秦(しん、ピン音:Qín、紀元前778年 - 紀元前206年)は、中国の王朝。周代、春秋時代、戦国時代に渡って存在し、紀元前221年に中国を統一したが、紀元前206年に滅亡した。統一から滅亡までの期間(紀元前221年 - 紀元前206年)を秦代と呼ぶ。国姓は嬴(えい)。統一時の首都は咸陽。
周代
秦は伝説によれば殷の紂王に仕えた奸臣悪来の末裔とされる。しかしこの始祖伝説はおそらくは秦が中国に入った後に作られたもので秦の本当の出自は後に穆公が西戎の覇となることから考えて、西戎そのものではないかという考えもある。 紀元前900年ごろに周の孝王に仕えていた非子が馬の生産を行い、功績を挙げたので嬴の姓を賜り、大夫となり、秦の地に領地を貰ったという。しかしこれも実際にあったことなのかは不明である。 伝説上では嬴姓は帝舜の臣伯益が賜ったとされている。 上記の西戎そのものであれば南蛮の楚が帝顓頊の子孫の姓、羋を名乗っており、呉は周王と同じ姫姓、越は夏王と同じ姒姓を名乗っている事から考えると嬴姓では創作した伝説としては重みに欠ける。現時点では、伝説を証明も否定もできない。
秦が最初に興った場所は現在の甘粛省礼県であったらしく、この地より秦の祖の陵墓と目されるものが見つかっている。紀元前770年に周が犬戎に追われて東遷した際に、襄公は周の平王を護衛した功で周の旧地である岐に封じられ、これ以降諸侯の列に加わる。
春秋・戦国時代
春秋時代に入ると同時に諸侯になった秦だが、風俗的に中原諸国と大きく異なり、当初は野蛮であると蔑まれていた。代々の秦侯は主に西戎と抗争しながら領土を広げつつ、法律の整備などを行って国を形作っていった。紀元前677年には首都を雍(現在の陝西省鳳翔県)に置いた。
九代穆公は百里奚などの他国出身者を積極的に登用し、巧みな人使いと信義を守る姿勢で西戎を大きく討って西戎の覇者となり、周辺の小国を合併して領土を広げ、隣の大国晋にも匹敵する国力をつけた。晋が驪姫の乱で混乱すると、恵公を擁立するが、恵公は背信を繰り返したので、これを韓原の地で撃破した。更に恵公が死んだ後に恵公の兄重耳を晋に入れて即位させた。この重耳が晋の名君・文公となり、その治世時には晋にやや押されぎみになるが、文公死後には再び晋を撃破して、領土を奪い取った。これらの業績により、穆公は春秋五覇の一人に数えられる。
しかし、穆公が死んだ時に177名の家臣たちが殉死し、名君と人材を一度に失った秦は勢いを失い、領土は縮小した。それでもそれなりの力は保持していたものの春秋中期以降の主役は北の晋と南の楚であり、それに西の秦と東の斉が脇を固める変則的な四強時代を作っていた。
戦国時代には七雄の一つに数えられる。隣国の晋は内部での権力争いの末に韓・魏・趙の三国に分裂した。この内の魏が戦国初期には名君・文侯により強勢となり、秦は魏により圧迫を受け、領土を奪われる。
この状況に憤慨した25代孝公は広く人材を求め、頽勢を挽回することのできる策を求めた。これに応じたのが商鞅である。商鞅は行政制度の改革・什伍制の採用などを行い、秦を強力な中央集権体制へと生まれ変わらせた(詳細は商鞅の項を参照)。この商鞅の変法運動により秦は徹底的な法治主義により国内の生産力、軍事力を高め徐々に他の六国を圧倒していった。紀元前350年に咸陽へと遷都した。
その後、孝公の子の恵文王が紀元前324年に王を名乗る。紀元前316年に恵文王は蜀(四川省)を占領し、この地の開発を行ったことでさらに生産力を上げ、長江の上流域を押さえたことで楚に対して長江を使った進撃が行えるようになり、圧倒的に有利な立場に立った。さらに謀略に長けた張儀を登用して、楚を引きずり回して戦争で撃破し、楚の懐王を捕らえることに成功する。この強勢に恐れをなした魏と韓の王達をそれぞれ御者と陪乗にするほどにまで屈服させた。
この時期、東では斉が伸張しており、殷の末裔である宋を併合するなど周辺諸国を圧迫していた。紀元前288年には斉を東帝、秦を西帝と名乗るとした。この案は斉がすぐに帝号を取りやめたので、秦も取りやめざるを得なかったが、この時期は西の秦・東の斉の二強国時代を作っていた。しかしその斉は強勢を警戒され楽毅が指揮する五国連合軍により、首都臨淄が陥落。亡国寸前まで追い詰められた。
