明朝 明朝

明朝



明(みん、1368年 - 1644年)は、明朝ともいい、中国の歴代王朝の一つ。皇帝による政治が行われた。大明と号した。国号の由来は白蓮教の「小明王韓林児」に因むとする説、夏の別名で火と南方を司る神「朱明」(祝融)に因むとする説などがあるが定説はない。
朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。
朱元璋の建国
モンゴルの建てた元朝は14世紀に入ると帝位の相続争いが起こり、統治能力が低下した。さらに疫災が相次いだため、白蓮教徒が1351年に紅巾の乱を起こすと反乱は瞬く間に広がった。紅巾軍の一方の将領であった貧農出身の朱元璋(太祖・洪武帝)は南京を根拠に長江流域の統一に成功し、1368年に明を建国した。洪武帝は建国するとただちに北伐を始め、順帝(トゴン・テムル・ハーン)は大都(北京)を放棄して北に逃れ、万里の長城以南の中国は明に統一される。江南から誕生した王朝が中国を統一したのは明が初めて、唯一である。
洪武帝は統一を達成すると外征を抑え、農村の検地や人口の調査を進めて里甲制・衛所制を布き、内政の安定に力を注いだ。一方で洪武帝は功臣を粛清し、宰相にあたる中書令を廃止して六部を皇帝に直属させる独裁の体制を築いた。
しかし、1398年洪武帝が死ぬと2代皇帝となった孫の建文帝と帝の叔父である洪武帝の子たちの間が不和となり、北京を中心に北方の防備を担っていた洪武帝の四男燕王が反乱を起こした(靖難の変)。1402年、燕王は首都南京を占領して建文帝から帝位を簒奪し自ら皇帝に即位した。これが永楽帝である。永楽帝の即位により、政治の中心は再び北京へと移った。
領土の拡大
永楽帝は北京に遷都し洪武帝の慎重策を改めて盛んに勢力を広げた。北に退いた元朝の余党(北元、明ではこれを韃靼と呼んだ)は1388年にトゴン・テムル・ハーンの王統が断絶していたが、永楽帝は遠征により制圧した。満洲では女真族を服属させて衛所制に組み込むことに成功した。南方ではベトナムを陳朝の内乱に乗じて征服した。
さらに海外の東南アジア、インド洋にまで威信を広げるべく鄭和に率いられた大艦隊を派遣し、一部はメッカ、アフリカ東海岸まで達する大遠征の結果、多数の国々に明との朝貢関係を結ばせた。
永楽帝の死後、モンゴルへの遠征、東南アジアへの艦隊派遣は中止され、ベトナムでは黎朝が独立した。しかし永楽帝の子洪熙帝、孫宣徳帝の二代に明は国力が充実し、最盛期と評価される(仁宣の治)。
北虜南倭の危機
一方このころ、モンゴル高原では西モンゴルのオイラトが力をつけ、モンゴルを制圧したオイラト族長エセン・ハーンは明へ侵攻してきた。1449年、英宗は側近の宦官王振の薦めでオイラトに親征を行ったが、自ら捕虜となる大敗を喫した(土木の変)。
エセン・ハーンは内紛で殺され危機を免れたが、後に帰還して奪門の変で復位した英宗以来、歴代の皇帝は紫禁城から出ることを好まず、また政治を顧みない皇帝も多く、国勢はしだいに低調となった。
16世紀に入ると倭寇が中国人の密貿易商人と結びついて活動を始め、沿岸部を脅かすようになった(後期倭寇)。さらにモンゴルではクビライの子孫とされるダヤン・ハーンが即位し、オイラトに対抗してモンゴルの再統一を成し遂げた。オルドス地方に分封されたダヤン・ハーンの孫アルタン・ハーンは16世紀中ごろに頻繁に中国に侵入し、1550年には北京を攻囲した(庚戌の変)。
この時代の明を悩ませた倭寇とモンゴルを併称して北虜南倭と呼ぶ。
明の衰亡
1572年、わずか10歳の万暦帝が即位した。はじめの10年間は内閣大学士張居正が政権を取り、国政の立て直しが計られたが、張居正の死後親政が始まると帝は政治を放棄した。在位は48年に及ぶが、途中日本に攻撃された朝鮮の救援などの出費がかさみ、財政が破綻した。このような時局を憂えた人士が無錫の東林書院に結集し東林党という政治集団が作られた。以後、東林党と反東林党の政争が起こる。万暦帝の死後も泰昌帝は即位後まもなく急死し、天啓帝は寵臣の宦官魏忠賢に国政を委ねるなど、政情の混乱が続いた。魏忠賢によって東林書院は閉鎖され、東林党の人士も投獄・殺害された。
天啓帝の7年の治世の後、崇禎帝が即位したときには既に明は末期的症状をきたしていた。さらに即位後まもなく飢饉が起こり、反乱が相次ぎ、更に後金軍の侵攻も激しさを増した。名将袁崇煥が後金軍を防いでいたものの、後金(清)のホンタイジの策略に嵌った崇禎帝が袁崇煥を疑い誅殺してからは後金軍を抑えられなくなり、更に流賊から台頭した李自成は西安に拠って大順を称し、北京に迫った。1644年、李自成軍の包囲の前に崇禎帝は自殺し、滅亡した。
同年、清が李自成を破って北京を占領し、中国支配を宣言すると、中国南部にいた明の皇族と官僚は南明を建て清に抵抗したが、雲南からビルマに逃げ込んだ永暦帝を最後に滅ぼされた。福建でも鄭成功が台湾を拠点に抵抗したが、鄭氏政権は後に清に降伏している。
1724年、明の代王朱彝の孫、朱之璉が清の雍正帝より一等延恩侯の爵位を授けられ、以後はその子孫に明の祭祀が引き継がれた。
政治
