清(しん)は、清朝(しんちょう)ともいい、1636年に満州において建国され、1644年から1912年まで中国を支配した最後の統一王朝。首都は盛京(瀋陽)、後に北京。
満洲族の愛新覚羅氏(アイシン・ギョロ氏)が立てた王朝で、満洲語でダイチン・グルン(Daicing gurun, 大清国)といい、中国語では大清(ダーチン、ピン音 Dàqīng)と号した。
国号について
諸説ある。 漢民族の宋が女真族の金によって南方に追われたことがあったため、明に「後金」という国号を警戒されることを恐れて、金と同音異字の「清」としたという説。 五行説にもとづくという説。明が「火徳」であることから、それにかわる「水徳」をあらわす「氵」と、『周礼』で東(満洲は中国の東北部にあたる)を象徴する色とされる「青」を組み合わせ、中原進出の意味を込めたというもの[1]。
また、「しん」という読み方が、北京官話と異なることは長崎や明の遺民を通じて伝えられていたものの、そのことは知識人らの残した文書などにみられる程度である。
ラテン文字転写としてウェード式では清を「Ch'ing」と綴る。1958年のピンイン制定後は「Qing」と綴る。
清の勃興
17世紀初頭に明の支配下で、満洲に住む女真族の統一を進めたヌルハチ(太祖)が、1616年に明から独立して建国した後金国が清の前身である。その子のホンタイジ(太宗)は山海関以北の明の領土と内モンゴルを征服し、1636年に女真族、モンゴル人、漢人の代表が瀋陽に集まり大会議を開き、そこで元の末裔であるモンゴルのリンダン・ハーンの遺子から元の玉璽(後に作られた偽物である可能性が高いが)を譲られ、大清皇帝として即位するとともに、女真の民族名を満洲に改めた。
清の中国支配
順治帝のとき、李自成の乱によって北京が攻略されて明が滅んだ。清は明の遺臣で山海関の守将であった呉三桂の要請に応じ、万里の長城を越えて李自成を破った。こうして1644年に清は首都を北京に遷し、中国支配を開始した(「清の入関」)。しかし、中国南部には明の残党勢力(南明)が興り、とくに鄭成功は台湾に拠って頑強な抵抗を繰り広げた。清は、はじめ摂政王ドルゴン(ヌルハチの子)によって、のち成長した順治帝の親政によって、中国南部を平定し、明の制度を取り入れて国制を整備した。
清の最盛期
順治帝に続く、康熙帝・雍正帝・乾隆帝の三代に清は最盛期を迎えた。
康熙帝は、即位後に起こった三藩の乱を鎮圧し、鄭氏の降伏を受け入れて台湾を併合して、清の中国支配を最終的に確立させた。対外的にはロシアとネルチンスク条約を結んで東北地方の国境を確定させ、外モンゴルとチベットを服属させた。
18世紀の大清また、このころ東トルキスタンを根拠地としてオイラト系モンゴルのジュンガル部が勃興していたが、康熙帝は外モンゴルに侵入したジュンガル部のガルダンを破った。のち乾隆帝はジュンガル部を滅ぼして東トルキスタンを支配下においた。これによって黒竜江(アムール川)から東トルキスタン(新疆)、チベットに及ぶ現代の中国の領土がほぼ確定した。
こうして少数の満洲族が圧倒的に多い漢族をはじめとする多民族と広大な領土を支配することとなった清は、中国王朝の中でも特有の制度を築いた。藩部と呼ばれた内外モンゴル・東トルキスタン・チベットでは土着の支配者が取り立てられて間接統治がひかれ、理藩院に管轄された。満洲族は八旗に編成され、軍事力を担った。重要な官職には漢族と同数の満洲族が採用されてバランスを取った。雍正帝の時代には皇帝直属の最高諮問機関軍機処が置かれ、皇帝独裁の完成をみた。
中国が繁栄を極めたこの時代には文化事業も盛んで、特に康熙帝の康熙字典、雍正帝の古今図書集成、乾隆帝の四庫全書の編纂は名高い。一方で満洲族の髪型である辮髪を漢族にも強制し、文字の獄や禁書の制定を繰り返して異民族支配に反抗する人々を弾圧し、凌遅刑と呼ばれる凄惨な処刑を清が滅亡する20世紀初頭まで行い、その刑で処刑された人肉は一般家庭などで薬として食されていた。(この凌遅刑を撮影した写真が現存している)。
しかし、乾隆帝の60年に及ぶ治世が終わりに近づくと、乾隆帝の奢侈と十度に及ぶ大遠征の結果残された財政赤字が拡大し、官僚の腐敗も進んで清の繁栄にも陰りが見えはじめた。乾隆帝、嘉慶帝の二帝に仕えた軍機大臣の和珅は、清朝で最も堕落した官僚の一人であり、乾隆帝の崩御後、新政を行おうとする嘉慶帝により自殺に追い込まれた。
ヨーロッパ列強の進出と内乱
19世紀の中国は、清の支配が衰え、繁栄が翳った時代である。清朝は、大規模な社会動乱、経済停滞、食糧の供給を逼迫させる人口の爆発的増加などに苦しんでいた。これらの理由に関しては様々な説明がなされるが、基本的な見解は、清は、この世紀の間ずっと、時代遅れの政府、官僚組織、経済では対処しきれない国内問題と自然災害に直面したということである。
19世紀の中国にとっての主要な問題の一つはどのようにして外国と付き合うかということであった。それ以前は、中国は東アジアにおいて覇権を握っており、中華思想により、中国の皇帝が『天下』を支配し、冊封体制の下で近隣諸国を統率するものと考えていた。しかし、18世紀後半になると、ヨーロッパ諸国が世界に進出し、産業革命と海運業により経済を発展させていった。イギリス商人は18世紀末にヨーロッパの対中国貿易競争に勝ち残って、中国の開港地広州で茶貿易を推進した。
1793年、イギリスは、広州一港に限られていた貿易の改善を交渉するため、ジョージ3世が乾隆帝80歳を祝う使節団としてジョージ・マカートニーを派遣した。使節団は最新の工業製品や芸術品を皇帝に献上したが、清はヨーロッパの工業製品は必要とせず、ジョージ3世は自由に皇帝に敬意を表してよいという返答を得たのみであった。これはイギリス政府の気分を深く害することとなった。
この清の対応の結果、イギリスと清の貿易では、清の商人は銀での支払いのみを認めることとなった。当時のイギリスは、茶、陶磁器、絹を清から大量に輸入していたが、これらの代償として中国に輸出する商品を欠いていたのである。これに対し、イギリスはアメリカ独立戦争の戦費調達や産業革命の資本蓄積のため、銀の国外流出を抑制する必要があり、インドの植民地で栽培したアヘンを中国に輸出することで三角貿易を成立させた。清は1796年にアヘンの輸入を禁止していたが、アヘン貿易は次第に拡大し、中国社会でのアヘンの蔓延は清朝政府にとって無視できないほどになった。このため、1839年林則徐を欽差大臣に任命してアヘン貿易の取り締まりを強化した。
林則徐はイギリス商人らのアヘンを没収して処分する強行策を取ったが、かねて自由貿易を望んでいたイギリス政府はこの機会に武力で開港させる決意を固めて、翌1840年アヘン戦争を起こした。強力な近代兵器をもつイギリス軍に大敗した清は、1842年イギリスと南京条約(およびそれに付随する虎門寨追加条約、五口通商章程)を締結した。主な内容は、香港の割譲や上海ら五港の開港、領事裁判権の承認、関税自主権の喪失、清がイギリス以外の国と締結した条約の内容がイギリスに結んだ条約の内容よりも有利ならば、イギリスに対してもその内容を与えることとする片務的最恵国待遇の承認であった(その後、1844年にフランスと黄埔条約を、アメリカと望厦条約を締結した)。
対中国貿易はこの後も伸び悩んだので、イギリスは1856年清の官憲がイギリス船アロー号の水夫を逮捕したのを口実に、1857年アロー戦争を起こした。イギリスは、宣教師が逮捕斬首にあった事を口実として出兵したフランスと共に広州・天津を制圧し、1858年に公使の北京駐在・キリスト教布教の承認・内地河川の商船の航行の承認・英仏に対する賠償金・アヘンの輸入公認などを認めさせる天津条約を締結した。その後北京を制圧し、天津ら十一港の開港・イギリスに対し九竜半島の割譲・中国人の海外への渡航許可を清に認めさせる北京条約を結んだ(1860年)。これにより外国商品の中国流入が進んだ。また、このときロシアに沿海州を割譲した。
この戦争と同時期には、国内でもキリスト教の信仰を紐帯とした組織太平天国による太平天国の乱(1851年 - 1864年)、捻軍の反乱(1853年 - 1868年)、ムスリム(回族)によるパンゼーの乱(1856年 - 1873年)や 回民蜂起(1862年 - 1877年)などが起こり、清の支配は危機に瀕した。太平天国の乱の末、即位した同治帝の母西太后が政権を握ると、曾国藩・李鴻章ら太平天国の鎮圧に活躍した漢人官僚が力を得て、王朝の根幹の制度を維持したまま欧州の技術を導入する洋務運動を開始するに至った。