恵文王の子の昭襄王の時代に宰相・魏冄と白起将軍の活躍により、幾度となく勝利を収める。しかし魏冄の権力があまりにも大きくなったことを憂慮した昭襄王は魏冄を退けて、代わりに范雎を登用する。范雎が進言したのが有名な遠交近攻策である。それまで近くの韓・魏を引き連れて、遠くの斉との戦いを行っていたのだが、これでは勝利しても得られるのは遠くの土地になり、守るのが難しくなってしまう。これに対して遠くの斉や燕と同盟して近くの韓・魏・趙を攻めれば近くの土地が手に入り、それはすぐに秦の領土として組み入れるのが容易になる。この進言に感動した昭襄王は范雎を宰相とした。紀元前260年に白起を趙に進行させ、白起は長平の戦いで趙軍を撃破し、趙の捕虜40万を坑(穴埋にして殺すこと)した。さらに紀元前255年に完全に周を滅ぼしてその領地を接収した。
このことで秦の覇権は決定的なものとなり、統一へ向かっていく。
統一王朝
紀元前247年に即位した政は、李斯を丞相として国力増強に努めた。紀元前223年に秦の最大の敵であった楚を滅亡させ、紀元前221年に中国を統一し、自ら皇帝(初めての皇帝なので、始皇帝という)を名乗った。この皇帝の称号は、中国の伝説上の聖王である三皇五帝からとったものである。
始皇帝は度量衡・文字の統一、郡県制の実施など様々な改革を行った。また、匈奴などの北方騎馬民族への備えとして、それまでそれぞれの国が独自に作っていた長城を整備し万里の長城を建設した。万里の長城の建設は主に農民を使役して行われたが、過酷な労働と極度の法治主義に国内は不満が高まり、反乱の芽を育てた。匈奴に対しては、蒙恬を派遣して、北方に撃退した。さらに、南方にも遠征し、現在のベトナム北部まで領土を広げた。このとき、南方には、南海・象(しょう)・桂林の3つの郡が置かれた。これは、中国王朝によるベトナム支配の始まりでもある。
始皇帝の死後、宦官趙高が太子扶蘇・丞相李斯や始皇帝の血族者ら権力者を次々に暗殺し、暗愚な二世皇帝を傀儡として、権力をほしいままにして暴政を敷いた。始皇帝が死んだことでたがが緩み、翌年には陳勝・呉広の乱が勃発、全国に飛び火して、騒乱状態となった。
二世皇帝と趙高は章邯を将軍として討伐軍を送る。章邯は軍事的能力を発揮し、陳勝軍を撃破し、さらにその後を受けた項梁軍も撃破した。しかし項梁のおいの項羽との決戦に破れ、章邯たちは捕虜となる。項羽は咸陽に向かう途中で造反の気配を見せた秦兵20万を穴埋めにして殺してしまった。
章邯が大敗したことを聞いた趙高は狼狽し、二世皇帝を暴政の汚名を着せた上で暗殺し、子嬰を立てて民意の安定を図ろうとするが、子嬰らによって誅殺された。
その後、劉邦が咸陽へ入ると、子嬰は降伏し、秦は滅亡した。劉邦は子嬰を殺さないことにしていたが、後から咸陽にやってきた項羽は子嬰を殺し、咸陽の美女財宝を略奪して、火をかけ、咸陽は廃墟となった。
政治
秦の制度の多くは漢によって引き継がれ、共通する部分は多い。漢が前後400年の長きに渡った理由の一つは秦の制度を人民の反発を受けることなく踏襲できたことがある。
秦の成立は単なる中国の統一と言うことに終わらず、皇帝号の創始・行政区分の確立・万里の長城の建築などの点で中国と呼ばれる存在を確立したという意味で非常に大きい。そのために秦以前のことを先秦時代と呼ぶこともある。
官制
秦の官制は前漢と同じく丞相(首相)・太尉(軍事)・御史大夫(監察・あるいは副首相)の三公を頂点とする三公九卿制である。(詳しくは前漢の項を参照。)
地方制度では商鞅の改革時に全国を31(あるいは41)の県に細分し、それぞれに令(長官)と丞(副長官)を置いた。統一後に李斯の権限により、この制度をさらに発展させたのが郡県制である。県の上に上級の行政単位である郡を置き、太守(長官)・丞(副長官)・尉(軍事担当)・監(監察官)をそれぞれ置いた。県の長官・副長官は変わらず令と丞である(区別して県令・県丞と呼ばれることもある)。統一すぐには旧制に倣った封建制の採用も考えられたことがあったが、李斯の反対により郡県制が採用され、全国に36の郡が置かれたと言う。この郡県制も基本的には漢によって引き継がれ、これ以降の中国の地方制度でも基本となっている。
法制
秦といえば商鞅により作られた法家思想による厳しい法律というイメージだが、実際にどのように法律が運用されていたかは資料が乏しく分からないことも多い。
漢の蕭何は劉邦に伴って咸陽に入城した際に秦の書庫から法律の書物を獲得し、後にこれを元として「律九章」と呼ばれる法律を作ったという。であるから漢初の法律は秦の法律を基本としてると考えて良いだろう。この「律九章」は盗・賊・囚・捕・雑・具・興・厩・戸の九律があったと『晋書』にはある。しかしこの記載が『漢書』にはないので、この記事自体を疑う声もあるが、ともあれ秦の法律に関する資料の一つである。