洪武帝、永楽帝と創業の二人の皇帝がいずれも独裁的な恐怖政治を行ったため、それ以降の明の政治も同じようになった。皇帝の不興を買えばそれまで権勢並ぶものが無かった高位の臣でも即座に死を賜る事が良くあった。明の官吏は常に誅殺におびえ、朝、家族と水杯をし、死を覚悟して出仕し、夕、帰って再び家族と出会えたことに喜んだと言う。このため明の官吏は多く事なかれ主義に走り、明の政治は皇帝の出来不出来に全てがかかってくる事になり、名君の時は果断に善政が進められるが、暗君の時は目も当てられないような悲惨な状況になった。そして明の不幸は、名君の治世は短く、暗君の治世が長いということにあった。
明代後期より富裕な士大夫層が地方の指導者としての地位を確立し郷紳と言う新しい身分層を形成し始める。彼らは基本的に官僚であり、官僚としての地位とその間に積み上げた財産を持って地方の民衆からの尊敬を集めて指導者として、政府の地方官にすら命令するほどの権力を持った。しかし唐以前の貴族とは違い、血縁を持って財産を保持しているわけではなく、一族の中に科挙に合格するものが長い間出ない場合は没落してしまう事になる。郷紳の事を「一代限りの貴族」と表現する人もいる。後の清代では郷紳層は地方の強い基盤を基に辛亥革命の中で活躍する事になる。
官制・税制・兵制
明初の官制はほぼ元制の踏襲であるが、1380年の胡惟庸の獄をきっかけに官制を改めて皇帝独裁体制の確立を図った。
洪武帝は宰相府である中書省を廃止したが、実際に皇帝が一人で全ての政務に当たるのは不可能であり、補佐役として作られた内閣大学士が後には事実上の宰相職となる。
内閣の下に行政機関である六部がある(六部の詳細についてはリンク先を参照)。また官僚の監察機関である御史台の名を改めて都察院とし、軍事の最高機関である枢密院を改めて大都督府とし、更に都督府を中・前・後・左・右に分割して五軍都督府とした。
しかし洪武帝の猜疑心はこれだけでは収まらず、これとは別に皇帝直属の特務機関である錦衣衛を作る。更に永楽帝の時代に宦官の特務機関東廠を創設した。後に東廠に対して西廠も作られるが、こちらはすぐに廃止される。これらの特務機関の存在が明の官界を暗くした。また、明代は官僚の給与が低く、これら諸点から歴代でも最も不遇と言われる。給与を抑制したことは賄賂の横行を招き、官界腐敗の原因となった。
地方制度も元代の行中書省の強すぎる権限を嫌って廃止し、それに代わり権限を大幅に縮小した民政・財政担当の承宣布政使司(しょうせんふせいしし)、裁判・監察担当の提刑按察使司、軍事担当の都指揮使司の三つを置いた。布政使は全国に13あり、これとは別に皇帝直属である直隷がある。直隷(河北省)、南直隷(江蘇省・安徽省)、山東、山西、河南、陝西(甘粛省も含む)、四川、湖広(湖北省・湖南省)、浙江、江西、福建、広東、広西、雲南。
布政使の下に府があり、その下に州がある。所によっては州の下に県がおかれる場合もある。
洪武帝は全国を調査して賦役黄冊(戸籍帳)魚鱗図冊(土地台帳)を作り、それを基に両税法により税が徴収されたが、以前の貨幣や布に代わって米や麦などの穀物による納税(原物主義)が行われた。他にも雑税として絹が徴収される事があった。当然の事ながら、官吏の給与は歳入の大半を占める穀物に依っていたが、重農主義による穀物生産の回復に伴って穀物価格が低落傾向に陥り、貨幣や銀を手に入れるために換金を経なければならない官吏や地主の生計を圧迫する事になった。このため予め貨幣や銀で税を徴収するように求める(裏を返せば、穀物価格低下のリスクを農民に押し付ける)意見が高まるようになった。正統元年(1436年)には官吏俸禄の銀支払とこれと表裏一体であった田賦銀納制の導入が行われる事となった。
また、地方を治めるために里甲制が、兵制として衛所制が布かれた。里甲制は裕福な戸1と10戸を組にして里と呼び、里を10で甲と呼んで基本単位として里に対して徴税や労役の義務を課す制度である。また兵士を出す家を分けて置いて軍戸とし、そこから定常的に兵士を供給させるのが衛所制である。
衛所制は政府から軍戸に対して土地を下賜し、その土地からの収入による自足自給を建前としていた。しかし正統期ごろから軍戸の中に窮迫する物が増えて逃亡が増大し、また宦官や地方の軍官などが軍戸に与えられるべき土地を私物化する事が増えて、軍戸の生活は破綻した。これに対して中央から食料を送っていたが、これが大きな財政負担となっていた。その食料を軍官たちは様々な手段で私した。例えば兵数を実数よりも過大に報告する事で差額を懐に入れるのである。このような事から明末には衛所制は無力化し、国防は各地の軍官に雇われていた私兵が役目にあたることとなる。
里甲制も年が下るごとに課される労役・税の事務作業と項目が複雑化し、負担が過重で不公平の度合いが激しくなった。これに対して万暦期の宰相・張居正が一条鞭法を実施した。これはそれまでの複雑な税体系を簡便化し、銀納の一本にまとめてしまったものである。これにより一時期財政は好転したが、その後の万暦帝の奢侈により張居正の努力は水の泡となってしまった。
科挙