1881年にはロシアとの間で不平等なイリ条約を締結し、イリ地方をロシアに割譲することになった。
半植民地化・滅亡
1884年、インドシナ半島の植民地化を進めるフランスに対しベトナム宗主権を主張して清仏戦争(- 1885年)を起こすが、これによって冊封国ベトナムを失い、アジアの盟主の地位が激しく揺らいだ。続く1894年、朝鮮で東学党の乱(甲午農民戦争)が起こり清が出兵すると、朝鮮進出を伺う日本も対抗して出兵して日清戦争(- 1895年)に発展したが、清の敗北に終わり、下関条約によって台湾割譲と朝鮮が自主国であることを確認させられ、朝鮮に対する影響力も失った。
「眠れる獅子」と畏れられた清が、同じアジア人国家の日本に敗北する様子を見た欧州列強は、1896年から1898年にかけて勢力分割を行い、満洲からモンゴル・トルキスタンをロシア、長江流域をイギリス、山東省をドイツ、福建省を日本、華南をフランスが勢力圏とした。同じく、イギリスは香港の九龍半島と威海衛、フランスが広州湾、ドイツが青島(膠州湾租借地)、ロシアが旅順と大連を租借地として、それぞれ要塞を築いて東アジアの拠点とした。アメリカは南北戦争による国内の混乱から出遅れたため、これらの勢力圏は全て平等に開かれるべきだとして、門戸開放宣言を発した。
中国と書かれたパイが、列強により分割されている風刺画。人物は前列の左からそれぞれ、イギリス・ドイツ・ロシア・フランス・日本を表し、後列の手を挙げている人物は、清朝を示している。これに対し康有為、梁啓超ら若い知識人が日本の明治維新にならって清も立憲君主制を取り国政の本格的な近代化を目指す変法自強運動を唱えはじめた。彼ら変法派は光緒帝と結んで1898年一時的に政権を奪取することに成功する(戊戌の変法)が、西太后率いる保守派の反撃にあって打倒された(戊戌の政変)。その後、西太后は愛新覚羅載儁(保慶帝)を皇帝として擁立するも、保慶帝の父が義和団の指導者であるため強い反発をうけ、3日で廃された。
1899年、反西洋・反キリスト教を掲げる義和団が蜂起し、「扶清滅洋」をスローガンにかかげて外国人を襲いつつ北京に進出した。翌1900年西太后はこれに乗せられて列強に宣戦布告したが、八カ国連合軍に北京を占領され、外国軍隊の北京進駐を認める北京議定書を結んで屈服した。こうして中国の半植民地化はますます進んだ。
20世紀に入ると、日露戦争(1904年 - 1905年)の影響もあって清朝政府はついに近代化改革に踏み切り、科挙を廃止し、六部を解体再編し、憲法発布・国会開設を約束し、軍機処を廃止して内閣を置いた。しかし、清は求心力を失いつつあり、孫文らの革命勢力が次第に清打倒活動を広げていた。1911年、武昌での軍乱をきっかけに辛亥革命が起こり、清は完全な内部崩壊を迎えた。
翌1912年1月1日、南京に中華民国が樹立した。北京の最後の皇帝溥儀(宣統帝)は2月12日、正式に退位し、ここに清は完全に滅亡した。
政治
官制
清初期、康熙帝の治世までは未だ部族合議制的な制度が残り、完全な集権体制の皇帝というわけではなかった。その象徴が議政王大臣会議(ぎせいおうだいじんかいぎ)と呼ばれる制度である。この制度は旗王(八旗の長)や皇族・宗族の有力者など実力者が選ばれて会議を行い、政治の方針を決めるものである。この中では皇帝も旗王の一人であり、無限の権力が振るえるわけではない。
それと平行して置かれていたものが明から引き継いだ内閣制度である。ホンタイジ時代には内三院と呼ばれており、行政機関の一つに過ぎず、議政王大臣会議の決定に従うものであった。しかし漢文化を愛する順治帝により、内閣に名を改められて最高行政機関となり、議政王大臣会議は軍事を管轄するようになった。
その後、雍正帝は議政王大臣会議に権力を制限される事を嫌って、軍事・行政の両方を総攬する皇帝の諮問機関である軍機処を創設して完全なる皇帝独裁体制を整えた。軍機処に権限を奪われた議政王大臣会議は1792年に廃止される。
中央には軍機処の他に六部・内務府(宮廷諸事)・宗人府(皇族・宗族の事務)・理藩院(藩部の統括。藩部については後述)・都察院(官僚の監察)・通政使司(上奏分の検閲)・大理寺(最高裁判所)がある。
地方は皇帝直属である省と藩部と満洲族の故地である満洲とに分かれている。
藩部はホンタイジが最初に内モンゴルのチャハル部を服属させた時に蒙古衙門(もうこがもん)を置いてモンゴルの統治に当たらせた事に始まる。その後、蒙古衙門は理藩院と改名し、外モンゴル・新疆・チベット・青海を服属させると藩部と総称するようになった。基本的に藩部には土民の旧制を維持し、行政官は当地の実力者をあてて半自治を行わせ、その上から理藩院が管轄するという形を取っている。
省はほぼ現在の中華人民共和国と同じものが置かれている。直隷(河北省)・江蘇省・安徽省・山西省・山東省・河南省・陝西省・甘粛省・浙江省・江西省・湖北省・湖南省・四川省・福建省・広東省・広西省(広西チワン族自治区)・雲南省・貴州省の18である。省の下に府・州・県がある。府・州・県の長官はそれぞれ知府・知州・知県と呼ぶ。省の長官は巡撫と呼ばれ、またそれとは別に複数の省を統括する総督があり、双方が州の民政・軍事を司っていた。
満洲族の故地である満洲地方については省は置かずに、それぞれ黒竜江将軍(黒竜江省)・吉林将軍(吉林省)・盛京将軍(遼寧省)らに軍政を行わせて満洲族の軍事力を弱体化させないようにした。またこの地に対する漢民族の移住を禁止して、満洲族が漢民族に同化してしまわないようにした。
満漢偶数官制
清の政治は圧倒的多数である漢民族を少数派である満洲族がどうやって統治していくかに気を配っていた。その政策の主眼となるものが満漢偶数官制と呼ばれるものである。中央の諸官のポストをそれぞれ満洲族・漢民族が同数になるように配置していく制度である。
清の官吏のポストはそれぞれ満官缺(満洲族だけが就ける。以下同様)・蒙官缺(モンゴル人)・漢軍官缺(八旗に所属する漢人)・漢官缺(八旗に所属しない漢人)と言う風に分けられていた。地方の巡撫・総督は満漢半数であり、その下の知府以下は漢人が多く登用された。
兵制
兵制は満洲族の軍制である八旗制度を採用していた。それを補完する形で緑営がある。緑営は明の兵制を解体した後に再編成したもので、各地に分散して配置された。詳しくは八旗の項を参照。しかし乾隆以降は長い平和に八旗は堕落し、物の役には立たなくなっていた。
その後白蓮教徒の乱・苗族の乱など国内での反乱が多発するようになると、郷勇という義勇兵が八旗に代わって活躍する。反乱鎮圧後には郷勇は郷里へと帰るように命ぜられたが、中には流民が食うために兵士になったものも多く、それらの兵士達は緑営に編入されるか、そうでない者は盗賊化することもあった。
その後の太平天国の乱に際しては湘軍・淮軍といった有力者による半私兵集団が鎮圧に当たり、軍閥化が進むようになる。これ以降の政府では曽国藩・李鴻章といった軍閥の長が権力を握るようになり、軍機処を初めとした中央の官僚の権限は有名無実化した。
経済
清の社会は基本的に明を引き継いでおり明清帝国と呼ばれる事もある。
明代後期から出現した郷紳層による地方支配、外国産の銀の流通による経済の発達、東アジア交易網の隆盛などが明後期から清前期の特徴として挙げられる。
農業の発展と人口爆発
北宋代に1億を超えたと言われる人口は増減を繰り返し、康熙帝期の1700年に1億5千万、乾隆帝期の1770年から80年にかけて2億8千万、19世紀前半に4億を突破した(数字は全て推定)。
この人口の爆発的増加の最大の理由は新大陸原産の作物トウモロコシ・サツマイモ・落花生などが導入された事にある。これらは水がそれほど豊富でなくとも育つ作物であり、それまで灌漑が不可能なるがゆえに見放されていた山地に漢民族が進出できるようになった。溢れる人口は領内だけでは収めきれず、満洲・モンゴル・青海と言った本来漢民族の居住地ではない所にも進出し、牧草地や山地を農地に変えていった。更に陸地だけでも収まりきらず、明代から出現していた華人が激増する事になる。