そして秦の法律に関する一次資料として『睡虎地秦簡』と呼ばれるものがある。これは1975年に湖北省雲夢県で発掘された秦の法官であったと思われる喜と言う人物の墓に入れてあった竹簡群で、秦の法律に関する事柄が記載されている。
経済
始皇帝は統一後に度量衡の統一、それまで諸国で使われていた諸種の貨幣を廃止して秦で使われていた半両銭への統一、車の幅の統一などを行った。
ただし、近年の研究や出土史料によれば、一般に言われる始皇帝によるとされる、度量衡の統一や過酷な法律については、再考の余地があるようである。ことに、始皇帝によって発行された統一通貨・半両銭は、秦が本来統治していた地域以外では、あまり出土しておらず、『史記』の記述によれば、始皇帝は通貨の鋳造・改鋳は行ってはおらず、それが行われたのは、二世皇帝の即位直後である。これが真実とすれば、世間に伝えられる暴君としての始皇帝像は、誤ったものであり、秦が滅亡した一因として、二世皇帝の経済政策の誤りが考えられる。
文化
統一前の秦に関する資料として石鼓文(せっこぶん)・詛楚文(そそぶん)と呼ばれるものがある。
石鼓文は鼓の形をした石に文字が刻まれたものであり、現在は北京の故宮博物院に保存されている。発見されたのは陝西省鳳翔県と言われており、成立時期は穆公以前の時代と考えられている。その内容は宮中での生活や狩猟の様子などを韻文にして書かれている。
詛楚文は秦の強敵であった楚を呪詛する内容であり、こちらは現在は失われているが、内容は写されて現在に伝わっている。
この二つに使われている書体は秦が独自に作ったものであり、この書体を石鼓文と呼んでいる。始皇帝は統一時に書体も改めて新しい篆書(てんしょ)と言う書体を流通させた。
思想的には法家が当然強いが、しかし道家も同じように強かったようである。この両者は思想的に繋がる部分があると指摘されており、『史記』で司馬遷が老子と韓非子を『老子韓非列伝』と一つにしてあることもこの考えからであろう。後に法家と道家を混交したような黄老の道と呼ばれる思想が前漢初期の思想の主流となっている。
世界遺産に登録されている始皇帝陵は、始皇帝が13歳の時から建築が開始されたもので、20世紀後半になって発掘され、今まで不明瞭だった秦の時代の文化が伺えるようになっている。
秦の統治者
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秦公
襄公
文公
憲公
出子
武公
徳公
宣公
成公
穆公
康公
共公
桓公
鍼景公
哀公
恵公
悼公
厲共公
躁公
懐公
霊公
簡公
恵公
出公
献公
孝公
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王
恵文王
武王
昭襄王
孝文王
荘襄王
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皇帝
始皇帝
二世皇帝(胡亥)
秦王嬰
简介
秦朝是由战国时代后期的秦国发展起来的统一王朝,是中国历史上第一个多民族的统一的中央集权的帝国。秦始皇在历代秦国的国王蚕食其它诸侯国之上,完成了统一六大诸侯国的事业,实现了从分封制到郡县制的转变。他所建立的中央集权制度,及其所采取的(旨在巩固统一的)措施,为后世帝王所取用。
秦朝急征暴虐,导致速亡。末年陈胜、吴广领导的农民起义,是中国历史上的第一次农民起义,影响极为深远。由于过去的割据局面所造成的影响,反秦过程中重新出现了分裂的倾向。在接踵而来的争夺统治权的楚汉之争(前207~前202年)中,汉胜楚败,使分裂形势得到控制,统一了国家,一个中央集权的王朝就这样建立了.
秦灭六国年表
秦王政17年(前230年),内史腾率兵灭韩国,俘韩王安,所得韩地置颍川郡,韩亡。
秦王政19年(前228年),秦军攻入赵国国都邯郸(在此之前坑杀赵国40万军队),赵王迁被迫降秦,赵破。
秦王政20年(前227年),燕国太子丹派荆轲刺杀秦王未遂,秦王立即派王翦领兵攻燕。
秦王政21年(前226年),王翦攻破燕都蓟,燕王杀太子丹求和,燕破。
秦王政22年(前225年),王贲率领六十万大军攻打魏国,包围魏都大梁,引黄河鸿沟水灌大梁,三个月后大梁城破,魏王假投降,魏亡。
秦王政23年(前224年),王翦率领十万大军攻打楚国,屯兵练武、坚壁不战、以逸待劳。一年后,楚军斗志涣散、粮草不足,遂从前线撤军。王翦乘机追击,消灭楚军主力,占领楚都寿春,俘虏楚王负刍,项燕自杀,楚亡。
秦王政25年(前222年),王贲打下辽东,俘燕王喜;接着打下代城,俘代王嘉。燕、赵彻底灭亡。王翦又率军渡过长江,平定了江南,灭越国置会稽郡。