洪武帝は明を建てるとすぐに科挙を行い、大々的に人材を募集した。その後、一時期停止されたが、永楽帝以降は明が終わるまで継続されている。
明代では科挙を受験するには国立学校に所属する必要があった。彼らは生員と呼ばれる。洪武帝は首都に国子監と言う国立学校を設立し、地方にもそれぞれ府・州・県ごとに学校を設立した。しかしこれらの学校は後には単に科挙の資格を得るために在籍し、勉強をする所ではなくなった。またこれとは別に民間には社学と呼ばれる私立学校が存在し、農民の子弟に読み書き・計算などを教えていた。
生員になるに際しての試験があり、その後、第一次の地方試験である郷試がある。郷試に合格した者は挙人と呼ばれ、第二次の中央での試験である会試を受けて合格すると進士と呼ばれ、晴れて官僚になる資格を得る。更に殿試と言う皇帝の前での試験があるが、これは落ちる事は無い試験である。
官僚になりたがる人数は非常に多く、生員だけで50万がいたとも言われる。それに対して合格するのは毎回3~400人であり、何度も受験している間に白髪になってしまった者もいた。
王府
洪武帝は多くの功臣を粛清する一方で、自分の子供達を各地に「親王」(単に「王」とも)として封建して王府(おうふ)を設置させて地方に軍隊とともに駐屯させて現地を治めさせ、政治的基盤を固めようとした。これには(1)親王自ら兵を率いて国防の先頭に立つ。(2)皇族を繁栄させて万が一の皇統断絶を回避する。(3)皇族の維持にかかる費用を地方に負担させる。(4)儒教的な封建体制再建を確立させる。といった目的があったとされる。
だが、皇太子である朱標が父より先に亡くなり、その息子で洪武帝の孫の世代にあたる建文帝が即位すると、これらの叔父が皇位を脅かす事を恐れて取り潰しを図った。だが、逆にこうした叔父の1人であった永楽帝によって滅ぼされてしまう事になった。永楽帝は「親王」の軍事的権限の削減を図ったものの、父の洪武帝同様に自分の子供達を封建する事には積極的であった。更に宣徳帝の時代に漢王朱高煦が反乱を起こしたのを機に軍事力の全面的剥奪に踏み切った。また、自己の開墾地以外の土地の私有を禁じて禄米支給へと切り替え、更に自由な外出や任官までも禁じたため、親王や郡王は事実上居城に蟄居状態に置かれるようになった。
その後、各地に王や郡王(親王の諸子)の増加によって支給する禄米が増加して明の財政は悪化した。そこで皇族のために「皇荘」と呼ばれる荘田を設置して経費を補わせ、また皇荘の一部は皇帝からの下賜された特例としてそのまま皇族の私有の荘田にする事を許した。だが、親王や郡王は役人が自分達を恐れて干渉できないことを良い事に一種の地主と化して皇荘内において思うままに農民からの租税や土地そのものの収奪を行い、そこで得た収益を元手にさらに高利貸しなどの商業活動や土地の集積を進めたり、郷紳などからの投献(寄進)を受けたりして皇荘へと編入していった。このため、官田が王達によって奪われて財政収入が減少するという事態が生じたため、1470年には皇荘の税率を定めて実際の管理を地方官に行わせる事を定めたものの、皇帝自らが王達に特例を認める事がしばしばであり、何の解決にもならなかった。特に万暦帝の実弟である潞王・朱翊鏐や3男の福王・朱常洵などは万暦帝の寵愛を背景に数万頃に及ぶ大地主と化して農民に対して更なる収奪を行ったものの、皇帝の不興を買って粛清される事を恐れた官僚達は具体的な対策を打とうとはしなかった。こうした状況は人々に強い不満を抱かせ、明末の農民反乱の標的に王や郡王があげられることになった。
経済
元末からの騒乱により中国の荒廃は甚だしい物があり、特に華北は一面荒野が広がるほどの状態であった。その一方で江南地帯の荒廃はそれほどでもなく、強い経済力を有していた。この江南に対して農民出身の洪武帝は彼らが強い力を持つことを警戒して、抑圧政策を取っていた(農本主義的な朱子学の振興もその一環であり、商人出身者の科挙受験も厳しく制限された)。しかしそれでも江南の経済力は成長を続け、明全体の経済の中心として活躍する。
農業
農民出身であった朱元璋は農業特に米や麦などの穀物生産を極めて重視する政策を取った。特に重要視したのは、明が創業の地とした江南の豊かな農業資源である。宋の時代には「蘇湖熟すれば天下足る」と呼ばれていたのが、特にこの時代にはその一地域であった蘇州・松江のみで「蘇松熟すれば天下足る」と称されるようになった。朱元璋は張士誠の支配地域であったこの地域を真っ先に占領して農地を悉く国の直轄とした。更に中期ごろからは長江中流域の湖広(現在の湖北省・湖南省)の農地開発が急激に進み、末期には「湖広熟すれば天下足る」と呼ばれるようになっていった。
貨幣政策
元で発行されていた紙幣(交鈔)にならって明でも宝鈔と言う紙幣を発行した。これは完全な不換紙幣であるが、明政府に不換紙幣を運用できるだけの力量があった訳ではなく、金銭の流通と言うことに対しての認識不足があったようだ。また、元末には交鈔のシステムが崩壊し、以前のように銅銭を発行するための余裕もなかったために、建国当初においては実物経済依存が強くなり、洪武帝の農本主義政策の背景になっているという指摘もある。
