の原型は、9世紀から10世紀に東ペルシャ語を話していた古バクトリア人及びソグド人が西ペルシャ語族に属するダリー語(ファルシー語)を話すようになっていった9~10世紀に形成された。13世紀のモンゴルの襲来や、それに先立つ、この地域の遊牧民の言語的、文化的テュルク化までには、この言語を話す人々は、ギンドゥクシャ北方及び南方の広範囲なオアシスに広がり、定住するに至っていた。
タジキスタンのタジク人
  タジキスタンにおいては、1929年12月5日のタジク・ソビエト社会主義共和国設立時、約200万人のタジク人がウズベク領内に、約100万人のウズベク人がタジク領内に残された。
  ただし、当時のソ連政府が統治イデオロギーとして解釈、宣伝するマルクス・レーニン主義の公式のように、ウズベク人なる民族がウズベクの地(ウズベキスタン)で、タジク人なる民族がタジクの地(タジキスタン)で、それぞれ定まった発展段階を経た進歩の歴史をたどってきたという公式解釈は歴史の現実とは異なる。
  ウズベキスタン、タジキスタンと呼ばれる土地のいずれにおいても、タジク人なる民族とされるようになるタージークの人々が都市やオアシス集落を拠点とした都市的生活を送り、農業、手工業、文書行政官僚、学者などとしての生活を送り、ウズベク人らテュルク系を主体とする遊牧民諸勢力が都市やオアシス集落の間に広がるステップ地帯で遊牧生活を送りつつ、時には都市やオアシス集落を訪れて交易を行い、またその中の盟主的集団が、その騎馬軍事能力に物を言わせて都市やオアシス集落にもその支配権を及ぼす、広域にわたる軍事警察力、政治力を振るっていたのである。そのため、巨視的には両者は同じ土地でモザイク状に入り混じって一種の住み分け生活をしており、それをウズベキスタン、タジキスタンと人工的な領域区分をすれば、それぞれの領内に「本来その土地の民族ではない者たち」が大量に残されてしまうのは理の当然であった。
  タジキスタン共産党初期の要員は、南部人、カラテギン(沿パミール地区)、パミール及びクリャーブの一部の代表者から形成された。ボリシェビキの政策は、山岳人が閉鎖的な生活様式を変える契機ともなった。カラテギンだけはイスラム教の影響下に残され、タジキスタンの現状にも影響している。
  1937年、最初にタジク革命政府を樹立した南部人は、完全に粛清された。第二次世界大戦後、ホジェント出身者に権力が移った。
  ホジェント(旧レニナバード)は、イスラム神学のエリート、ホジャーの領地である。その規律と互助は、彼らが80年代に至るまで権力を維持することを助けた。しかし、パミール人とクリャーブ人も、権力闘争に加わり始めた。
  最南部地域のクリャーブは、イスラム保守主義に晒されず、迅速に新しい価値を受け入れたが、その代表者達は、党指導部において常に二次的な役割に甘んじ、地区自体は常に最貧地区の1つだった。
  ゴルノ・バダフシャン自治州の住民であるパミール人は、他の地域とは異なる民族、文化、言語を有し、宗教的にはイスラム教シーア派の一派であるイスマーイール派に属する(タジク人の多くは、スンニー派)。
  タジキスタンにおける科学と文化は、サマルカンド及びブハラ出身者が担った。
アフガニスタンのタジク人
  現在のアフガニスタン北部に居住するタジク人は、ドゥッラーニー朝の創設者アフマド・シャー・アブダーリーにより王朝支配下の構成集団に編入された。これが近代国家として認識されるようになる、近現代アフガニスタン国家の国民として、タジク人が含まれるようになる起源である。それ以来、パシュトゥーン人の統治者は、国の統治に当たって、タジク人を考慮に入れざるを得ず、1936年まではタジク人が使用するダリー語が唯一の公用語だった。