これらの漢民族の進出は多くの場合、現地の民族との摩擦を引き起こし、時に現地の民族の経済的没落を招く事になった。これに不満を持ったモンゴル族・苗族などは何度か反乱を起こすが、数の圧力には逆らえず次第に勢力を減退させていった。また鄭一族の降伏により版図に入った台湾にも数多くが進出し、開発が進む一方で原住民達は山間部に追いやられていった。その中で清の故地である満洲は満洲族の保護の意味から漢民族の移住を禁止していたが、19世紀末になって、この地方にロシアの圧力がかかってくるようになると領土権の保持と防衛のために禁を解除し、この地も漢民族の農地が広がることになる。
税制
清初には税制も明から一条鞭法を引き継いでいたが地丁銀制に切り替えた。これはそれまでが人頭税(人丁)・土地税(地丁)の二本立てであった税を土地税一本にするものである。それまでは郷紳勢力には免税特権が与えられており、また人頭税逃れのために戸籍に登録しようとしない者も多く、これらの対策のために完全に土地による税制に切り替えたのである。この制度が行われた後には隠す必要が無くなった人々が戸籍に登録されるようになり、前述の人口増加はこれが原因の一端と見られている。それと共に戸籍制度もそれまでの里甲制から変えて、新しく作り直した。
商業
明代から引き続いて全国的に手工業が大いに盛んであり、絹織物・綿織物に加えて鉄の加工販売が盛んとなり、増大する人口と農地に必要な農具が大量に作られていた。だが、清朝初期には海禁政策の影響で海外からの銀の流入が止まって、極端なデフレ状態に陥って「銀荒穀賤」と呼ばれて民衆は勿論、有力者の中にも破綻するものが相次いだ。この傾向は鄭氏政権の崩壊によって海禁政策が緩和されるとともに落ち着くようになる。
そして商業も非常に活発となり、それに伴い商業システムの発展が随所に見られる。典舗・当舗と呼ばれる質屋は貸付・預金業を行い、独自に銀と兌換が出来る銀票を発行した。また為替業務を行う票号という機関もあった。これらの中心となっていたのが山西商人(山西省出身)・新安商人(安徽省出身)と呼ばれる商人の集団で、山西商人などは豊富な資金を背景に皇族とも密接にかかわり、政府資金の運用にも関わっていたと言われる。
文化
順治帝は漢文化に傾倒したことで有名であり、康熙・雍正・乾隆の三世はいずれも類稀な文人でもある。しかしその事は文化の保護に繋がらず、逆に弾圧に繋がった。異民族支配による文人達の反抗を抑えるために文字の獄と呼ばれる厳しい弾圧を行い、幾人もの文人が死罪になっている。
上記三世の皇帝は康熙期の『康熙字典』、乾隆期の『四庫全書』などの文化事業を行ったが、それは同時に政府の近くに文人達を集める事による言論統制の意味があった。
思想
厳しい思想統制が行われる中で、考証学と呼ばれる新しい分野が生まれた。
これは聖人の教えを精釈して、忠実な思想を受け継ごうというものである。具体的にはそれまでの主観的に四書五経を読み解いている(と考えられる)朱子学や陽明学を批判して、過去の経書に遡って解釈を行うこととなる。そして最も重視されたのが漢代のものである。
考証学では全ての経書に細密な考証が加えられ、その結果、孔子の子孫の家の壁から現れたと言う『古文尚書』が後に作られた偽作であると判明した。このようにそれまで絶対視されてきた経書にも疑問が投げかけられ、儒教自体が相対化されることになる。
また史書・地理志にも考証学の技法が用いられて、それらの誤脱を見極めて正しい事柄を見極めようとした。この分野では『二十二史箚記』の著者趙翼が有名である。
しかしこの分野は政府による文字の獄の中で次第に政府を刺激するような物は避けられるようになった。確かに研究の上では非常に大きな成果をもたらしたが、技術のための技術へとなってしまい、純粋な学問となってしまったとの批判がある。日本では学問が浮世離れしていてもごく普通に感じるかもしれないが、中国では学問とは何よりも政治のためのものであって、現実世界に寄与しない学問は無意味であるとの考え方が強い。これらの批判を受けた学者達は『春秋公羊伝』を経典とした公羊学を行うようになる。
文学
清代に入り、それまでの中国的な文人像が相対化されたことでそれまではこれをしなければ文人にあらずと思われていた漢詩の分野もまた相対化されて、必ずしも必須のものではなくなった。もちろん多数の作者により、多数の作品が作られており、全体的には高いレベルにあったが、しかし飛びぬけた天才・名作は無い。
一方、明代から引き継いで小説・戯曲の大衆文化は盛んであり、小説では『聊斎志異』『紅楼夢』、戯曲では『長生殿伝奇』『桃花扇伝奇』などが作られている。それまでは俗と考えられていたこの分野もこの時代になるとそうは捉えられなくなり、官僚層の間でも小説を評価する動きが出てきた。
現代中国で普通話と呼ばれる北京語が成立したのも清代である。本来北京周辺で話されていた言葉と東北地方の語彙が混り合ったものとなったため、北京語は他の方言とは異なる特徴を持つ言葉となった。
美術
絵画の分野ではイエズス会士ジュゼッペ・カスティリオーネによってもたらされた遠近法を取り入れた新しい絵画の誕生が見られる。また明初の石濤、八大山人といった明の遺民たちは清に対する抵抗を絵に描き表した。
陶磁器の分野では景徳鎮は陶磁器生産の大工場としての地位を保っており、明代から引き継いで赤絵・染付などの生産が行われた。しかし乾隆以降はこれらは急速に下火になり、質的にも大きく劣ると評価される。
瀋陽にある清の旧王宮は北京と瀋陽の明・清王朝皇宮として世界遺産に登録されている。
国際関係
前期
清朝はすでに満洲時代にモンゴルの諸部族を併合し、朝鮮に朝貢させており、清軍が華南に進むにつれて琉球、マカオのポルトガル人、ベトナム(安南)が朝貢してきた。また呉三桂が南明の永暦帝を追って雲南からビルマに入った。しかし三藩の乱や台湾鄭氏政権の抵抗のため、海上からの朝貢は鄭氏が投降するまで本格的に始まらなかった。その後、広州などを開放して東南アジア諸国や英仏などの交易を許した。特にタイのアユタヤ王朝は清朝の要請を受けて、タイ米を広東や福建に輸出した。清朝は明朝と違い、厳格な海禁政策は取らなかった。日本の江戸幕府は朝貢してこなかったので外交関係はなかったが、中国商船の長崎貿易は許されていた。欧州との関係についていえば、マカオ経由で入国したイエズス会員らカトリック宣教師が明末以来引き続き北京に滞在し、主に科学技術や芸術技能をもって朝廷に仕えていた。
北辺ではシベリアに進出したロシアが満州北部に迫り、ネルチンスク条約やキャフタ条約によって中露国境が定められた。
後期
19世紀に入ると産業革命が進む欧米と中国との力関係が逆転し、特にナポレオン戦争後の世界の覇権を握ったイギリスを中心として中国侵略が開始され、後発のロシアや日本もこれに加わった。その結果、アヘン戦争、アロー号戦争(第2次アヘン戦争)、清仏戦争(ベトナム宗主権を巡る)、日清戦争(朝鮮宗主権を巡る)、義和団の乱が起こり、清朝はイギリスに香港島を割譲したのを始め九龍・新界租借地、威海衛租借地、ロシアに旅順大連租借地(後に日本が譲渡され関東州租借地)や東清鉄道利権、ドイツに膠州湾租借地、フランスに広州湾租借地を与えた他、日本に台湾を割譲した。また上海にも共同租界やフランス租界が設置され、列強の中国侵略の足場となった。
清の皇帝の姓
皇帝の姓を愛新覚羅(あいしんかくら)という。本来の満洲語ではAisin gioro(アイシン・ギョロ)と発音し、 アイシンは「金」、ギョロは「氏」ということで、即ち「金氏」を意味する。