秦王政26年(前221年),王贲率军南下攻打齐国,齐王建投降,齐亡。
专制主义中央集权制度的建立
公元前 221年,秦王赢政(前246~前210年在位)统一六国,结束了长期的诸侯割据局面,建立了一个以咸阳为首都的幅员辽阔的国家。这个国家的疆域,东至海,西至陇西,南至岭南,北至河套、阴山、辽东。秦王政兼采传说中三皇五帝的尊号,宣布自己为这个国家的第一个皇帝,即始皇帝,后世子孙代代相承,递称二世、三世皇帝。他认为帝王死后以其行为为谥的制度,是“子议父,臣议君”,有损于帝王的尊严,所以宣布取消。他规定皇帝自称曰“朕”,并制定了一套尊君抑臣的朝仪和文书制度。这些都是为了显示皇帝的无上权威,表示秦的统治将万世一系,长治久安。
周代以来建藩建国的封建制度,与皇权专制和统一国家是不相容的,所以必须加以改变。始皇二十六年(前221年),丞相王绾请封诸皇子为燕、齐、楚王,得到群臣的赞同。廷尉李斯力排众议,主张废除分封诸侯的制度,全面推行郡县制度。秦始皇接受了李斯的建议,把全国分成三十六郡,以后又陆续增设至四十余郡。这些郡完全由中央和皇帝控制,是中央政府辖下的地方行政单位。中央集权的制度从此确立。始皇二十八年的峄山刻石辞说:“追念乱世,分土建邦,以开争理”;“乃今皇家,壹家天下,兵不复起”。这说明秦始皇认为废分封行郡县是消除各地兵争所必须的。
秦始皇以战国时期秦国官制为基础,把官制加以调整和扩充,建成一套适应统一国家需要的新的政府机构。在这个机构中,中央设丞相、太尉、御史大夫。丞相有左右二员,掌政事。太尉掌军事,不常置。御史大夫是丞相的副贰,掌图籍秘书,监察百官。丞相、太尉、御史大夫以下,是分掌具体政务的诸卿,其中有掌宫殿掖门户的郎中令,掌宫门卫屯兵的卫尉,掌京畿警卫的中尉,掌刑辟的廷尉,掌谷货的治粟内史,掌山海池泽之税和官府手工业制造以供应皇室的少府,掌治宫室的将作少府,掌国内民族事务和外事的典客,掌宗庙礼仪的奉常,掌皇室属籍的宗正,掌舆马的太仆等。丞相、太尉、御史大夫与诸卿议论政务,皇帝作裁决。
地方行政机构分郡、县两级。郡设守、尉、监(监御史)。郡守掌治其郡。郡尉辅佐郡守,并典兵事。郡监司监察。县,万户以上者设令,万户以下者设长。县令、长领有丞、尉及其他属员。郡、县主要官吏由中央任免。县以下有乡,乡设三老掌教化,啬夫掌诉讼和赋税,游徼掌治安。乡下有里,是最基层的行政单位。里有里典,后代称里正、里魁,以"豪帅"即强有力者为之。此外还有司治安、禁盗贼的专门机构,叫做亭,亭有长。两亭之间,相距大约十里。
早在秦献公十年(前 375年),秦国就建立了以"告奸"为目的的"户籍相伍"制度。后来商鞅规定,不论男女,出生后都要列名户籍,死后除名;还"令民为什伍",有罪连坐。秦律载明迁徙者当谒吏转移户籍,叫做"更籍"。秦王政统治时期,户籍制度趋于完备。秦王政十六年(前231年)令男子申报年龄,叫做"书年"。据云梦秦简推定,秦制男年十五(另一推算是十七)载明户籍,以给公家徭役,叫做"傅籍"。书年、傅籍,是国家征发力役的依据。始皇三十一年"使黔首自实田",即令百姓自己申报土地。土地载于户籍,使国家征发租税有了主要依据。户籍中有年纪、土地等项内容,户籍制度也就远远超过"告奸"的需要,成为国家统治人民的一项根本制度。秦置二十级爵,以赏军功。国家按人们的爵级赐给田宅,高爵者还可以得到食邑和其他特权(见爵制)。爵级载在户籍,所以户籍也是人们身份的凭证。
统治一个大国,需要全国一致而又比较完备的法律制度。出土的云梦秦简提供了自秦孝公至秦始皇时期陆续修成的秦律的部分内容,其中有刑律的律文和解释,有名目繁多的其他律文,还有案例和关于治狱的法律文书(见云梦秦律)。秦始皇统一六国以后,以秦律为基础,参照六国律,制定了全境通行的法律。秦律经过汉朝的损益,成为唐以前历代法律的蓝本。
维持一个大国的统一,还需要强大的军队。秦军以灭六国的余威,驻守全国,南北边塞,是屯兵的重点地区。秦制以铜虎符发兵,虎符剖半,右半由皇帝掌握,左半在领兵者之手,左右合符,才能调动军队。这是保证兵权在皇帝手中的重要制度。秦军是一支前所未有的巨大的镇慑力量。近年发掘的秦始皇陵侧的兵马俑坑,估计其中两坑有武士俑七千件,战车百乘,战骑百匹。武士俑同真人一样高大,所持武器都是实物而非明器。这种车、步、骑兵混合编组的大型军阵,其规模之大,军容之盛,是秦军强大的表征。