  ただし、アフガニスタンのような中央ユーラシア世界において、テュルク系を主体とする遊牧勢力が、得意とする騎馬軍事力を基に軍事力、王権、政治を担当し、都市文化に精通し、文書事務を得意とするタージーク勢力が拠点都市で文書行政を担当するという構図は、中世から近世にかけては普遍的なものであった。アフガニスタンの場合にも、この時代の遊牧軍事勢力としては珍しく、テュルク系ではなく、インド・イラン語派の言語を使用するものの、遊牧騎馬軍事勢力たるパシュトゥーン系の王権勢力が、自らは騎馬軍事、王権、政治に専念し、文書行政を都市やオアシスを拠点とするタージーク勢力にまかせ、タージーク勢力の言語を行政公用語として採用するという事自体、中央ユーラシア世界の文化状況としてはごく普通の現象であった。
  また、1776年、アフガニスタンの首都は、パシュトゥーン人の優勢なカンダハールから、タジク人が優勢なカブールに移転された。これも、テュルク系集団やパシュトゥーン人のような遊牧軍事勢力が都市内と都市外近郊を移動しつつ軍事と政治の中枢を独占し、文書行政事務は、タージーク勢力が、その拠点都市の行政機関に居を置いたり、移動する宮廷に随伴して担当するという、中世から近世にかけての中央アジアの政治・行政状況の一般形態と共通した現象と見ることもできるし、王権中枢勢力とある意味対等な側面を有する他のパシュトゥーン人諸集団は、必ずしも王権中枢を構成するパシュトゥーン系勢力にとって安定的に忠誠を期待できる安全な存在ではなく、王権に忠誠を誓う官僚集団を輩出するタージーク勢力の方が王権中枢のパシュトゥーン系勢力にとっては信頼が置けたという側面も考慮できる。
  現在、タジク人は、ヘラートのオアシス、ギンドゥクシャの南斜面のパンジシル、ゴルベンド及びサラングの峡谷、並びに北東辺境のバダフシャーン州の3大地域に集中している。
  タジク人は、平野人と山岳人の2つのグループに分けることができる。平野人は、比較的早期にパシュトゥーン人君主に服従した。平野人の大部分は、スンニー派である。平野タジク人は、伝統的にパシュトゥーン人統治者に忠実であった。パシュトゥーン人は元来遊牧集団の常として多核的で非中央集権的な集団構成原理を持ち、王権に対して分派活動をとる者達も出てくることが稀ではない。そのため平野タジク人は、他のパシュトゥーン系集団の蜂起を鎮圧する際に、王権中枢を構成する集団以外のパシュトゥーン系集団への対抗勢力としての兵士として利用され、その上層部は王国において文書行政官僚のみではなく、軍人貴族をも形成した。
  山岳タジク人は、非常に独立精神に富み、かつ好戦的であり、パシュトゥーン系王権に反抗的で、アフガニスタンの歴史を通して、反乱や戦争が絶えなかった。山岳タジク人は、主としてスンニー派とシーア派に分かれ、バダフシャーン州ではニザール派に属している。ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻や、その後の内戦の際には、アフマド・シャー・マスード等のような有能な野戦指揮官を多数輩出している。
中国の「タジク族」
  今日の中国領版図内では、タージークの人々は、伝統的に東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)西部の都市やオアシス集落を拠点としてきた。宗教はタジキスタンと異なり、住民のほとんどがシーア派のイスマーイール派(7イマーム派)に属する。