清(1616年——1911年),是一个由来自东北亚的满族(女真)人建立的集权帝制帝国。也是中国历史上最后一个帝制王朝。它的前身是努尔哈赤的后金汗国。1636年,后金第二代大汗皇太极(清太宗)自称皇帝,定都盛京(今沈阳),建国号为清,建元“崇德”。同时他下诏将女真改为“满洲”,设置六部,开科取士,逐渐汉化。清人对中原虎视耽耽,皇太极还曾六掠中原。1644年4月,清军入关,定鼎北京。1683年攻克明朝最后领土台湾,彻底消灭明朝残余势力,之后又打败俄罗斯的侵略,三征噶尔丹,平定蒙古。之后控制了西藏,到1759年,清廷平大小和卓之乱,占领新疆,清王朝的版图确立,同时也奠定了当代中国的疆土。同时由于清初大乱,反抗者此起彼伏,满清贵族不得不在高压统治之下,采取一定的怀柔政策缓和民族矛盾。随着战争结束,康雍乾三代,中国人口经济出现恢复性增长,社会局面一时较为平稳。乾隆后期,集权专制体制弊端丛现,官员贪污腐败,横征暴敛,百姓怨声载道,民不聊生。内部农民起义不断,而英国等资本主义国家正觊觎着中国。1840年鸦片战争以后,清统治者对外勾结西方侵略者,对内更加苛刻地压榨中国人民,最终导致了太平天国、捻军、义和团等农民起义爆发。而西方列强则对中国发动五次大规模的侵略战争,两次攻占北京。清朝后期,阶级矛盾和民族矛盾不断激化,满清政权也终于在辛亥革命的炮火中被推翻。
清朝的历史
清朝初期的历史
1644年后,中国南方先后出现了弘光、隆武、永历等多个明朝政府,此外还有李自成的大顺、张献忠的大西政权。中华大地四分五裂,南明政府依然过着醉生梦死的生活,忙于选妃,阉党东林党彼此党争,弘光朝廷覆灭后,为争夺正朔隆武鲁监国、绍武永历还先后互相攻伐。连年战火破坏了一切社会生产,百姓民不聊生。
清政府先后派遣多铎、阿济格、豪格、吴三桂、李成栋等南下攻打各地的农民军和明朝军队。
在八旗军占领中原的过程中,无恶不作,激起江南人民的强烈反抗,特别是剃发令强制执行,各地再燃抗满的熊熊烈火,都被满洲统治当局残酷镇压下去,在扬州、嘉定、江阴、南昌、广州等地进行了大肆屠城(详见词条江阴屠城)。
明朝将军郑成功在1661年攻下了当时为荷兰殖民地的台湾,打起大明的旗号建立台湾郑氏政权,来做为抗清基地。1683年,清朝政府派施琅攻占台湾。
清朝虽然依靠武力开疆扩土,但在人文精神上比前朝确有了很大退步。正所谓清朝强盛而中国退步,明朝衰弱而中国在进步。清朝初期和中期,推行民族牢狱式的统治。在经济上把关外落后的奴隶制带入中原,大力推行圈地投充等恶政,强抓人作奴隶,以供八旗子弟白白吃饷,他们常年寄生虫般的生活造成了清朝武力的退步(乾隆视察八旗军发现他们驰马坠地,箭箭虚发)也使得满清越来越依靠汉族军兵。除了推行奴隶制外,由于中前期不断穷兵黩武,尽管从越南引入了优良稻种,清朝还是到了乾隆年间才恢复到明朝万历年间的水平。在政治上,明代的君权依然松懈,而清朝又把封建专制推向了最高峰。为了巩固其统治,在文化上进行了多起文字狱运动,造成了后期万马齐喑就可哀的局面。最典型的就是明末可以和春秋时代相比的晚明思潮在清代终结。知识分子不敢发表独立见解而是钻进故纸堆去考究古书,这就是所谓的钱嘉学派。不单是哲学思想连文学也有很大退步。如明末话本小说所透露的生动生活气息不见了,取而代之的是枯燥的道德说教,只有看透世事的红楼梦聊斋给了人一笔亮色。由于清朝统治者刻意制造满汉之分,压制汉族先进思想,闭关锁国。在很大程度上造成了中国的落后。清朝后期,英、法、美西方各国的资本主义却在迅速发展。中国作为一个幅员辽阔的古老国家,成为了殖民主义者侵略扩张的新对象。西方列强先后发动了两次鸦片战争。清政府被迫与西方列强签定了一系列的不平条约。为了自强,晚清政府全国上下开展了洋务运动,“师夷长技以制夷”,然而当时只是看到了西人的外在所长(如船坚炮利),却看不到中西方本质的差距。所谓的同治中兴不过是回光返照,当然这为近代中国民族工业打下了一定基础。1898年,锐意改革立志变法的年轻光绪帝开始了“戊戌变法”。但与此同时,中国封建社制度已经走到穷途末路,以满清贵族为主的保守势力的阻扰新法,仍然叫嚣着中国宁与友邦(洋人),不与家奴(汉人)这样的愚蠢狭隘的口号,结果变法失败。
剃发易服
中国人自古以来就非常重视衣冠服饰。《孝经》有言:“身体发肤,受之父母,不敢毁伤,孝之始也。”汉人成年之后就不可剃发,男女都把头发绾成发髻盘在头顶。满族的发型与汉人迥异,该族男子把前颅头发剃光,后脑头发编成一条长辫垂下。汉人的服装汉服以交领、右衽、无扣等为主要特色,满装的主要特点是立领、对襟、盘扣等。
清朝由居于中国东北的满族人建立。在入关之前,满族统治者在关外已然推行“剃发易服”政策。对被征服的汉族人一律强令改变发式、更换服装,投降的明朝将士也必须剃发易服,作为臣服的标志。
满洲军队于1644年进入中国时曾颁发“剃发令”,因引起中国人的不满和反抗,于是公开废除此令。1645年八旗军进军江南后,汉臣孙之獬受到其他汉大臣的排挤,恼羞成怒之下向摄政王多尔衮提出重新颁发“剃发令”。于是,多尔衮下令再次颁发“剃发令”,规定清军所到之处,无论官民,限十日内尽行剃头,削发垂辫,不从者斩。其执行口号是:“留头不留发,留发不留头”。汉族人民为保护世代相承的文物衣冠进行了此起彼伏的斗争。清朝统治者对此进行了暴力镇压,例如1645年发生的嘉定三屠事件即与“剃发易服”有关。此起彼伏的斗争历经几十年,最终结果是满族封建统治者取得胜利,汉族大部分生者都剃发结辫,改穿满族衣冠;坚持不愿改换衣冠者要么被杀,要么逃到海外,要么遁入空门,带发修行。
清朝满族统治者推行“剃发易服”的原因:一般认为,满族统治者希望通过剃发易服来打击、摧垮广大汉族人民尤其是上层人士的民族精神;保持满族的统治地位,保持满族不被汉族同化。后来的历史表明,满族统治者的这一措施基本达到了预期效果。汉人逐渐淡忘本民族服饰,习惯了满族的发式和服装。到辛亥革命推翻清帝国,号召民众剪去辫子时,仍然有许多人不愿意剪,其中原因之一就是害怕剪去鞭子后被官府杀头,可见“留头不留发,留发不留头”的“剃发易服”政策对汉族影响极深。
“剃发易服”是清初主要的社会矛盾之一。针对当时各地汉人的抗争此起彼伏的情况,当时的陈名夏曾说过:“免剃头复衣冠,天下即可太平”。然而不久他就因为说了这句话而被满门抄斩。
对于汉族妇女的着装和缠小脚习俗,清廷却没有实行任何强制措施。清初,满族妇女以旗装长袍为主,而汉人妇女仍以上衣下裙为时尚,泾渭分明;清中期,满汉女子各有仿效;到了清代后期,满族效仿汉族的风气日盛,甚至出现了诗句里“大半旗装改汉装,宫袍截作短衣裳”的情况,再后来的旗袍相继出现连袖式、对开襟、琵琶襟等形式,根据季节和不同的要求,又有单、夹、袄之分,袖子也有长、中、短、松、紧之别。
康雍乾时期
康熙帝(清圣祖)巩固和加强了满清帝国的统一。对内平定了三藩之乱;降服了控制台湾的郑成功孙子郑克塽,1685年,他派兵驱逐了盘踞在黑龙江流域雅克萨的沙俄侵略者,遏制了沙俄对华侵略的野心。1689年,他派代表与沙俄代表签订了《尼布楚条约》,做出了一些让步,把贝加尔湖以东划给俄国,由此划定了中俄东部边界线;不久又迅速征服了准噶尔,稳固了清朝的统治。
康熙皇帝注意恢复和发展生产。采取了一系列有利于社会经济恢复和发展的措施。鼓励垦荒,从1671年起,陆续放宽垦荒起科年限,并规定垦荒有成绩,据开垦多少,给予不同官职,这促进了垦荒的积极性,到康熙末年,全国荒地基本上得到开辟。1669年,康熙下令废除圈地令,以后永远停止圈地,并规定所圈土地应退还给农民。1685年,康熙又规定民间新垦田亩,“自后永不许圈”,从而在一定程度上限制了贵族旗主的经济扩张,有利于自耕农民。康熙还下令将明朝藩王的庄田改为“更名田”。
康熙年间,制定了一系列的文治政策,康熙本人较为开明,经济、文化迅速恢复,再经雍正、乾隆两朝,社会局面一时较为平稳。
雍正帝(清世宗)盛年登极。他最主要的特点就是改革,可谓大刀阔斧,快刀斩麻。心狠手辣,大兴文字狱。
首先整顿吏治。雍正一上台就大刀阔斧地整顿吏治。雍正元年的正月,雍正连续下了13道谕旨,总督、巡抚、布政司、知府、知州、知县、文官还有武官,告诫他们不许贪污,不许受贿,不许克扣,武官不许吃空额,违者严重治罪。雍正还成立会考府,就是对财政进行审计,审计出问题,要严肃处理。
雍正废除了贱籍。雍正元年(1723年)三月,监察御史年熙上书请除豁山西、陕西乐户的贱籍。山西、陕西乐户的祖先,是明成祖登基后,加害建文帝的忠臣本人外,还将他们的妻女罚入教坊司,充当官妓,世代相传,久习贱业。年羹尧之子年熙在奏疏中说她们是忠义之士的后代,沉沦至此,无由自新,请求雍正帝开豁她们的贱籍,准许她们改业从良。雍正帝看到奏折后,很是赞同,于元年(1723年)四月发出第一道"豁贱为良"的谕旨。雍正帝在下令开豁乐户贱籍的同时,又令各省检查,如发现本地也存在类似乐户的贱民,也准许他们出贱为良。
雍正先后下令取消贱民,取消贱籍,让他们编为民籍,这是社会的一种进步。这种人虽然人数不是太多,但是在历史上是有一种积极的进步的意义。