秦始皇不但建立了一套专制主义中央集权的统治机构和制度,而且还采用了战国时期阴阳家的终始五德说,以辩护秦朝的法统。终始五德说认为,各个相袭的朝代以土、木、金、火、水等五德的顺序进行统治,周而复始。秦得水德,水德尚黑,所以秦的礼服旌旗等都用黑色;与水德相应的数是六,所以符传长度、法冠高度各为六寸,车轨宽六尺;水德主刑杀,所以政治统治力求严酷,不讲究"仁恩和义";与水德相应,历法以亥月即十月为岁首,等等。秦始皇还确定了一套与皇帝地位相适应的复杂的祭典以及封禅大典,择时进行活动。秦始皇在咸阳附近仿照关东诸国宫殿式样营建了许多宫殿,并于渭水之南修造富丽宏伟的阿房宫。咸阳宫殿布局取法于天上的紫微宫,俨然是人间上帝的居处,天下一统的象征。秦始皇还在骊山预建陵寝,墓室中以水银为百川、江河、大海,机相灌输,上具天文,下具地理。他采取这些措施,和他采用皇帝的名号一样,是要表示他在人间的权力与上帝在天上的权力相当,从而向臣民灌输皇权神秘的观念。皇权神秘观念,是专制主义中央集权制度的思想基础。
皇权的加强和神化,郡县制的全面推行,体现专制皇权的官僚机构和各种制度的建立,法律的完备和统一,皇帝对军队控制的加强等等,这些就是专制主义中央集权制度的主要内容。专制主义中央集权制度,在当时的条件下是维持封建统一所不可少的条件。但是这种政治制度对百姓的束缚极大;而且它对经济文化发展的促进作用也可以转变为阻滞作用,这在封建社会后期更为显著。
防止封建割据的措施焚书坑儒长期分裂局面造成的影响,使秦始皇非常关心六国旧地的动静,担心六国旧贵族图谋复辟。为了防止割据的再现,秦始皇把六国富豪和强宗十二万户迁到咸阳,另一部分迁到巴蜀、南阳、三川和赵地,使他们脱离乡土,以便监视。他把缴获的和没收的武器加以销毁,在咸阳铸成十二个各重千石的钟铜人。又下令"堕坏城郭,决通川防,夷去险阻",尽可能消灭封建贵族依以割据的手段。为了控制广阔的国土,特别是六国旧境,秦始皇还修建由首都咸阳通到全国各地的驰道,东穷燕齐,南极吴楚。他自己多次顺着驰道巡游郡县,在很多地方刻石纪功,以示威强。为了加强北方的防务,秦始皇三十五年(前 212年),又修筑由咸阳经过云阳(今陕西淳化西北),直达九原(今内蒙古包头西)的直道,堑山堙谷千八百里。在西南地区,还修筑了今四川宜宾以南至云南昭通的五尺道,于近旁设官进行统治。
秦始皇对分裂割据的思想和政治倾向,也进行了斗争。当时的一些儒生、游士,希望复辟贵族割据局面,他们"入则心非,出则巷议",引证《诗》、《书》、百家语,以古非今。始皇三十四年,丞相李斯请求焚毁《诗》、《书》,消灭私学。他建议"史官非秦记皆烧之。非博士官所职,天下敢有藏《诗》、《书》、百家语者,悉诣守、尉杂烧之。有敢偶语《诗》、《书》者弃市。以古非今者族。吏见知不举者与同罪。令下三十日不烧,黥为城旦。所不去者,医药卜筮种树之书。若欲有学法令,以吏为师"。秦始皇接受了这一建议,于是就发生了焚书事件。第二年,为秦始皇求仙药的方士有诽谤之言,又相邀逃亡,秦始皇派御史侦察咸阳的儒生方士,把其中被认为犯禁者四百六十多人坑死。在早期封建社会的历史条件下,在统一与分裂激烈斗争的年代,秦始皇用焚书坑儒手段来打击贵族政治的思想是可以理解的。但是,焚书坑儒摧残文化,是极其野蛮残暴的事,对于古文献的保存和学术的传授,造成了极大的损失。
[另有说法,当时秦朝迫于匈奴入侵的压力,必须尽快安定国内,儒生、游士要求复辟贵族割据局面,无异于给匈奴趁内乱入侵的机会,故打压儒生私学]
秦始皇施政定制虽已兼采阴阳等家思想,但根本上是以法家思想为依据。焚书坑儒以及"以法为教","以吏为师"等,更突出地反映了他的法家思想。秦始皇以原来秦国的制度为标准,整齐划一全国政治、经济、文化方面的一些制度,企图尽可能消除由于长期分裂割据造成的地区差异,以利统一。 战国时期,各国文字的基本结构虽然相同,但字体繁简和偏旁位置却有差异。李斯受命统一文字,他以秦国的文字为基础,参照六国文字,制定小篆,并写成范本,在全国推行。当时还流行一种书法,叫做隶书,比小篆更简便。
秦始皇废止战国时各国形制和轻重大小各不相同的货币,改以黄金为上币,以镒(二十两)为单位;以秦国旧行的圆形方孔铜钱为下币,文曰半两,重如其文。 秦始皇用商鞅时制定的度量衡标准器,来统一全国的度量衡。今见秦朝权量,都刻有始皇二十六年(前 211年)颁布的统一度量衡的诏书。这种权量出土多,分布广,长城以外也有发现,可见统一度量衡是认真有效的。秦始皇还用法律规定了度量衡器误差的允许限度。他规定六尺为步,二百四十步为亩。不过二百四十步为亩的制度实际上只行于旧秦,可能还有旧赵境内,东方许多地区仍以百步为亩,直到汉武帝时期为止。文字、货币、度量衡的统一,为经济、文化的发展提供了便利条件,促进了统一国家的发展。对匈奴和对越人的战争 匈奴人分布在蒙古高原上,战国末年以来,常向南方侵犯。全国统一以后,秦始皇派蒙恬率军三十万抗击匈奴。蒙恬于始皇三十二年(前215年)收复河套以南地,即当时所谓"河南地",第二年进一步斥逐匈奴。秦自榆中(在今甘肃兰州以东,但有异说)向北,在黄河以东、阴山以南的地区内设置三十四县,并在黄河的一段地区因河筑塞。秦还把战国时燕、赵、秦三国长城修复并连接起来,筑成西起临洮(今甘肃岷县)、东迄辽东的古代世界伟大工程之一的万里长城,用来保护北方农业区域。接着,秦又徙民几万家于河套。这对于边地的开垦和边防的加强,起了积极作用。