  中国では、清代代から民国期期にかけ、東トルキスタンを「回疆」(゠「ムスリムの土地」の意)、その住人達を「回部」(゠「ムスリムたちの集団、組織」の意)と称し、同君連合的構成原理を持つ清朝属下の諸種族を「五族(満・蒙・回・蔵・漢)」と総称する際には、タージーク系諸集団を、テュルク系の諸集団とともに「回」の概念で一括してきた。
  辛亥革命後、中華民国では、近代的国民国家としての体制を確立するため、建国直後より、旧清朝属下の諸政権に属する国民を、歴史的に古代以来の中国国民である「中華民族」なる固有の民族であると、政治的に定義し、その構成要素たる五族協和を謳った。さらに中国共産党が政権を奪取し、中華人民共和国が成立すると、その内部を言語や文化の差異にもとづいて民族別に区分する民族識別工作を行い、漢族と「55の少数民族」とに区分した。タージーク系諸集団は、この措置によって、「タジク族(塔吉克族)」として、独立したひとつの「少数民族」としての地位を獲得した。


【民族概况】
  我国的塔吉克族主要分布在新疆维吾尔自治区西南部的塔什库尔干塔吉克自治县,其余分布在莎车、泽普、叶城和皮山等县。根据2000年第五次全国人口普查统计,塔吉克族人口数为41028。主要从事畜牧业,兼营农业。使用塔吉克语。属印欧语系伊朗语族帕米尔语支;莎车等地的塔吉克族也使用雏吾尔语。普遍使用维吾尔文。
  塔吉克族主要聚居的塔什库尔干,地处世界屋脊帕米尔高原东部。境内群山耸立,南有海拔8611米的世界第二高峰乔戈里峰,北有海拔7546米的号称“冰山之父”的慕士塔格峰,终年积雪,冰川高悬,险峻奇丽,仪态万千。雪岭冰峰之下的河流两岸谷地,既有连绵成片的草原,也有可供稼穑的土地。自强不息的塔吉克人民就生活在这里。塔吉克族有自己的语言,普遍使用维吾尔文,主要从事畜牧业,兼营农业,过着半定居半游牧的生活。
【历史】
  塔吉克族人口虽少,却历史文化悠久。“塔吉克”是本民族的自称,据民间传说,该词的原意为“王冠”。据考古发现,在公元前若干世纪,这些操东部伊朗语的部落,就已分布在我国新疆南部地区,其中分布在帕米高原东部的部分,就是我国塔吉克族的先民。公元前2世纪,张骞出使西域,西汉王朝设西域都护管辖。塔什库尔干地区属于交通要道,“丝绸之路”的咽喉。塔吉克族先民在东西方文化交流中受到熏陶。并发展自己。公元2——3世纪,在塔什库尔干一带出现了蝎盘陀国,竭盘陀人是中国塔吉克族的远祖。在3——4世纪,他们已发展了,灌溉农业,过半农半牧生活。蝎盘陀国有12座城堡和10多所寺院。以小乘佛教为国教。唐朝时,属安西都护府管辖。开元(713~741)中,在此设“葱岭守捉”戍所。公元8世纪,蝎盘陀国消亡。公元9——1 6世纪,塔什库尔干地区先后受吐蕃、喀拉汗王朝、西辽、蒙古元朝和察合台汗国的管辖。特别是从10世纪开始传入喀拉汗王朝境内的伊斯兰教,对塔吉克人的影响强烈,以致后来成为全民族信仰的宗教。明朝后期,在色勒库尔的中心地带已有一批塔吉克族小村塔。从1 7世纪后期到l 9世纪,帕米尔西部和南部的什克南、瓦罕等地的许多塔吉克人迁入色勒库尔,逐渐成为中国的塔吉克族。17世纪中叶,清朝统一全国,对塔什库尔干,沿用元朝的名称“色勒库尔”,建置色勒库尔回庄,归喀什噶尔参赞大臣管辖。清代的建置,大大加强了塔吉克族地区同南疆维吾尔族地区经济与文化的密切联系。
【社会经济】