雍正在位13年,对许多的事情做了重大的改革,特别是对一些制度方面做了些改革。所以说雍正是“康雍乾”三代承上启下的作用。 康雍乾三代的发展很大程度属于明末大乱之后的恢复性增长,也是清辖两百多年中社会发展较为平稳的时期。
乾隆帝(清高宗)执政60年,好大喜功,四处征伐,屡尝败绩,但有效地击败大小和卓,让了新疆留于中国版图之内。他诏命纪昀、和珅等人组织编纂《四库全书》,是我国最大的一部丛书,但也对其中大量书籍进行了抽改乃至销毁。1772年开始,经十年编成。很多珍贵材料就此丧失。
乾隆帝酷爱汉文,勤于写诗,有卓越的诗文才华,留下了约42613首各体诗作。作为一个皇帝,一个业余诗人,他的诗作甚至比全唐两千多诗人的的还多,但水平不高;乾隆的全面汉化对汉文化有一定积极意义。但由于清朝的文字狱,诗选的编选者不敢收录、评价当朝皇帝的诗,而原著(《御制诗集》)又卷帙浩繁,所以乾隆的诗没有流传开来。大部分是帝王体打油诗。
乾隆六下江南,并仿制江南园林广修园林,劳民伤财。在六下江南后已有很多百姓起义。
对待威胁其统治的问题上, 乾隆帝粉碎了新疆地区大小和卓木的武装暴乱,屠杀准噶尔大汗兼并了整个新疆并制度化管理。打败了廓尔喀对西藏的进犯。乾隆五十八年(1793年),清朝政府制定和颁行的《钦定藏内善后章程二十九条》,这一章程,是我国对西藏行使主权的重要历史文献证明。
乾隆帝还征服了安南(今越南)、缅甸等地,巩固了清朝在东亚世界的势力。
乾隆晚年昏聩不已,对英使马格尔尼一行极尽蔑视,对世界大局毫无把握能力,狂妄自大,坐井观天。对英王提出的通商政策断然否决,再一次延误了中国主动打开国门的机会。
在康乾时期,社会经济发展呈恢复性增长。首先是因战乱荒置的耕地面积迅速恢复,至雍正时,已达到九亿多亩,恢复并超过了明朝万历时期。加上农业技术的发展,单位面积产量的提高,番薯的引入和种植,使全国粮食总产量大大增加。康乾时期成为中国帝制制度最后的回光返照。
晚清(1840~1912年)时期
清朝从乾隆后期更加衰落的现象,腐败日益严重。继位的嘉庆帝(清仁宗)和道光帝(清宣宗)掌政风格更保守和僵化。19世纪上半叶,英国开始大量向中国贩售鸦片导致1840年中英鸦片战争的爆发。鸦片战争失败后,西方列强开始入侵,迫使清政府与其缔结了一系列不平等条约。第一个不平等条约是中英《南京条约》。第二次鸦片战争失败后又签定了《天津条约》和《北京条约》等。根据这些条约,清政府被迫割地赔款、开放通商口岸,清廷的威信一落千丈,同时中国也自此逐步沦为半殖民与半封建的社会,主权受到严重损害。由于人民的负担逐年加重,因此引发了一系列的反抗运动,规模最大的太平天国运动,一度对满洲贵族的统治构成了严重挑战。因此清政府不断起用汉人,由李鸿章、左宗棠、张之洞等人发起了“师夷长技以制夷”的“洋务运动”,成为中国近代化之始。
至1880年代,清朝军队的装备和洋务运动之前相比已有了明显的提高;在1884年至1885年中法战争期间的一系列战役中,清军和法军互有胜负。战后,清朝设立了海军衙门,并建成了近代海军舰队——北洋水师。
洋务运动虽取得了很大的成果,但是由于时人多数未明当时的国际形势,少数人的急迫性并无法改变多数官僚的旧思维,清朝的维新运动最终未达日本明治维新般的成效,结果导致1894年清日甲午战争的失败,并于1895年与日本签定《马关条约》。随后,由光绪帝(清德宗)与梁启超和康有为领导发动的政治改革运动——戊戌变法,又因为慈禧太后等顽固派的反对,而软禁了光绪帝,变法因此失败,因为只有103天,因此称为“百日维新”。
19世纪末,在《马关条约》的影响下,列强纷纷在中国强行取得“租借地”,划分“势力范围”(如俄国的势力范围是长城以北和新疆,英国的是整个长江流域,法国的是云南和两广,等等),大有一举瓜分中华之势。因此,中国国内的排外情绪开始高涨,引发义和团运动仇杀洋人,八国联军入侵。1901年因此而签订了丧权辱国的《辛丑条约》。慈禧太后为了拢络人心开始推行“新政”,进行了包括建立新军、废除科举考试在内的一系列改革。不久,清朝发生了立宪与革命的改革路线之争,一开始立宪派占上风,清政府也答应实行君主立宪。不过,1911年5月组成的“责任内阁”中的大多数成员为皇族身份,故被称为“皇族内阁”,结果引发立宪派的不满。同年10月,武昌起义爆发,中国各省随后纷纷宣布独立,满族人的统治开始瓦解。清朝末代统治者宣统帝溥仪于1912年退位,标志着中国人民正式光复,并推翻了持续2000多年的帝制。1917年张勋又曾复辟清朝,但只持续了短短的12天即告垮台。
政治制度
努尔哈赤起兵时实行的是军民合一的八旗制度,政治权力集中于王公贵族,重大决策由贵族共同讨论决定,是为满洲议政王大臣会议。后皇太极于天聪五年(公元1631年)仿明朝制度设立六部,试图逐渐削弱满洲贵族权力。皇帝试图实行中央集权的努力主要集中于清朝前期。
顺治七年(公元1650年),顺治皇帝对八旗制度进行改革,由自己亲自掌握正黄、镶黄、正白三旗,形成了“上三旗”和“下五旗”,改变了以前八旗由不同王公掌握的局面,同时加强上三旗的实力,满洲议政王大臣会议的权力有所削弱。
清朝设六部(吏、户、礼、兵、刑、工),各部长官称尚书,副长官称侍郎,以前尚书均由满人担任,顺治元年(公元1644年)规定尚书及侍郎满、汉各一。在六部之外和六部并立的中央行政机构有:大理寺、太常寺、光禄寺、太仆寺、鸿胪寺、国子监、钦天监、翰林院、太医院、理藩院、宗人府、詹事府、内务府、都察院。清朝官员等级分“九品十八级”,每等有正从之别,不在十八级以内的叫做未入流,在级别上附于从九品。
康熙十六年(公元1677年)康熙皇帝设立南书房,起初是康熙帝为了与翰林院词臣们研讨学问,吟诗作画而设。因在乾清宫西南角特辟房舍故名南书房。由于南书房“非崇班贵檩、上所亲信者不得入”,所以它完全是由皇帝严密控制的一个核心机要机构,随时承旨出诏行令,这使南书房“权势日崇”。南书房地位的提高,是康熙帝削弱议政王大臣会议权力,同时将外朝内阁的某些职能移归内廷,实施高度集权的重要步骤。
雍正七年(公元1729年),清军在西北与准噶尔蒙古激战,为及时处理军报雍正皇帝始设军机房,雍正十年改称军机处。乾隆皇帝即位后服孝,安排数位“总理事务王大臣”进入军机处,故改名总理事务处。乾隆二年(公元1737年)乾隆服满亲政,总理事务王大臣等自请罢职,恢复军机处名称,自此遂成定制,军机处成为直接对皇帝负责的核心权力机构,满洲议政王大臣会议的地位更被削弱至几乎可忽略不计,政治权力全部掌握在皇帝手中,成为清朝中央集权制度的顶峰。军机处是中国历史上最为畸形的机构,彻底抹杀了政府与皇室之分,达到了高度集权。直至宣统三年(公元1911年)四月初十清廷宣布成立“责任内阁”,军机处废止。
疆域与区划
1759年(乾隆二十四年)清朝统一全国后的疆域是:北接西伯利亚,南及南海诸岛(今西沙群岛、南沙群岛、中沙群岛、东沙群岛、黄岩岛等岛礁),西达葱岭,东临东海、黄海,西南到西藏、云南地区,西北至巴尔喀什湖,东北抵外兴安岭、库页岛,东南包台湾岛及其附属岛屿(钓鱼岛、赤尾屿等)、澎湖列岛。总面积达1300万平方千米。除此之外,周边国家如朝鲜、安南(越南)、南掌(老挝)、缅甸、琉球、廓尔喀(尼泊尔)、哲孟雄(锡金)、不丹等则为清朝的保护国。
清帝国的地方行政区划基本沿袭中国体制,但根据自身实际做了很多改革,如东北三省、少数民族地区、西藏、新疆等地区行政区划和内地不同。
内地行政区划
清朝继承元明以来的分省建制,以省为地方上的最大行政区域,下设府、厅、州、县,构成地方上的省、府、县三级基本行政系统组织。
乾隆八年(公元1743年) 定顺天府之地为四路厅、二十四州县,州县隶属于路厅。设官有兼管府尹事大臣一人,由大学士、尚书、侍郎内特简。府尹正三品,府丞正四品,俱各一人。府尹总管京畿及四路的政令条教,“以成首善之化”,比一般府尹权力大,品级高,如升调州县官,可与总督会衔。府丞掌学校政令。属官有治中、通判,经历司经历,照磨所照磨,司狱司司狱,皆汉人。儒学教授,满、汉各一人:所辖四路厅同知正五品,各一人;州、县,知州、知县正七品,俱各一人。大兴、宛平二县并与五城兵马司分区而治,比外县高一品级。