中国境内的越人分布在华东、华南地区,分为闽越、[[南越]]、西瓯等部分。闽越在今浙江、福建一带,南越在今广东和广西东部,西瓯在今广东西南部、广西南部以至于云南东南部。越人"断发文身,错臂左衽"依山傍海,从事渔猎和农业。西瓯人主要从事农业生产。
秦王政二十四年(前223年),王翦率秦军灭楚,继续南进,夺得越人一部分土地,置会稽郡(今江苏苏州)。二十六年,秦始皇派尉屠睢发卒五十万,分为五军,进攻镡城(今湖南靖县境)、九嶷(今湖南宁远南)、番禺(今广东广州)、南野(今江西南康境)、余干(今江西余干境),进行了三年不解甲、不弛弩的艰巨战斗。秦军击败了闽越的抵抗,以其地置闽中郡(今福建福州)。攻南越的秦军,也占领了番禺。只有西线的秦军遇到西瓯人顽强的抵抗。为了解决秦军转饷的困难,监禄率卒在湘水、漓水间开凿灵渠(在今广西兴安),沟通了长江和珠江水系的交通。在秦军和西瓯人的战斗中,西瓯君译吁宋和秦军统帅尉屠睢相继战死。三十三年,秦始皇又谪发内郡曾经逃亡的人、赘婿、商人增援,征服了西瓯,在南越、西瓯故地及其相邻地区建置了南海郡(今广东广州),象郡(今广西崇左境)和桂林郡(今广西桂平),并继续征发人民前往戍守。这样,几十万北方农民就留在那里与越人杂居,共同开发珠江流域。
秦代的急政 秦始皇的事业,是在残酷地剥削压迫人民的条件下,在短短的十几年中完成的,这使秦的统治具有急政暴虐的特征。秦统一以后的十几年中,秦始皇维持了一支庞大的军队,建立了一个庞大的官僚机构,进行了多次的大规模战争,完成了巨大的国防建设和土木建筑。秦始皇大大增加了对人民的征敛。据估计,当时全国的人口约为一千多万,而当兵服役的人超过二百万,占壮年男子三分之一以上。当兵服役的人脱离了农业生产,靠农民养活,这就出现了男子力耕,不足以供粮饷,女子纺绩,不足以供衣服的严重局面,大大动摇了秦的统治基础。为了强化地主阶级的统治,秦朝又推行严刑峻法以镇压人民,并且把数十万人民变为封建国家的囚徒。
秦始皇使黔首自实田,在全国范围内正式承认土地私有制。地主阶级凭借这个命令,不仅得以合法占有土地,而且可以用各种手段兼并农民的土地。土地被兼并的农民,不得不以"见税什五"的苛刻条件耕种豪民之田。农民生活悲惨,穿牛马之衣,吃犬彘之食,往往在暴吏酷刑的逼迫下逃亡山林,举行暴动。这种种情况说明,急政暴虐激化了社会矛盾,秦始皇在完成统一事业的同时,也造成了秦王朝倾覆的条件。所以西汉时的贾山谈到秦代"群盗满山"的情况时说:秦始皇在世时,他的统治已经在崩溃,虽然他自己并不知道。
秦朝的政区
一.都城咸阳附近关中平原由内史直接管理
二.立国之初,设立36郡。其后南并五岭以南南越地,置南海 桂林 象郡,北取阴山以南地置九原郡。又陆续分析内郡:东海 常山 济北 胶东 河内 衡山等。
秦亡
公元前 210年秦二世胡亥即位。他进一步加重对农民的剥削和压迫,以"税民深者为明吏",以"杀人众者为忠臣"。他令农民增交菽粟刍藁,自备粮食,转输至咸阳,供官吏、军队以至于狗马禽兽的需要。他继续修建阿房宫,继续发民远戍。徭役征发的对象进一步扩大,农民的困苦达于极点,大规模的农民起义已经到一触即发的地步。在农民酝酿反秦的时候,潜伏着的六国旧贵族残余势力也在俟机进行分裂活动。始皇三十六年(前 211年),东郡出现"始皇帝死而地分"的刻辞,就是这种分裂活动的征兆。
陈胜、吴广领导的农民战争 二世元年(前 209年)七月,一队开赴渔阳(今北京密云)的闾左戍卒九百人,遇雨停留在大泽乡(今安徽宿县境),不能如期赶到渔阳戍地。秦法"失期当斩",戍卒们面临着死刑的威胁。于是,在陈胜、吴广的领导下,在大泽乡举起了中国历史上第一次大规模农民起义的旗帜。陈胜,即陈涉,阳城(今地有异说,在河南境内)人,雇农出身;吴广,阳夏(今河南太康)人,也是农民。他们都是戍卒的屯长。为了发动起义,他们在帛上书写"陈胜王"三字,置鱼腹中,戍卒买鱼得书,传为怪异。吴广又于夜晚在驻地旁丛祠中燃篝火,作狐鸣,发出"大楚兴,陈胜王"的呼声。