  清代以前,塔吉克族社会经济的发展较绶慢。17世纪末,统治色勒库尔的嵌族、头人强迫塔吉克族人民缴纳赋税,服无偿劳役,宗教势力与封建势力合为一体,剥削甚重。由于缺乏铁器,长期使用帕米尔特有的野羊犄角犁地,生产水平低下。直至清初色勒库尔地区与u符什、叶尔羌等的商品交换逐渐展开后,粮食、棉布、铁器才输入塔吉克地区。在汉族、维吾尔族、柯尔克孜族人民的帮助下,塔吉克族在耕作方法,兴修水利,畜产品加工,繁殖牦牛、大尾羊等技术方面,才有了比较快的提高。
  中华人民共和国成立前,聚居在蒲犁的塔吉克族,畜牧业占主要地位,过着半游牧半定居生活,春播以后上山放牧,秋季回村收获过冬。当时的塔吉克牧区基本上处于封建社会发展阶段,牲畜大量集中在少数牧主和富裕户手中,牧主雇佣牧工进行剥削,一部分牧主和富裕牧户把牲畜交给贫苦牧民代牧,进行封建的分成制剥削。分布在莎车等县农村的塔吉克族居民定居务农。土地集中在少数地主手中,泽普县一户塔吉克族地主占地多达4500亩。在这一地区“伙种”是主要剥削形式,地主将土地拨给“邻居农民”耕种,收获时先由地主扣除种子和耕牛等费用,然后双方对分。田赋归农民负担,同时农民还必须以60%左右的劳动日到地主直接经营的土地上服劳役,他们的家属也要为地主无偿从事各种家务劳动。
  1949年塔吉克族地区获得和平解放。1954年成立塔什库尔干塔吉克自治县。同年,在南疆成立了莎车县札热甫夏提塔吉克民族乡。农牧区在1958年春基本上完成合作化。特别是党的十一届三中全会以来,塔吉克族地区的经济文化得到国家的大力支援,获得迅速发展。畜牧业生产成倍增长。农业生产由于扩大播种面积和提高单位面积产量,总产量大幅度增加。工业从无到有,创建了许多小型工厂企业。新建的水力发电站,照亮了山城塔什库尔干。帕米尔高原千山万壑,过去交通非常不便,1957年国家投资兴修自喀什一塔什库尔干的公路。已实现乡乡通邮路。过去,古老的塔什库尔干城堡仅有很少一些小土屋,现在帕米尔高原上兴建了机关、学校、医院、商店、银行、邮局、俱乐部等,以及成片的宿舍区。1949年以前·塔吉克族89%是文盲,现在塔什库尔干塔吉克自治县已基本上普及了小学教育,并建立了中学多所,不少塔吉克族青年到喀什、乌鲁木齐和北京等地升入高等院校和中等专业学校深造。过去塔吉克族中没有任何医药设施和医生,疾病蔓延,人口锐减;现在县有医院,各乡有常驻医生,各村有保健站,并经常有巡回医疗队深入牧场、山村为牧民防治疾病。塔吉克族人民的物质、文化生活水平有了显著改善。
【文化艺术】
  塔吉克族的文学艺术丰富多彩,源远流长。过去,没有文字,靠口头传送。著名的诗歌《雄鹰》、《白鹰》、《聪明的宝石》、《各式各样的》和《利可司尔水鸟》,总称“玛卡木”,是诗歌的代表作。传说《慕土塔格山》和《大同人的祖先》生动感人。塔吉克族能歌善舞,音乐有弹唱曲、歌舞曲、叼羊曲、哀悼曲、情歌和宗教歌曲等。特有的乐器为纳依(鹰翅骨制的短笛)、巴朗孜阔木(弹拨的七弦琴)和热瓦甫(弹拨的六弦琴)。舞蹈大都为双人舞,以模拟雄鹰翱翔为特色。塔吉克族还有独特的戏剧艺术,分歌舞剧和话剧两种。语言生动幽默,动作滑稽,寓意深刻。歌舞剧《老少夫妻》一剧很有名。其思想性和艺术性都很高。塔吉克的工艺美术有刺绣、编织和补花等。
【风俗礼仪】
  住户大多是家长制大家庭。实行一夫一妻制。过去,堂、表亲联姻较普遍,盛行早婚。现在大多执行《婚烟法》的规定。
  塔吉克族人热情好客,讲究礼节。其礼节质朴、亲切。男子相见,互相握手或互吻手背。妇女相见,长辈吻幼辈的眼或前额,幼辈吻长辈的手心,平辈互吻面颊和嘴唇。男女同辈相见,女方吻男方的手心或握手。子女与父母相见,要吻父母手心,以示敬重。家庭中最热情的礼节是拥抱。
  塔吉克族民风淳朴、敦厚,社会道德高尚,凡到过塔什库尔干的人,都会为这里的路不拾遗,夜不闭户,民族和睦,社会安定而惊叹不已。在当今社会,它确实堪称一奇!