この紙幣の価値を保つための政策は何も行われておらず、価値は下がり続け、それに代わってこの時代に外国(メキシコ・日本)から大量に流入した銀が通貨として使われるようになった。これに対して政府は何度か使用禁止令を出したものの効果は無く、一条鞭法の採用によって事実上、銀が通貨となった。また、永楽通宝などの銅銭も発行されたが、洪武帝が銅銭の流通を禁止した事もあってその利用は低調で宝鈔や銀の使用に押されて専ら海外への輸出専用に回されることが多くなった。だが、銅の生産が乏しくなると、ついに銅銭の生産も極稀にしか行われなくなった。
ウイグル商人などの経済に鋭い感覚を持つ人材を財政に採用していた元とは違い、明の経済官僚には感覚が鈍い者が多かったようである。
しかしこの事により、銀が東アジアにおける国際通貨となり、東アジア交易網の形成に大きく貢献している。
その一方で、財政悪化に伴う税の増徴は、官やそれに繋がった有力者への銀の集中をももたらして、一部の持つ者と大多数の持たざる者の格差を広げる要因となった。沿岸の有力者や辺境を守る軍人達は海禁政策の有無に関わらず積極的に交易を行って富を蓄え、果ては私軍を保有して更なる高位を得るものまで現われるようになった。前者の代表が鄭芝龍であり、後者の代表が李成梁・呉三桂である。そして、持たざる者の代表者こそが李自成であると言える。これらの融和策を行わなかったゆえに前述の李自成、呉三桂に明自身が滅ぼされる羽目になったのは歴史の皮肉とも言える。
専売制
明も歴代王朝と同じく塩の専売制を行った。明の場合、専売制は軍政と関連していた。まず駐屯地の食料庫に食料を納入した商人は手形を受け取り、その手形を塩と引き換える事の出来る塩引と交換し、塩と引き換えてそれを販売すると言うものである。これは開中法と呼ばれ、明代を通じて行われている。銀が通貨となると食料を納入していたのが、銀の納入に代わっている。
手工業
明代は手工業の活性期でもあった。江南を中心とした地方では絹織物・綿織物の生産が増加し、それに伴って農村でのカイコ・綿花の生産も高まり、大きな市場を作っていた。また農民達の副業としての手工業も盛んに行われており、重要な収入源となっていた。
政府はこれら手工業に従事する人達を農民とは別の匠戸と言うグループに分類し、一般の労役の代わりに官営工場での手工業に従事させる事で政府が欲する分の製品を供給させていた。これを匠役制と言うが、この制度は匠戸に対する過重な負担を生み、逃亡する者が増えたため匠役の代わりに銀を納付させてこの収入で必要とする分を買い求める事に変わった。
また、実際にこうした副業に従事している農民には貧困層が多く、高利貸しから借りた資金で蚕種や桑の葉などの必要物資を買い揃えて蚕を育て、繭から糸が取れる頃に高利貸しからの催促によって生糸を一旦売った後に改めて高利貸しから資金を借りて糸を購入して織物を織るという繰り返しによって成り立っており、商業資本の蓄積は望めても工業化への発達の可能性が低いものであった。
文化
洪武帝により文人に対しての大弾圧が行われ、明初は文化の点から言うと元気が無い。それ以降も弾圧こそしなかったもののまったくと言っていいほど文化に対する保護・促進は行われずに、文化は民間人により発達していったものである。一般民衆の間に文化が広まったゆえんはそれである。それまでの文人=官僚だった図式が崩れて多くの大衆文化が生まれている。しかしその一方でそれまで高尚とされていた漢詩・歴史の分野ではあまり見るべきものが無い。
思想
永楽帝の命により『四書大全』『五経大全』『性理大全』が撰されて、朱子学は国定学問としての地位を保持していたが、朱子以降の朱子学にはあまり思想的な進展は見られないとの指摘がある。これについて国定になり、思想が固定化されたせいだとも朱子による学問の体系化があまりにも完璧なものであったためにそれ以後の朱子に到底及ばない学者にとっては進展が無いのだとも言う。
しかし、明代の思想において最も特筆すべきはなんと言っても王陽明による陽明学(中国では王学と呼ばれる。陽明学は日本において付けられた名である)の成立である。陽明学では心即理・知行合一・致良知を唱え、明代を通して思想的発展を遂げる。 明代後期、陽明学的土壌の中で三教一致説が隆盛を極め、中国思想界はかつてない程の進展を見せる。
『幾何原本』の挿絵、マテオ・リッチと徐光啓
『坤輿万国全図』その一方で、1582年にイエズス会員マテオ・リッチらによってキリスト教カトリックがもたらされる。明政府高官の中には、キリスト教に興味を示した者も多数存在したが、それはマテオ・リッチの布教態度に負うところが大きく、彼の死後は宣教師たちのもたらした様々な西洋科学技術にこそ価値を見出すようになった。明人では、代表的なキリスト教信者として徐光啓の名を挙げることができるが、徐光啓は時の内閣の宰相として西欧文化の紹介に努め、西欧暦法に基づき、以後の中国における暦を改変した人物である。また、マテオ・リッチが作成した坤輿万国全図(中国を中心とした世界地図)は、それまで世界の全てであった中国が地球の一部でしかないと言う事を知らしめたという点で、士大夫の世界観に大きな影響を与えた。このように、イエズス会は清代にまで政治・文化の上で大きな影響をもたらした。