天聪八年设盛京,顺治元年入关,原来盛京的六部俱废。自顺治十五年至康熙三十年又重建户、礼、兵、刑、工五部。均置侍郎以下官,称“盛京五部”。又设盛京内务府,为外地所无。自顺治十年设辽阳府,十四年更名奉天府,至光绪三十三年改行省。奉天府所辖地方为府二,兴京同知一,直隶厅一、厅二,州五,县十四。设官有兼领府事大臣一人,由盛京五部侍郎内特简,后归盛京将军兼辖。府尹,满洲一人;府丞,汉一人,品级同顺天府。属官治中、围场通判、库大使、经历、司狱、巡检兼司狱、府学教授,俱各一人。府尹主府事,小事决之,大事呈报。
总督为省级的最高长官,全称为总督某某省等处地方提督军务、粮饷,或兼巡抚事。清朝建立了18个省份,称为“内地十八省”,沿袭旧制或以旧制为基础,其余在边境并为清末所置。这些省是:直隶、江苏、安徽、山西、山东、河南、陕西、甘肃、浙江、江西、湖北、湖南、四川、福建、广东、广西、云南、贵州。奉天、吉林、黑龙江、新疆、台湾(1895年以后为日据)为后设。
总督之下设巡抚,其全称为巡抚某省等处地方提督军务兼理粮饷,或节制各镇,职权很广泛。有的加侍郎衔,为正二品,否则为从二品。巡抚基本上是管一省,也侧重于军事,但比总督管民政更多,为总管一省军事、行政、监察及教育在内的高级长官。清朝所设巡抚共二十一人,其中由总督兼的有奉天、直隶等八人,单独设的有江苏、安徽等十三人。山东、山西等五省巡抚皆兼提督衔,贵州巡抚兼节制兵马衔。
各省设提督学政一人,由侍郎或科道进士出身的官员中委任,带原品级,掌学校和科学考试之政令。
各省设承宣布政使司,简称布政使司或藩司。布政使为从二品,每省一人,但江苏设二人。布政使实际是一省长官,上承朝廷旨令,下帅府、州、县官,但因有督抚之设,渐居次要。其属经历司经历、都事,照磨所照磨,理问所理问,库大使、仓大使等,分掌出纳文书、照刷案卷、审核刑名以及保存档案、财政收支等。
各省设提刑按察使司,简称按察使司或臬司。按察使一人,正三品,比布政使地位略低,掌司法监察,“澄清吏治”,常与布政使并称为“布按”。其下设知事掌勘察刑名,司狱检察囚犯,经历、照磨所掌同藩司。
各省设道员,正四品,或有专责,或作为布、按副使。专责者有督粮道或粮储道,简称粮道;又有管河道或河工道,简称河道。官则有的单设,多数为兼任。其他如驿传道、海关道、屯田道、茶马道等,一般由当地同品级官兼道员。作为布、按副使者,有分守道与分巡道。守道由布政使下的参政、参议发展而来,巡道是按察使下副使、金事演变的结果。初设只辖一府,或数道同辖一府,后来有的统辖全省,有的分辖三四府之地。为此,守、巡二道由原来临时性差使变为固定的地方长官。而且前此守道主管钱谷,巡道侧重刑名,久之两者各加兵备衔,所掌渐趋一致。乾隆、嘉庆时又准其密折封奏,权势日益加重,以致有人视道为省下、府上一级地方行政机构。实际上道不完全具备地方政府性质,不过是省级行政机构的派生物。
府是省之下的一级地方行政机构。知府为一府长官,从四品,掌总领属县,宣布条教,兴利除害,决讼检好。三年一考属吏,具其优劣上报。一切要政皆需通过督、抚允准乃行。清朝以知府“为承上接下要职”,故严谕督、抚对其考核。同知正五品,通判正六品,协助知府,分掌粮盐督捕,江防海防,河工水利,清军理事,抚绥民众诸职。属官有经历、知事、照磨、司狱等。
在府之外,同时还有直隶厅、州和一般厅、州。凡统治地方人多并直隶于布政使司的为直隶厅、州,地位与府大致相同。厅设官同知正五品,通判正六品,州设官知州正五品,州同从六品,州判从七品。清朝在全国设有直隶厅四十一个,直隶州七十三个。其外的厅、州,称为散厅、州,地位略同于县。至清末,全国已设散厅七十八个,散州一百四十五个。散厅、州设官与直隶厅、州相同,而品级差一等。散厅、州属府管辖,个别的隶于将军或道员。
县是地方基层政权机构。清末全国设一千三百五十八个县。每县设官为知县一人,正七品,县丞正八品一人,主簿正九品,无定员。知县掌一县治理,主要是决讼断辟,劝农赈贫,讨猾除奸,兴养立教。县丞、主簿分掌粮马、征税、户籍、缉捕诸职。典史掌稽检狱囚。
少数民族行政区划
办事大臣:
驻藏大臣
青海办事大臣
将军辖地:
伊犁将军
乌里雅苏台将军
盛京将军
吉林将军
黑龙江将军
农业
康熙帝在位60多年间清政府奖励垦荒屯田,重视兴修水利,多次减免租税,经济逐步得到恢复和发展。雍正帝继承父业,社会经济继续发展,到乾隆时期,社会经济开始呈现繁荣景象。
清朝前期的100多年里,耕地面积增加了40%以上,人口迅速地增长到3.6亿。清政府提倡各省因地制宜,采用多种种植方法,使粮食产量大幅度提高。高产作物甘薯的种植,由福建、浙江等省推广到了长江流域和黄河流域。经济作物桑、茶、棉花、甘蔗、烟草,种植面积扩大了,当时已经成为商品。
康熙帝曾将双季稻的栽培,推广到江北部分地区。乾隆时期,清政府提倡改革耕作方法,大力推广多熟种植。广东部分地区收获早稻以后,又插晚稻;收获晚稻以后,再种油菜或甘薯,一年三熟。江西土薄,早稻收获以后不能续种晚稻,就种荞麦,一年两熟。由于南方多熟种植的推广,每年可增产粮食60多亿公斤。
清朝时候,专门从事蔬菜生产的农民增多了。北京郊区的菜农,利用“火室”、“地窖”等设备,在冬季栽培韭黄、黄瓜等新鲜蔬菜,拿到市场上出卖。
乾隆年间,原来不种棉花的河北一些地区,栽培棉花的占十之八九。清朝前期,甘蔗种植遍及东南沿海各省。广东一些地方种植的甘蔗,往往上千顷连成一片,远远望去像芦苇一样。
清朝时期,人口的大量增加主要原因是美洲植物玉米、番薯、马铃薯的推广。玉米、番薯、马铃薯等多种农作物 从明代就自美洲经南洋输入。《农政全书》详细记述了番薯的种植、贮藏、加工法。讲到番薯育苗越冬、剪茎分种、扦插、窖藏干藏等技术,是最早系统介绍番薯种植法的著作。此后清人陈世元撰《金薯传习录》,记述了冷床育苗,包世臣《齐民四术》中记述了翻蔓技术,番薯种植技术逐渐完善。 但是番薯等高产作物也有其弱点:营养低且单一、味道差,可深加工的价值少。作为一时的救急尚可,长期为主食必然导致人的营养不良,“面如菜色”,身体素质大幅下降,也必然影响人的正常智力发育。经过清初到中叶100多年的兴旺蓬勃,“番薯盛世”也就终于走到了尽头。
清朝皇帝列表
庙号 谥号 姓名(爱新觉罗氏) 在位年
太祖 承天广运神功圣德肇纪立极仁孝睿武端毅钦安弘文定业高皇帝 努尔哈赤 1559——1626
太宗 应天兴国弘德彰武宽温仁圣睿孝敬敏昭定隆道显功文皇帝 皇太极 1592——1643
世祖 体天隆运定统建极英睿钦文显武大德弘功至仁纯孝章皇帝 福临 1644——1661
圣祖 合天弘运文武睿哲恭俭宽裕孝敬诚信中和功德大成仁皇帝 玄烨 1662——1722
世宗 敬天昌运建中表正文武英明宽仁信毅睿圣大孝至诚宪皇帝 胤禛 1723——1735
高宗 法天隆运至诚先觉体元立极敷文奋武钦明孝慈神圣纯皇帝 弘历 1736——1795
仁宗 受天兴运敷化绥猷崇文经武光裕孝恭勤俭端敏英哲睿皇帝 颙琰 1796——1820
宣宗 效天符运立中体正至文圣武智勇仁慈俭勤孝敏宽定成皇帝 旻宁 1821——1850
文宗 协天翊运执中垂谟懋德振武圣孝渊恭端仁宽敏庄俭显皇帝 奕詝 1851——1861
穆宗 继天开运受中居正保大定功圣智诚孝信敏恭宽毅皇帝 载淳 1862——1874
德宗 同天崇运大中至正经文纬武仁孝睿智端俭宽勤景皇帝 载湉 1875——1908
溥仪 1909——1911
大事年表
1583年,太祖爱新觉罗·努尔哈赤袭封为指挥使,开始统一女真各部的战争。
1616年,努尔哈赤统一女真各部,称汗,国号曰大金,史称后金,年号天命,定都于赫图阿拉(今辽宁新宾)
1618年,努尔哈赤以“七大恨”告天,誓讨明朝。同年,爆发了萨尔浒之战。
1621年,后金占领辽阳。
1625年,后金迁都沈阳。
1635年,太宗皇太极废除女真族名,正式定族名为“满洲”。
1636年,皇太极改国号「大金」为「大清」
1640年,明清松锦之战开始,至1642年结束。明将洪承畴降清。
1644年,李自成攻陷北京,崇祯帝在景山自杀殉国。明朝覆灭。同年,清军入关,定都北京。明宗室福王、鲁王、唐王、桂王先后建立南明政权(1644~1661年)抗清。
1661年,郑成功据台湾反清。同年,永历帝(桂王)被俘,南明政权告终。
1662年,永历帝于昆明遇害。
1673年,康煕帝下令削藩,三藩之乱爆发,至1681年被平定。
1683年,清军攻台湾,郑氏投降,中华全境统一。
1685年至1686,清军于俄军两度雅克萨之战,清军大捷。
1689年,中俄签订《尼布楚条约》,确立两国边界,同时丧失了大片领土。
1690年1723年间,康煕帝屡征准噶尔、青海。平定新疆叛乱。