  由于宗教关系,塔吉克族的饮食方面有一些禁忌。禁食没有经过宰杀而死亡的动物,禁食猪、马、驴、熊、狼、狐、狗、猫、兔和旱獭等动物的肉,以及一切动物的血。忌看羊产羔。交谈时忌脱帽。
  他们对粮食和食盐特别珍惜,对用脚踩食盐和食品的人,被认为是罪人。见到盐和食品落在地上,要拣起来放在高处不容易被踩到的地方。
  他们对牲畜特别爱惜,禁止用脚踢或棒打羊、牛等牲畜,不得骑马穿过羊群或接近羊圈,并忌讳羊在产羔时去观看。每逢星期三、星期日不出售牲畜,这两日也不偿还别人的债务,所以这两天他们也不去讨债,别人也不来买畜或还债。
  如果骑马到塔吉克族人家作客,不能在门口下马,更忌讳快马到门口下马,这意味着报丧或有其它什么不吉利的消息。应慢步绕到毡房后面下马。
【服饰】
  服饰以帽子最具特色,男子一般戴黑绒,圆高统帽;女子戴圆顶绣花棉帽,帽的后半部垂有后帘。出门时.帽外加披方形大头巾,多为白色,新嫁娘用红色,小姑娘也有用黄色的。男女都穿红色长统尖头软底皮靴。
  塔吉克族男子大都在白色衬衣外穿一件青色或蓝色无领对襟长大衣,腰系一根腰带,右侧挂一把小刀。脚蹬野公羊皮长筒靴。头戴黑羊羔皮作里,黑平绒作面的圆形卷边高统帽。身跨骏马,往来奔驰于草原、雪山间和白云下,显得十分威武、潇洒。塔吉克妇女的装束鲜艳夺目,更具魅力。她们大多喜欢穿镶有花边的红色或花色连衣裙,外套黑绒背心,下穿长裤,脚蹬红色软底长统靴。为抵御高原上的大风与寒冷,头上总戴一顶圆筒形绣花棉帽。帽的后部较长,可遮住双耳和后颈。青年妇女的帽子上镶有很多饰物,尤其是帽的前沿缀有一排色彩华丽、熠熠闪光的珠子和银链,配以耳环、各种宝石项链和称为“阿勒卡”的圆形银胸饰,显得娇美、艳丽,楚楚动人。当她们外出时,帽子外要披一条数米长的红、黄或白色大头巾。
【饮食】
  最佳食品为抓肉;牛奶煮米饭和牛奶煮烤饼。塔吉克族饮食的内容和制作方法反映了他们的经济状况、生活需要和民族特点。牧区的饮食以奶制品、面食和肉为主;农业区则以面食为主,奶和肉食为辅。面食主要是用小麦、大麦、玉米、豆子等面做成的馕。他们的饮食品种较多,具有特色的食物有:奶粥、奶面片、奶面糊、酥油面糊、酥油奶糊、酥油青稞馕、酥油浇馕、抓肉、抓饭、奶酪、奶干、奶茶等很多。
【民居】
  牧民在村中有固定住宅,一般为土木结构平顶屋。屋内不分间,四周筑有土台为坐卧起居之地。在牧场上使用简陋的矮土屋。四壁无窗。靠屋顶的天窗透光、通风。室内不分间,全家男女老少饮食起居都集于一室。室内四周为土台,上铺毡毯,以供坐卧。在夏秋放牧季节,少数牧民使用毡房。