文学
前述のようにこの時代には漢詩の分野では見るべきものが少ない。明初には古文辞運動が起こる。宋詩を批判して漢代の文(歴史)・唐代の漢詩がもてはやされるようになり、『唐詩選』が刊行されている。しかしこの時代の詩文はどうかと言うと多くが単なる懐古趣味的な模倣に堕した感がある。
その中で歴史の分野で特筆するべきが李卓吾である。陽明学左派の思想を元にそれまでの朱子学的な歴史観を引っくり返した過激な文章を次々と発表して、明政府に危険視されて捕縛され、最後は獄死した人物である。彼の思想は後世に影響を与えて五・四運動に置いて開放思想として評価された。
その一方で民間における小説の分野では数々の名作が誕生した。『三国志演義』・『水滸伝』・『西遊記』はこの時期に完成したとされる。また戯曲の分野も発展し、「牡丹亭還魂記(ぼたんていかんこんき)」などの名作が作られている。
また永楽帝の命により百科事典『永楽大典』が編纂されて、古今の書物の中から重要と思われる文章が抜き出されて収録された。
美術
元末期、戦乱に明け暮れる他の地方に比べて江南蘇州は張士誠政権の下で繁栄を謳歌していた。ここでは毎日のように文学サロンにおいて漢詩の大会が開かれたり、著名な画人達が腕を競っていた。この中でも黄公望、呉鎮、倪瓚、王蒙の四人の優れた画家を「元末四大家」と呼んでいる。
この流れを引き継いだのが呉派と呼ばれる文人画(民間画壇による絵画)の流派である。この派の代表としては沈周と文徴明がいる。
陶磁器の分野は明代に大きく隆盛し、元から引き継いだ染付や新しい赤絵の技法が開発され、景徳鎮の窯からは大量の製品が生み出され、国内だけは無く海外にも輸出された。特に万暦期の『万暦赤絵』は名品中の名品とされ、現在でも好事家の垂涎の的となっている。ただしこの時期には陶磁器は技術であって美術ではないと見なされていたようである。
永楽帝期には後の清でも皇宮として使われる紫禁城が完成し、現在は故宮博物院として使われており、北京と瀋陽の明・清王朝皇宮として世界遺産に登録されている。
科学技術
明末清初になると、経世致用の学としての考証学が盛んになるなど、実学への関心が高まり多くの実用書が書かれている。前述した徐光啓はマテオ・リッチと協力し、農学書である『農政全書』や、古代ギリシアのユークリッド幾何学の訳書として『幾何原本』などの編著に活躍した。また、アダム・シャールに協力し、西洋暦法(グレゴリウス暦)を取り入れた『崇禎暦書』をまとめる上でも助けとなった。(ただし完成時には徐光啓は死去)。その他、薬学者李時珍による1871種類の薬草・漢方薬を集めた『本草綱目』、地方官宋応星による工芸技術本『天工開物』などが発表された。
国際関係
元代に築かれた空前の交易網の一部を引き継いで、明初に置いても交易が非常に盛んであった。
海上交易と倭寇
陸のシルクロードと海の道(いわゆる海のシルクロード)が元代の交易ルートであったが、明の北西はモンゴルによって抑えられており、このルートを使うことは不可能であった。海の道に対しては1372年、洪武帝により海禁令が出され、民間の交易は禁じられ、政府の交易である朝貢貿易だけが交易と決められた。しかしこの海禁令は交易で生活を立てていた人の激しい反発を招き、密貿易が横行する事になる。
またこの時期は前期倭寇の最盛期でもあり、その被害は大きなものであった。この時代の倭寇は正真正銘の海賊で米穀・奴隷の略奪を行っていた。これに対して洪武帝は日本へ鎮圧を要請する。最初は南朝の懐良親王に要請したが、国書が無礼だと言うので使者が斬られると言う事になった。その後、日本の政権が分裂している実情を知った洪武帝は改めて北朝側である室町幕府の足利義満に対して使者を送り、義満と勘合貿易を行う事を条件に、義満を日本国王に冊封して倭寇の取締りを要請した。
その後、永楽帝が帝位を奪取した1403年にも義満は使者を送り、勘合貿易を継続し莫大な利益を上げ、義満による倭寇の取り締まりに倭寇勢力も衰退し、明の海上は平穏を取り戻した。尚、勘合貿易も基本は朝貢貿易だった。
永楽帝も洪武帝と同じく、海禁令を継続したが、その一方で鄭和を南海大航海に派遣して、南海諸国との朝貢貿易を始めている。その後、勘合貿易の相手は室町幕府から大内氏に変更された。その後の皇帝も何度と無く海禁令の更新を行い、厳しく統制したが、それでも密貿易は止まず、15世紀後半からは大商人は現地の地方官・郷紳層と結びついて密貿易を黙認させていた。しかし密貿易が海賊に転換する事を恐れて、新たに着任した浙江巡撫(長官)の朱紈(しゅがん、紈は糸偏に丸)は密貿易を厳しく取り締まった。しかし、地方官・郷紳層の激しい反発を受けて朱紈は失脚に追いこまれた。
その一方で貧しい沿岸の民衆達が交易に活路を求めた弱小商人たちには人脈も賄賂を送る金も無く、密貿易が出来ないので海賊になる者が増えた。これが後期倭寇である。後期倭寇はほとんどが日本人を装った中国人であり、日本人の割合は1~2割ほどであったらしい。後期倭寇の中で有名なのがこれらの者達をまとめて一大勢力を築き上げた王直である。王直は窮迫した沿岸民衆の世論を集めて明に対して交易の自由化を求め、それが不可能だと分かると五島列島を根拠地として中国の沿岸部を散々に荒らしまわった。