1712年,清政府宣布此年(康熙50年)以后,「盛世滋丁,永不加赋」。
1723年,清政府宣布开豁乐户贱籍的,大批明朝永乐时代遭到迫害的建文忠臣女性后代得以从良。
1728年,中俄签订 《恰克图条约》,中国再次丧失大片领土。
1747年,乾隆帝开始征伐藏边回疆等地,自诩「十全武功」。征伐直到1792年结束。
1760年,乾隆拟「平定准噶尔勒铭格登山碑」, 1776年,清乾隆四十一年,清朝人口达31150万。同年,乾隆帝开始宠信和珅,使清朝步入中衰。
1782 年,《四库全书》编成,分经、史、子、集四部,销毁图书数量与修成数量相当。
1793年,乾隆五十八年,清朝中央政府制定和颁行的『钦定藏内善后章程二十九条』。同年,英使马嘎尔尼来华,要求开放贸易被拒。
1796年,川陕白莲教起事,至1805年平定。
1813年,英使马嘎尔尼第二次来华亦无功。
1820年,清嘉庆二十五年,清朝人口达38310万
1839年,林则徐于虎门销毁鸦片。
1840年,中英第一次鸦片战争爆发(1840~1842年)。
1842年,中英签订《南京条约》,英占香港岛,开放五口通商。
1843年,中英签订《五口通商章程》,《虎门条约》。同年,洪秀全创立拜上帝会。
1844年,中美《望厦条约》、中法《黄埔条约》订立。
1851年,清咸丰元年,清朝人口达43610万。同年,拜上帝会在广金田村起事,建号太平天国。
1853年,太平军攻入南京,改名天京,定为国都;并颁《天朝田亩制度》。
1856年,第二次鸦片战争(1856-4860)爆发。英法联军侵华。同年,天京事变。太平天国内讧,渐趋败亡。
1858年,英法联军攻陷大沽,清廷与两国签订《天津条约》,又与俄签订《瑷珲条约》。
1859年,英法联军再次入侵中国, 1860年,英法联军火烧圆明园;攻陷北京。中英、中法、中我分别签订《北京条约》。
1861年,8月咸丰在热河驾崩。11月1日,辛酉政变,慈禧太后登上中国政治舞台。同年,洋务运动(1861~1894年)开始,创办军事工业、实业,编练陆海军设西式学堂。 1864年,洪秀全病死,清军攻入南京,太平天国败亡。同年,中俄签订《勘分西北界约记》。 1883年,中法战争(1883~1885年)爆发, 1885年,中法签订《越南条约》,法占领越南。
1888年,清廷建立北洋水师,加强军备,巩固海疆。
1894年,中日甲午战争(1894~1895年)爆发。同年,孙中山在檀香山创立兴中会。
1895年,中日签订《马关条约》,割让台湾及辽东半岛。俄法德三国干涉还辽。同年,洋务运动宣告终结。
1896年,《中俄密约》签订;此后列强纷纷在华租借港湾,划分势力范围。
1897年,德国强租胶州湾;沙俄占旅顺及大连。
1898年,6月,光绪帝在康有为等推动宣布“戊戌变法”,同年9月,慈禧发动政变,变法失败,又称“百日维新”。
1899年,义和团兴起,在山东各地杀教士、教民。
1900年,6月21日,慈禧对全世界宣战。8月16日,八国联军攻陷北京。同年,兴中会惠州起义失败。
1901年,清政府和西方列强十一国签订《辛丑条约》。清廷下令筹划新政。
1905年,清政府罢科举,派五大臣出洋考察宪政。同年,孙中山创立中国同盟会,提出三民主义。
1906年,清政府宣布「预备立宪」。 1907至1908年,同盟会发动六次起事均失败。
1908年,光绪帝、慈禧太后先后驾崩;宣统帝即位。
1911年,4月黄花岗起事未成;5月清攻府宣布铁路国有,引起保路风潮;10月武昌起义,南方各省纷纷宣布独立,史称辛亥革命。
1912年1月1日,中华民国宣布成立。2月12日,宣统帝溥仪宣布退位,清朝统治被推翻。
评价
名人的对清朝的评价钱穆的观点:
近代国学、历史学家、教育家钱穆在其作品《中国历代政治得失》中,提出清代政治最大的弊病为部族政治。钱穆这样写道:「尤其是清代,可说全没有制度。它所有的制度,都是根据著明代,而在明代的制度里,再加上他们许多的私心。这种私心,可说是一种「部族政权」的私心。一切有满洲部族的私心处罚,所以全只有法术,更不见制度。 ……总之清代在制度上,实在也没有几项值得我们今天之再称道。」
章太炎的观点:近代国学大家、思想家、民族主义革命家章太炎认为「满清和蒙元」的历史应该归到「四夷列传」,并写有《正仇满论》中间诸如「进不知政 退不知农商」、「无一不足以丧吾大陆」等观点。
孙中山的观点:在满清二百六十年的统治之下,我们遭受到无数的虐待,举其主要者如下: (一)满洲人的行政措施,都是为了他们的私利,并不是为了被统治者的利益。 (二)他们阻碍我们在智力方面和物质方面的发展。 (三)他们把我们作为被征服了的种族来对待,不给我们平等的权利与权益。 (四)他们侵犯我们不可让与的生存权、自由权和财产权。 (五)他们自己从事于、或者纵容官场中的贪污与行贿。 (六)他们压制言论自由。 (七)他们禁止结社自由。 (八)他们不经我们的同意而向我们徵征收沉重的苛捐杂税。 (九)在审讯被指控为犯罪之人时,他们使用最野蛮的酷刑拷打,逼取口供。 (十)他们不依照适当的法律程式而剥夺我们的各种权利。 (十一)他们不能依责保护其管辖范围内所有居民的生命与财产。
附:清朝不平等条约一览表
1. 中英 广州和约 余保纯 六百七十万两 27-5-1841;
2. 中英 南京条约 耆英,伊布里 二千一百万两 29-8-1842;
3. 中英 南京条约补充条款 耆英 22-7-1843;
4. 中英 虎门条约 耆英 8-10-1843;
5. 中美 望厦条约 耆英 3-7-1844;
6. 中法 黄埔条约 耆英 24-10-1844;
7. 中俄 瑗珲条约 奕山 六十万方公里 28-5-1858;
8. 中俄 天津条约 桂良,花沙纳 13-6-1858;
9. 中美 天津条约 桂良,花沙纳 18-6-1858;
10. 中英 天津条约 桂良,花沙纳 26-6-1858;
11. 中法 天津条约 桂良,花沙纳 27-6-1858;
12. 中英 天津条约补充 桂良 8-11-1858;
13. 中英 北京条约 奕欣 一千叁百万两 24-10-1860;
14. 中法 北京条约 奕欣 25-10-1860;
15. 中俄 北京条约 奕欣 四十多万方公里? 4-11-1860;
16. 中俄 勘分西北界约记 明谊 四十四万方公里 10-7-1864;
17. 中美 增续条约 前美公使蒲安臣 7-28-1868;
18. 中英 新修条约普后章程 不详 23-10-1869;
19. 中日 修好条约 李鸿章 13-8-1871;
20. 中日 北京条约 奕欣 31-10-1874;
21. 中英 烟台条约 李鸿章 13-9-1876;
22. 中俄 里瓦几亚条约 崇厚 2-10-1879;
23. 中俄 伊黎条约 曾纪泽 七万方公里 二百八十万两 24-2-1881;
24. 中法 会议简明条款 李鸿章 11-5-1884;
25. 中日 天津条约 李鸿章 18-4-1885;
26. 中法 新约 李鸿章 9-6-1885;
27. 中英 烟台条约 续增条约 不详 9-6-1885;
28. 中葡 北京条约 奕□ 1-12-1887;
29. 中英 印藏条约 升泰 17-3-1890;
30. 中美 华工条约 杨儒 7-3-1894;
31. 中日 马关条约 李鸿章 二亿两 7-4-1895;
32. 中日 辽南条约 李鸿章 叁千万两 8-11-1895;
33. 中俄 密约 李鸿章 3-6-1896;
34. 中德 胶澳租借条约 李鸿章 6-3-1896;
35. 中英 展拓香港界址条约 李鸿章 9-6-1898;
36. 八国联军 辛丑条约 李鸿章 十亿二千二百七十万两 7-9-1901;
37. 中英 续定印藏条约 罗生戛尔曾 7-9-1904;
38. 中日 会议[满州善后条约] 22-12-1905;
注:
一. 辛丑赔款本为四亿五千万两,平均每名中国人赔款一两,卅九年还清,年率四厘,母子利息,共约十亿两库平银。另加民间赔款二千多万两。以关税,盐税作保。中国从此失去关税主权,国内工业倍受摧残。
二. 以上是我所能收集到的较为重要的条约资料。
三. 中美增续条约是美前公使蒲安臣未经中国政府同意而私自签定的,当时他任中国顾问。
四. 更须估计当时货币的购买力,如以现时货币计算,可能是百倍或千倍之巨。
五. 列强所强加于中国的灾难是无限的,敬希同胞慎思。