  墙壁多用石块、草皮砌成,厚而结实。顶部架树枝,抹上拌有麦草秸的泥土。门向东开,一般靠近墙角。顶部中央开天窗,通风透光。在院墙以内最大的住屋称为“赛然衣”,另有牲畜棚圈和厨房,有的还有客房和库房。由于高原多风雪,室内虽比较宽敞,但较低矮,四周筑土炕,长辈、客人和晚辈分侧而居,土炕上铺毛毡以供坐卧。炉灶在大门对侧,灶后另有小间储藏室,存放油、肉、干果和粮食。牧民夏季上山放牧,多住毡房,或在牧场筑土屋。
【宗教信仰】
  居民普遍信仰伊斯兰教伊斯玛仪派。清真寺很少。教徒不封斋,不朝觐。一般群众仅在节日礼拜。宗教首领称“依禅”。各户教徒世代信从某一依禅及其世袭的继承者。
  鹰与塔吉克族人的关系非常密切。塔吉克人的民间舞蹈名之曰“鹰舞”,其基本动作完全是模仿鹰的动作。最具塔吉克民族特色的乐器是鹰笛,这是由鹰的翅骨制成的。塔吉克族人中广泛流传着有着鹰的各种传说故事。在这些故事中,鹰总是与塔吉克人生死与共,息息相关,在危难关头,鹰总是挺身而出,牺牲自己,为民众创造幸福。在一般塔吉克族人的观念中,鹰也是勇敢、正义、忠贞、纯洁的象征。可以推测,鹰是塔吉克族先民崇拜过的动物图腾,现在塔吉克文化中与鹰有关的这些文化现象正是远古塔吉克族先民鹰图腾崇拜的遗存。
  塔吉克族宗教界的著名人士认为,我国塔吉克族在公元10世纪即信仰伊斯兰教,塔吉克族是我国唯一的信仰伊斯玛仪教派的民族。
【节庆】
  民族和宗教的节日有古尔邦节、乞脱乞迪尔爱脱(春节),巴罗提节、肉孜节、台合木兹瓦目脱节(播种节)、兹完尔节(引水节)等。塔吉克族的节日都有浓厚的民族特色。如乞脱乞迪尔爱脱(春节),时间在每年青草就要萌芽的公历3月。家家大搞卫生清洁工作。一清早,由小孩牵一黄牛到屋内绕行一圈。主人向牛背撒面粉,喂少许饼后牵出。接着,全家鱼贯而入。然后互相幸访祝贺。妇女们要给来宾的左肩上撒面粉,以示吉祥。
  塔吉克族信仰伊斯兰教,许多民族节日皆与宗教有关,传统的"巴罗提"节即是其中之一。"巴罗提"一般在伊斯兰历每年8月的头两天举行。由于节日之夜家家都点一种特制灯烛,故称之为灯节。
  灯节“巴罗提”一般在伊斯兰历每年8的头两天举行。由于节日之夜家家都点一种特制灯烛,故称之为灯节。节日前夕,每家都要自做多支小灯烛和一支特大的灯烛。它是用一种高原上特有的“卡乌日”草草杆做芯,外面裹上棉花,扎成火把状,蘸上酥油或羊油制成。节日之夜,全家人围坐在炕上,中间摆放着一个供插灯烛用的沙盘。这时,家长按辈份和年龄高低呼叫每个人的名字,叫一个答应一个,并在应者面前插一支点燃的灯烛,以示吉祥,全家人的灯烛都点亮后,各自伸出双手在自己名下的灯烛上烤一下,再作祈祷,愿真主降福保佑平安。仪式结束,阖家大小在灯光下共享丰盛的佳肴。接着,便把家中扎好的那支最大的灯烛火把点燃后插到屋顶上,它被称为“天灯”。全家人要出来肃立屋前,仰望“天灯”,默默祈颂。与此同时,各家门前要点火堆驱邪。青少年们则在烛光下、火堆前欢歌跳舞,尽情戏耍,彻夜不眠。