王直は後に政府の策略によって捕らえられ処刑されるが、それでも交易を求める倭寇は後を絶たず、沿岸部への攻撃を何度も行った。1563年に福建を襲ったが、この地の副総督戚継光の活躍により、壊滅的な打撃を蒙った。この期を見て政府も福建の月港に中国商船の海外渡航許認可を行う海防館を設置して、海禁令を廃止したために後期倭寇もこれで下火となり、海上に平穏が戻った。
また1517年には広州にポルトガル使節トメ・ピレスが来航、北京に上京して朝貢を求めたが、ポルトガルに国を奪われたマラッカ使節の訴えにより投獄された。朝貢を拒絶されたポルトガルは寧波沖合いの島で密貿易を行ったりしたが、1557年にはマカオに永続的な居留権を獲得した。明朝は依然として対日貿易を禁止していたため、マカオのポルトガル人は日中貿易の仲介でも活躍した。この時代には中国・日本・朝鮮・南海に渡る交易網が成立し、銀を共通の通貨として様々な人種の商人たちが活躍した。
北方
明にとって最大の脅威はモンゴル勢力であり、北元とオイラトに対しての攻撃と防御を繰り返していた。
洪武帝はモンゴル勢力に対しては防御の姿勢で臨み、南京に都していたのも北から遠ざかりたいと言う意味があったからである。しかし永楽帝はモンゴルに対しての積極政策を臨んで北京に遷都し、モンゴルに対して五度の遠征を行っている。永楽帝以後は基本的にモンゴルに対して利益を与える事で宥める方向へ動いた。
その利益とは朝貢のことで、明とモンゴルとでは明の産物と馬を交換する馬市(ばし)と呼ばれる形態で行っていた。馬は永楽帝期の軍事力拡大期には必要な物であったが、平和策に転じた後ではさほど必要ではなかったが、あくまで平和の代金として買い取っていた。モンゴルからやってくる使者一人ごとに明から報奨金を与える事が慣習となっていた(モンゴルだけではなく、朝貢は全てそういう慣習がある。)
オイラトのエセンは使節の人数を増やし、また役に立たない馬も交易の中に含めるなどして交易の利益の増大を図った。またモンゴルのダヤン・アルタンは馬市の回数をもっと増やすように求めた。このような要求は明にとって基本的に不利益なので、拒否しようとしたが、その時にはモンゴル・オイラト達は明の領内に侵攻して、武力を用いて自分達の要求を通した。土木の変や庚戌の変はこう言った事に基づいており、明を滅ぼそうと考えていた訳ではない。
その後のモンゴル勢力は内部抗争により勢力を減退させ、それに変わって台頭してきたのが満州の女真である。永楽帝は満州に対しても遠征軍を送り、この地を支配下に置く一方で同じく女真支配を画策していた李氏朝鮮に圧力を加えてその北進を禁じた。その後の宣徳帝期にこの地を放棄して間接支配に切り替えた。その方法は女真族のそれぞれの部族長一人一人に対して朝貢の権利を認める文書を発行する事で、互いの間で文書の奪い合いを目的とした対立を醸成し、抗争を起こさせる事で一致団結して明に反抗することを封じると言うものである。この対策は上手くいき、女真の間での抗争は極めて激しいものとなった。しかし万暦期の遼東司令官李成梁の不手際によりヌルハチの台頭を見逃し、女真の統一が為された。これ以降、明は女真改め満州族による強力な攻撃を受けることになる。
西方・南方
明が成立した頃、西方ではティムールが各地を征服して大帝国ティムール朝を築き上げていた。ティムールは晩年になり、中国遠征を試みるが途上で病死し、これ以降のティムール朝は分裂して弱体化し、明は西方に対しては脅威を感じずにすんだ。
南のベトナムに対しても永楽帝は遠征軍を送り、一時直轄としたが、永楽帝死後は反抗が強くなったので放棄して黎朝が建った。


  明朝是中国历史上最后一个由汉族建立的封建王朝。完整的明王朝包括西吴时期(1364年-1368年),明朝时期(1368年-1644年),南明时期(1644年-1662年)及明郑时期(1662年-1683年)。
  蒙元统治日益残暴黑暗,元顺帝统治时期,爆发了红巾军起义。朱元璋参加了红巾军,他南征北战。1364年,朱元璋自称为吴王(史称西吴政权);1368年,朱元璋称帝,以应天府为京师,国号大明,年号洪武,建立了明朝。朱元璋就是明太祖。
  明朝共传十九位皇帝(包括南明三帝)。明朝的领土曾囊括今日内地十八省之范围,并曾在今东北地区、新疆东部等地设有羁縻机构。明初以应天府(今南京)为京师,明成祖朱棣在位时以顺天府(今北京)为京师,应天府改为留都。
  明朝初年国力强盛,北进蒙古,南征安南。明英宗幼年即位时,朝中有“三杨”杨溥、杨士奇、杨荣主持政局,‘海内清平’。至正统七年,宦官王振开始擅权;正统十四年发生土木堡之变,永乐以来的军事优势遭到破坏,但景泰皇帝任用于谦击败瓦剌,保卫了国土。弘治时期是明朝政治作为清明的时期,历史上称为"弘治中兴"。正德、嘉靖朝始逐渐中衰,社会矛盾萌发,并面临蒙古、倭寇两大外患。明神宗万历朝初期在名相张居正的辅政之下曾一度中兴。后世计当代朝廷岁收,明朝的经济规模可称世界第一。惟至万历朝中期始,皇帝怠政,官员腐化,关外女真叛乱,明朝开始走向衰亡。天启年间阉党专政加快了这一进程的发展。至崇祯年间,多处爆发民变,后金军队也突破长城,五入关内。公元1644年,李自成率军攻占北京,崇祯帝自缢。公元1662年,降清明将吴三桂将永历帝绞杀于云南昆明,但由郑氏集团在台湾建立的明郑政府继续沿用永历年号,直到1683年降清明将施琅进攻台湾,郑克塽剃发降清。