六. 根据瑷珲历史陈列馆的档案,在北京条约中失去领土四十馀万方公里。外蒙未分界中有廿馀万方公里被强夺。加上外蒙的独立,中国共失领土约叁百卅馀万方公里。
七. 根据辞海记载:根据北京条约的内容,才有勘分西北界记约。故两条约中的失地只一次,即四十四万平方公里 (不知那一项符合史实)。
损失最大,掠夺最残酷的主要条约具体内容::
1.中英南京条约
强占香港。
勒索钜款。中国赔偿英国鸦片烟价600万元、商欠300万元、军费1200万元,共2100万元(广州「赎城费」600万元不包括在内),分4年付清。
五口通商。《南京条约》规定,开放广州、福州、厦门、宁波、上海为通商口岸。英国在五口有权驻领事等官员,商人可以自由通商,不受只准清政府指定的「行商」进行贸易的限制。
控制关税。
领事裁判权。《五口通商章程》规定,凡是英国人与中国人发生「交涉词讼」,或在中国领土上犯罪,其如何定罪,「由英国议定章程、法律,发给管事官(即领事官)照办」,中国官员无权依据中国法律进行判处。
片面最惠国待遇。最惠国待遇应该是缔约国双方的对等权利。但在中英不平等条约里,却只规定了缔约外国能够片面享受最惠国待遇。《虎门条约》规定:中国将来如「有新恩施及各国,亦应准英人一体均沾」。
2.中美望厦条约
美国人可以到广州、福州、厦门、宁波、上海五个港口贸易或居住,并且淮许美国兵舰进入中国海港。
美国货进出口,中国海关收税必须和美国领事商议。
美国人在华犯法,「中国官员不得过问。」
容许美国人在五口「自行建楼,并设立医院、礼拜堂及殡葬之处。」
3.中英法俄天津条约
外国公使驻北京
开牛庄(后改营口)、登州(后改烟台)、台南、淡水、潮州(后改汕头)、琼州、汉口、九江、江宁(南京)、镇江为通商口岸
中国海关雇用外人
外国人可在中国传教、游历通商
外国人往内地游历通商;外国商船可在长江各口来往
中国给英国赔款银400万两,法国200万两
4.中英法俄北京条约
开天津为商埠
准许华工出国;割让九龙司地方给英国
发还天主教资产
对英、法赔款增加到800万两
5.中俄瑷珲条约
中、俄两国以黑龙江及额尔古纳河为界,以北属俄国,以南属中国。
黑龙江下游以南、乌苏里江以东直至鄂霍次克海沿岸之地,由原属中国所有改为中、俄两国共管。
俄国船只在黑龙江及乌苏里江上拥有通航权。
6.中俄伊犁条约
中国要「偿还」俄国占领伊犁的「费用」五百万卢布。
中国要将伊犁以南的特克斯河流域平原地带「割」与俄国。
修订一八六三年【塔尔巴哈台界约】所规定斋桑湖方面的中俄国界及通商事务,以利于俄方。
7.中法新约(地点在天津)
中国放弃对越南之宗主国地位,承认越南为法国「保护国」
中国在中越边界附近择二地为对法「通市」的商埠。
法国在中国西南各省拥有兴建铁路的特权。
8.中日马关条约
中国完全放弃对朝鲜的宗主权
中国割让辽东半岛、台湾、澎湖列岛给日本。
中国开放江南的苏州、杭州,以至长江中上游的重庆、沙市, 对日通商,日本并享有通至此等口岸的内河航行权。
中国允许日本在各通商口岸有设厂权,并享最惠国待遇。
中国「赔赏」日本军费二万万两。
9.中俄胶澳租界条约
租借山东半岛南部的胶州湾及其铁路权给德国
10.旅大租地条约
旅顺「租借」给俄国作为军港,大连「租借」给俄国作为商港,均以二十五年为期,但「可以延长」。
在「租借期」内,中国军队不得驻在旅大地区。
俄国再取得由旅大至哈尔溃之铁路修筑权(包括后来之所谓「南满铁路」),以及铁路沿线之利益独占权。
11.展拓香港界址专条
租借「新界」予英国,共九十九年。
12.辛丑和约(满清政府与11国公使订约)
惩办端郡王戴漪等排外大臣。
两年内禁止军火输华。
中国向11国「赔款」四亿五千万两(分三十九年偿付,连本息共近十亿两)。
作为偿付赔款的抵押,中国海关所收之关税、盐税,均为外国控制。
各国自管北京使馆区。
大沽口至北京之间的全部炮台,全部拆毁。
清廷改「总理各国事务衙门」为「外务部」,班列六部之前。
13.东三省善后协约
日、俄分别于中国东北撤军后,清廷开东北三省之十六处城镇作为商埠对外开放(盛京省之凤凰城、辽阳、新民屯、铁岭、通江子、法库门,吉林省之长春、吉林、哈尔溃、宁古塔、珲春、三姓,黑龙江省之齐齐哈尔、海拉尔、瑷珲、满洲里。
日本取得东北南部之安奉铁路之管理经营权。
在东北的奉天(今潘阳)、营口、安东(今丹东)等城市,划定日本「租界」等等。
14.黄埔条约
取得与英【南京条约】、美【望厦条约】相同之利益。
15.中英烟台条约
英国人得到进入中国西南边境「游历、探路」的权力。
他们如果由中国内陆经西藏前往印度,清政府需通知驻藏大臣协助通行。
16.烟台条约续增专条
鸦片入口,每箱(百斤)向海关一并缴纳税厘一百一十两(正税三十两、厘金八十两)后,由华商持凭单运往内地销售,中途不再征收任何捐税。
17.英藏拉萨条约
藏一切对外交往都必须经英政府批准;在中印边境的噶大克建立商埠;增开第二处商埠江孜。条约还规定赔付英军进藏所花费的七百五十万卢比,限七十五年内缴清
18.塔城界约
割让新疆西北,自沙渍达巴哈起,葱岭止约五十八万平方公里
19.穿鼻草约
(1) 割让香港
(2) 赔烟价六百万元
(3) 恢复广州商务
20.广州和约
7日之内缴广州"赎城费"600万元,赔偿英商馆损失30万元,清军退驻广州城外60英里,赎金交清后,英军退出虎门。
21、《满州里界约》
《满州里界约》共两条,其主要内容是:中俄两国重定由塔尔巴干达呼第58界点起,至阿巴该图第63界点,并沿额尔古纳河,至该河与黑龙江会流处止的国界。
1911年(宣统三年)5月,此次界务交涉,本应按照旧约规定,双方共同履勘水陆两界,但结果却完全超出了会勘的范围和旧约的规定,以致新设界点位置及水路国界与旧约不符。陆路边界线的6个界点全部南移,致使中国丧失数百平方公里土地。水路在界约中虽载明以额尔古纳河为界,但右岸应属中国的许多洲渚,却以臆造的“额尔古纳河旧河道”为借口,划归俄国。《满洲里界约》将旧约作了有利于俄国的修改,并就此重新划定了国界,是有损于中国领土主权的不平等条约,也是清王朝签订的最后一个丧权的边界条约。 2005年中华人民共和国政府与俄罗斯政府,加以补充。
被俄国掠夺的我国领土:五百八十八万平方公里
1. 一六八九年九月七日(康熙二十八年),兴安岭及额尔古那河以西约二十五万平方公里国土,于尼布楚条约签订后丧失。
2. 一七二七年十月二十一日(雍正五年),贝加尔湖之南及西南约十万平方公里国土,被迫签订恰克图条约而丧失。
3. 一七九零年(乾隆五十五年),约十万平方公里之库叶岛,被俄帝暗中吞并。
4. 一八四零年(道光二十年),原为我属邦哈萨克,被俄帝侵并,该邦面积约百万平方公里。
5. 一八四零年(道光二十年),原为属邦布鲁特,约十万平方公里面积土地,被俄帝并吞。
6. 一八五八年五月二十八日(咸丰八年),混同江以西,黑龙江以北,外兴安岭以南广大地区,面积约四十六万平方公里土地为俄帝侵占,并逼清廷签订瑷珲条约加以承认。
7. 一八六零年十一月十四日(咸丰十年),混同江及乌苏里江以东兴凯湖附近,约四十三万平方公里国土为俄帝侵占,事后逼清廷订北京条约加以承认。
8. 一八六四年(同治三年)后,自沙渍达巴哈起,至葱岭止约四十三万平方公里国土,俄帝逼清廷订立塔城界约等多次界约,加以承认。
9. 一八六八年(同治七年),约百万平方公里面积之我属邦布哈尔汗国,被俄帝侵并。
10. 一八七六年(光绪二年),原为我属邦浩罕国,约三十五万平方公里面积土地,被俄帝吞并。
11. 一八八一年(光绪七年),自伊犁西南天山之阴,那抹哈勒克山口起至伊犁西北喀尔达止,约二万平方公里国土,俄帝逼清廷订立伊犁条约而丧失。
12. 一八八三年(光绪九年),额尔齐思河及斋桑泊附近,约二万平方公里土地,于俄帝逼订科布多塔尔巴哈台界约而丧失。
13. 一八九五年(光绪二十一年),新疆省极西地区帕米尔地方,约一万余平方公里土地,被俄帝与英国瓜分。
14. 一八九八年(光绪二十四年),俄帝强租旅行顺大连,该两港口面积约三千八百平方公里。
15. 一九二一年(民国十年),俄帝先唆使唐努乌梁海独立,一九四四年 (民国三十三年)正式侵并,总面积约十七万平方公里国土。
16. 一九四五年(民国三十四年),俄帝要挟英美订立雅尔塔协定,同年十月外蒙古举行所谓公民投票(苏军亦参加投票)。国民党政府被迫承认其所谓“独立”。面积有一百四十四万平方公里。