接着,陈胜、吴广率领戍卒,杀押送他们的秦尉,用已被赐死的秦公子扶苏和已故楚将项燕的名义,号召农民反秦。附近农民斩木揭竿纷纷参加起义。起义军分兵东进,主力则向西进攻,连下今豫东、皖北的铚、酂、苦、柘、谯(分别在今安徽宿县,河南永城、鹿邑、柘城,安徽亳县境)诸县。当他们推进到陈(今河南淮阳)的时候,已是一支数万人的声势浩大的队伍了。在起义军的影响下,许多郡县的农民杀掉守令,响应陈胜;特别是在旧楚国境中,数千人为聚者到处可见。一些潜藏民间的六国旧贵族、游士、儒生,也都乘机来归,凭借旧日的地位,在农民军中发挥影响。游士张耳、陈余甚至劝陈胜派人"立六国后",被陈胜断然拒绝。陈胜自立为"张楚王",分兵三路攻秦:吴广为"假王",西击荥阳;武臣北进赵地;魏人周市攻魏地。吴广军在荥阳被阻,陈胜加派周文西击秦。周文军很快发展到车千乘,卒数十万人,进抵关中的戏(今陕西临潼境),逼近咸阳。秦二世慌忙发修骊山陵墓的刑徒为兵,以少府章邯率兵应战,打败周文军。武臣占领了旧赵都城邯郸后,在张耳、陈余怂恿下自立为赵王,陈胜勉强予以承认。武臣抗命不救周文,却派韩广略取燕地。韩广在燕地贵族的怂恿下,也自立为燕王。周市进到旧魏南部和旧齐境内。旧齐贵族田儋自立为齐王,反击周市。周市在魏地立旧魏贵族魏咎为魏王,自为魏丞相,并派人到陈胜那里迎接魏咎。旧贵族的势力很活跃,涣散了农民起义队伍。陈胜缺乏经验,决心不够,眼看着分裂局面的形成。陈胜周围也出现了不团结的现象。
秦将章邯军连败周文,周文自杀。章邯又东逼荥阳,吴广部将田臧杀吴广,迎击章邯,一战败死。章邯进到陈,陈胜败退到下城父(今安徽涡阳东南),被叛徒庄贾杀死,陈县失守。陈胜部将吕臣率领一支"苍头军"英勇接战,收复陈县,处决了庄贾。陈胜作为反秦的先驱者,领导起义只有半年就失败了,但是反秦的浪潮却被他激起,继续不断地冲击秦的统治(见陈胜、吴广起义)。
楚汉之战
陈胜起义后,旧楚名将项燕之子项梁和梁侄项羽在吴(今江苏苏州)杀掉秦会稽郡守,起兵响应。不久项梁率领八千子弟兵渡江北上,队伍扩大到六七万人,连战获胜。闽越贵族无诸和摇也率领族人,跟着秦番阳令吴芮反秦。原沛县亭长刘邦和一部分刑徒逃亡山泽,也袭击沛令起事,归入项梁军中。项梁立楚怀王之孙为楚王。以后,项梁在定陶败死,秦章邯军转戈北上,渡河击赵。这时,代替蒙恬戍守朔方边塞的王离,也率大军由上郡(治今陕西榆林东南)东出,包围了张耳和赵王歇驻守的巨鹿城(今河北平乡境)。楚王派宋义、项羽救赵,派刘邦西入关中。宋义北至安阳,逗留不进。项羽杀宋义,引兵渡漳河,经过激战,解巨鹿之围,被推为诸侯上将军。以后,秦将章邯率二十万人向他投降。刘邦迂回进入武关,到达咸阳附近。那时秦二世已被赵高杀死,继立的子婴贬去帝号,称秦王,在公元前 207年十月向刘邦投降。刘邦废除秦的苛法,只约法三章,"杀人者死,伤人及盗抵罪",深得秦人拥护。
刘邦入咸阳后,项羽也立即率军入关,驻鸿门,然后进入咸阳,大肆烧杀掠夺。他在诸王并立的既成局面下,自立为西楚霸王,都彭城。并调整诸故王土地,徙置他们于其原据地的边缘,而把自己的亲信封于各国的善地为王。这样就并立着十八个王国,受制于西楚霸王。项羽的这一措施反而恶化了割据形势。不久齐国首先发难,诸侯混战再次爆发。被项羽逼处巴蜀汉中一隅为汉王的刘邦,于汉元年(前 206年)五月,乘机进入关中,败项羽所封关中三王。接着领军东出,远袭彭城,退守于荥阳、成皋之间,与项羽相持。刘邦巩固了关中后方,又联络反对项羽的力量,转败为胜。汉五年十二月,与韩信、彭越等会攻项羽,项羽兵败垓下(今安徽灵璧境),退至乌江(今安徽和县境)自刎。同年六月,刘邦即皇帝位(见汉高祖刘邦)。
楚汉之战是由秦末农民战争直接演变而来的。农民战争虽然胜利地推翻了秦朝,但曾经是农民战争领袖的刘邦和项羽,却不得不逐步转化为封建统治权的角逐者。刘邦知人善任,因势利导,终于战胜项羽,登上了西汉统一王朝的皇帝宝座。
秦世系
1、秦仲——2、庄公——3、襄公——4、文公——5、宁公——6、出公——7、武公——8、德公——9、宣公——10、成公——11、穆公——12、康公——13、共公——14、桓公——15、景公——16、哀公——17、惠公——18、悼公(以上据《史记.十二诸侯年表》)——19、厉公——20、躁公——21、怀公——22、灵公——23、简公——24、惠公——25、出子——26、献公——27、孝公——28、惠文王——29、武王——30、昭王——31、孝文王——32、庄襄王——33、秦始皇——34、二世(胡亥)--35、子婴
始皇帝: 秦始皇二十六 221~ 秦始皇三十七 公元前210年
二世 :秦始皇二十七(七月) 210年~ 二世三年 公元前207年