  明朝的经济文化在历史上属于较发达的阶段。明朝早期君主集权强化,皇帝大权独揽。但是在明宣宗以后,皇权开始削弱,权力在内阁与宦官之间争夺。从明朝开始,西方伴随着文艺复兴、地理大发现和宗教改革,在世界的地位逐渐与东方平起平坐。同时,西学也随着一批传教士来到中国,为东西文化的交流开辟了窗口与机会。
明朝的前身——西吴时期(1364-1368)
  元朝末年,政局腐败,对汉民族的压迫空前残暴。国库也日渐空虚。为了弥补财政亏空,蒙元政府除了加重赋税以外,还发行新钞“至正宝钞”并大量印制,致使严重的通货膨胀,导致民不聊生。1351年,元顺帝征调农民和兵士十几万人治理黄河水患。黄河两岸农民本已饱受灾荒之苦,在治河工地上又横遭监工的鞭打,被苛扣口粮,非常愤怒。于是,“治河”和“变钞”就成为民变的导火线,导致红巾军起义的爆发。

  1351年5月,韩山童、刘福通领导的红巾军起义爆发。次年,郭子兴响应,聚众起义,攻占濠州(今安徽凤阳)。不久,贫苦农民出身的安徽凤阳人朱元璋投奔郭子兴,屡立战功,得到郭子兴的器重和信任,并娶郭子兴养女马氏为妻。之后,朱元璋离开濠州,发展自己的势力。1355年,刘福通立韩山童之子韩林儿为帝,称小明王,国号大宋,年号龙凤,以亳州为都城。郭子兴病故后朱元璋统率郭部,任小明王韩林儿的左副元帅。1356年,朱元璋率兵占领集庆(今江苏南京),改名为应天府,并攻下周围一些军事要地,获得了一块立足的基地。此时的朱元璋“地狭粮少”、“孤军独守”,远不及其他起义军势力,处境十分艰难。朱元璋采纳了谋士朱升“高筑墙,广积粮,缓称王”的建议,经过几年努力,朱元璋军事和经济实力迅速壮大。1360年,通过鄱阳湖水战,陈友谅势力遭到巨大打击。1361年,小明王封朱元璋为吴国公。1363年,陈友谅势力被完全消灭。1364年朱元璋自称吴王,史称西吴王,与位于平江(今江苏苏州)的东吴王张士诚相区别。1366年小明王沉于江中溺死。1367年,朱元璋攻下平江,张士诚自尽,之后朱元璋又消灭割据浙江沿海的方国珍。1368年正月,朱元璋在应天称帝,建立了明朝,之后趁蒙元内斗之际进行北伐和西征,同年攻占大都(今北京),元朝撤出中原。之后朱元璋继续消灭位于四川的明玉珍势力和据守云南的元朝梁王。又深入沙漠,进攻北元。天下至此初定。 初年的强盛(1368-1436)
洪武时期
  明朝建立后,朱元璋一方面减轻农民负担,恢复社会的经济生产,惩治贪污的官吏,收到一定的效果。朱元璋确立了里甲制,配合赋役黄册和鱼鳞图册的施行,落实赋税劳役的征收及地方治安的维持。朱元璋平定天下后,大封功臣。但是朱元璋性格多疑,也对这些功臣有所猜忌,恐其居功枉法,图谋不轨。而有的功臣也越过礼法,为非作歹。朱元璋藉此两兴大狱,即“胡蓝党狱”,几乎将功臣全部诛杀。
  廖永忠是最先被杀害的功臣。朱元璋杀其的原因名为超越礼制,实为其当年是朱元璋谋杀小明王韩林儿的执行者(有一说法小明王死于意外,事实如何已不可考)。此后,朱元璋又借大将军蓝玉张狂跋扈之名对其诛杀,连坐被族诛的有一万五千余人。加上空印、郭桓两案,开国功臣除了汤和外几乎全部被杀。朱元璋通过打击功臣、特务监视和文字狱等一系列方式加强皇权,打击贵族阶层,造成了明初期思想控制的强化,为明中期以后新兴思潮与旧势力的斗争埋下伏笔。
靖难之役与永乐时期
  朱元璋分封诸子为藩王,以加强边防、保卫皇位。藩王之中,北方藩王势力较强,主要是对蒙古的边防任务。又尤以燕王朱棣和晋王势力最大。为防止朝中奸臣不轨,朱元璋规定藩王可移文中央捉拿奸臣,必要时得奉天子密诏,领兵“靖难”。同时为防止诸王尾大不掉,朱元璋也允许今后的皇帝在必要时可下令“削藩”。
  朱元璋死后,皇太孙朱允炆继位,是为惠宗,年号建文。建文帝立刻与亲信大臣齐泰、黄子澄等密谋削藩。周王、代王、齐王、湘王等先后或被废为庶人,或被杀。同时以边防为名调离燕王的精兵,准备削除燕王。结果燕王朱棣在姚广孝的建议下以“清君侧”的名义,打着“靖难”的旗号起兵南下,最终占领了南京,建文帝在宫城大火中下落不明。朱棣胜利,靖难之役告终。朱棣称帝,他就是明成祖,明成祖废除建文年号,改年号永乐。
  朱棣即位之后,武功昌盛,先是出击安南。后又亲自五入漠北攻打蒙古以绝后患。在内政上,朱棣下令编写《永乐大典》。在三年时间内即完成。《永乐大典》有22877卷,又凡例、目录60卷,全书分装为11095册,引书达七八千种,字数约有三亿七千多万,且未有任何删节。永乐三年始,朱棣派郑和七下西洋,规模空前,扩大了明朝的影响力。永乐三年,朱棣将北平改名北京,称行在,并设立北京国子监等衙门。永乐四年,他下诏在北京修建宫殿。1409年,朱棣巡幸北京,在北京设立六部与都察院,并在北京为逝世的徐皇后设立陵寝,已经显示迁都的迹象。经过十几年的经营,北京初步得到了繁荣。1416年,朱棣公布迁都的想法,得到认同。永乐十五年开始大规模营造北京,永乐十八年宣告完工,永乐十九年正式迁都。