子婴 :二世二年(八月) 207年~ 二世三年(十月) 公元前206年
秦朝军队构成
军队构成秦朝军队分三个部分,即京师兵、郡县兵、边防兵。京师兵,由于任务不同,分三个系统:郎中令管辖的侍卫官,包括贝(钱财)选、荫任、军功特拜而产生的传中、中郎等,有俸禄,主要负责殿内值勤、从皇帝:卫尉管辖的皇宫警卫兵,由郡县轮番服役的正卒充当,称卫士,主要职责是守卫宫门;中尉管辖的京都成卫兵,成员是轮番服投的内史地区正卒,主要职责是保卫都城的安全。遇特殊情况,京师另设屯兵。郡县兵,指在当地轮流服一年兵役的正卒。由郡尉县尉管辖。平时训练,并兼管地方安全,战时奉调出征、因所处地理环境的不同,又分为材官(步兵)、骑士(骑兵)、楼船士(水军)三类。大体北方、西北方多骑士,山丘陵地带多材官,江谁及沿海多楼船士。有的郡既有材官,又有骑士。
边防兵,指边郡骑士、材官、边郡屯兵和边塞皮卒。边郡骑士或材官,是本地服兵役的正卒。屯兵是集中驻扎的机动作战部队,由朝廷派遣的将军统率,如蒙恬曾长期领兵屯于上郡。戊卒包括轮番服役的各郡正卒和嫡发的官吏、商人及农民。除分散担任警戒、候望任务外,还构筑维修军事工程。兵种区分秦军分为步兵(含弩兵)车兵骑兵和水兵种。步兵称材官,有轻装与重装之分,前者无甲,持弓、弩远射兵器;后者上体着甲,持戈、矛、戟之类长兵器。着甲持弓、弩者称驾兵,是步兵的主力。车兵仍然装备单辕双轮四马木质车,每车3人,皆着盔甲,御者居中,甲士2人分立两侧,持戈矛类长兵器。骑兵称骑上,着短甲,执弓箭,所乘之马有鞍,无鞍蹬。水军称楼船士,具有一定规模。秦始皇陵兵马低坑的布阵表明,步兵数量较多,是主要兵种,车兵仍是重要作战力量,骑兵尚处于从属地位,弯兵且智较大辞容。作战中,车、骑、步、驾大休混编列阵,配合而行。
有关秦朝的经典
1.秦始皇
秦始皇(公元前259~前210年),首位完成中国统一的秦王朝的开国皇帝。后人称之为“千古一帝”。 姓嬴,名政。汉族,秦庄襄王之子,出生于赵国,所以又叫赵政。13岁即王位,22岁在故都雍城举行了成人加冕仪式,从此正式登基“亲理朝政”,39岁完成了统一中国的历史大业,称帝。前246年,秦王赢政即位,因年幼朝政由太后和相国吕不韦及嫪毐掌管。前238年(秦王政九年),秦王政亲理朝政,除掉吕、嫪等人,重用李斯、尉缭,自公元前230年至前221年,先后灭韩、赵、魏、楚、燕、齐六国,完成了统一全国的大业,建立了中国历史上第一个统一的、多民族的、专制主义中央集权制国家——秦朝。秦王嬴政自认为自己的功劳胜过之前的三皇五帝,给自己起名“皇帝”。一生中有功也有过,与汉武帝并称为“秦皇汉武”。
2.秦兵马俑
秦始皇是第一个统一中国的皇帝,他的陵墓在西安城东30公里处。1974年2月,当地农民在秦始皇陵东侧1.5公里处打井时偶然发现了与真人真马一样大小的兵马俑。从此,一个埋藏了两千多年的地下军阵被挖掘出来,并建成博物馆。秦兵马俑坑是秦始皇的陪葬坑,由一号、二号、三号坑和兵马俑坑组成。展出的陶质陪葬武士俑和兵马俑共计8000个,排列成阵,气势壮观。俑分将军俑、铠甲俑、跪射俑.骑兵俑.武士俑.车兵俑.(驭手,兵士)弓弩俑,马俑等。坑内还出土有数万件实战兵器,馆内展出秦始皇大型彩绘铜车马。被称为"世界第八大奇迹"的秦兵马俑展示了古长安往日的辉煌,也是长安何已会成为丝路起点的一个写照。
3.过秦论
《过秦论》,论秦之过也。原文分为上、中、下三篇。载于《新书》第一卷,《文选》卷五十一,另见于《史记·秦本纪》、《史记·陈涉世家》及《汉书》。全文着重从各个方面分析秦王朝的过失,故名为《过秦论》。本文旨在总结秦速亡的历史经验,以作为汉王朝建立制度,巩固统治的借鉴。 作者贾谊(前200-前168),世称贾太傅、贾长沙、贾生。洛阳(今河南洛阳东)人。西汉初期的政论家、文学家。
4.秦风
秦风:诗经国风中的内容。
秦诗产生的时代,大致说来是自春秋初至秦穆公(死于前六二二年)这一百五、六十年间的诗。
秦风共有十首诗。包括:车邻 驷驖 小戎 蒹葭 终南 黄鸟 晨风 无衣 渭阳 权舆
5. 秦时明月
得源于王昌龄的七绝“秦时明月汉时关”。
秦时明月汉时关,万里长征人未还。
但使龙城飞将在,不教胡马度阴山。
此诗是王昌龄的七绝中,最为人瞩目的一首。许多人说这诗是神品。开头第一句,就非同凡响。“秦时明月汉时关”似乎难以为人理解,怎么秦时的明月,“关”却是汉时的呢?但此句,妙就妙在这里,寓意深远就在这里。这一句是说,把守汉时的关口的军人,而看到的是和秦时相同的明月,而时间已经飞逝去了。接下来承接上句的是“万里长征人未还”,就延伸了第一句的意思。