  但是永乐帝同样对异议者大肆杀戮,诸如黄子澄、齐泰等建文旧臣等都被杀。其中以方孝孺的“诛十族”和景清的“瓜蔓抄”最为惨烈。
仁宣之治
  明成祖死后,太子朱高炽即位,他就是明仁宗。明仁宗下诏停止了郑和下西洋和对外战争,以积蓄民力。更鼓励生产,宽行省狱,力行节俭。明仁宗死后,长子朱瞻基即位,他就是明宣宗。宣宗基本继承了父亲的路线,实行德政治国,国家进一步强大。在这一时期打破了太祖留下的太监不得干政的规矩,一些太监开始干政,为英宗时期的太监专权埋下隐患。
中期的兴衰(1436-1573)
土木之变与英宗复辟
  1435年,9岁的明英宗朱祁镇继位,宠信宦官王振。自此开始明朝的宦官严重专权行为。王振原为教官,后净身入宫,服侍英宗左右。英宗即位后,对其宠信有加。在太皇太后及元老重臣“三杨”死后,王振更加专横跋扈,更将明太祖留下的禁止宦官干政的铁牌撤下。举朝称其为“翁父”。王振擅权七年,家产计有金银六十余库,其受贿程度可想而知。
  正统初年,蒙古瓦剌部逐渐强大,经常在明朝边境一带生事。瓦剌首领也先在正统十四年的七月南下攻明。王振即挟英宗领兵五十万亲征。大军离京后,兵士乏粮劳顿。八月初大军才至大同。王振得报前线各路溃败,惧不敢战,又令返回。回师至土木堡时,被瓦剌军追上,兵士死伤过半,随从大臣有五十余人阵亡。英宗突围不成被俘,王振被护卫将军樊忠打死,此即为土木之变。
  土木之变的消息来到京师后,朝中混乱。一些大臣要求迁都南京,被兵部侍郎于谦驳斥。继而大臣拥戴英宗弟朱祁钰即位,是为代宗,改元景泰。同时于谦积极备战。同年十月,瓦剌军直逼北京城下,安置英宗于德胜门外土关。瓦剌军队的进攻未果,大败逃走。也先见继续绑架英宗已无意义,乃于1450年八月释放英宗。但之后,皇室内斗。景泰帝先是不愿遣使迎驾,又把英宗放在南宫(今南池子)软禁,并废皇太子朱见深(英宗之子,后来的宪宗),立自己的儿子朱见济为太子。不久之后,朱见济病死,景泰帝也迟迟不恢复朱见深为太子(景泰帝无他子)。景泰八年正月,景泰帝病危。十六日,副度御史徐有贞率军夜入南宫,拥戴英宗夺门(东华门)复位。又杀害于谦及大学士王文,诬陷其欲立襄王之子为帝。此为夺门之变,又号“南宫复辟”。
宪宗时期
  英宗死后,儿子朱见深即位,是为宪宗。初年为于谦冤昭雪,恢复代宗帝号。又能体谅民情,励精图治,俨然为一代明君。琉球、哈密、暹罗、土鲁番、撒马儿罕等国纷纷入贡。但是宪宗在位末年,好方术,终日沉溺于后宫与比他大19岁的宫女万贵妃享乐,并宠信宦官汪直、梁芳等人。宪宗还开始了皇帝直接颁诏令封官的制度,是为传奉官。结果传奉官泛滥,舞弊成风。直到孝宗时期这些官员才全被裁撤。宦官汪直受到宪宗的宠信,张狂跋扈,透过西厂大肆冤杀普通民众与官员。不久后由于民愤四起,西厂被罢,但汪直依然握有大权。成化十八年,汪直才因言官弹劾而被贬。
弘治中兴
  宪宗死后,孝宗朱佑樘(chēng)即位。由于孝宗自幼生于微寒,所以孝宗在位期间“更新庶政,言路大开”,使英宗朝以来奸佞当道的局面得以改观,被誉为“中兴之令主”孝宗的励精图治,被称为弘治中兴。虽末年宠信宦官李广,但是立刻改过自新,历代史学家对他评价极高。 孝宗在位期间,先是将宪宗期间留下的一批奸佞冗官尽数罢去,逮捕治罪。并选贤举能,将能臣委以重任。孝宗勤于政事,每日两次视朝。孝宗对宦官严加节制,特务部门也只能谨慎行事,用刑宽松。孝宗力行节俭,不大兴土木,减免税赋。并饯行一夫一妻制,一生除了张皇后外没有任何妃嫔。在他的治理下,弘治一朝成为明朝中期以来的最好形势,明史也称孝宗“恭俭有制,勤政爱民”。
武宗乱政
  弘治十八年五月,孝宗病死。十五岁的太子朱厚照即位,是为武宗,以次年为正德元年。武宗本性贪图享乐,整日与内臣沉湎于声色犬马之中。刘瑾、马永成、谷大用、魏彬、张永、丘聚、高凤、罗祥等八位过去的东宫宦官相互勾结,是为“八虎”。八虎想尽办法奉迎阿上,导引皇帝逸乐,残害忠良,朝政为其所害。八虎之中的刘瑾独揽大权,将自己的党羽延揽入阁,还想方设法满足武宗的玩乐需求,建造豹房供其淫乱。但是刘瑾的专权也引发了朝中大臣一其它“七虎”的不满。最终刘瑾被判凌迟3357刀处死。但是,武宗依然不思朝政,又开始信用佞臣江彬。
  武宗的荒游逸乐导致正德年间变乱频生,先后发生陕西安化王朱寘鐇谋反、山东刘六、刘七民变、江西宁王朱宸濠谋反等重大事件。正德十五年,武宗在征讨朱宸濠班师回京途中,于南直隶清江浦(江苏淮安)泛舟取乐时落水染病。正德十六年三月武宗去世。不久之后江彬就被抄家处死。
嘉靖隆庆二朝
  武宗无子嗣无兄弟。死后由孝宗弟兴献王长子朱厚熜即位,是为世宗。世宗在位期间,罢黜各地镇守太监。但是大礼仪事件严重损害了朝政:世宗要求尊父为兴献皇帝,母为兴献皇后。但内阁首辅杨延和、礼部尚书毛澄等坚持以为不可。但是也有一些大臣纷纷迎合帝意。世宗在这些人的助长下蔑视礼法,不仅尊其父母为皇帝和皇太后,又为父亲在太庙旁专立一庙祭祀,成为献皇帝庙。又称父亲为睿宗,在武宗之上,还为父亲修皇帝实录。此为大礼仪事件。大礼仪引起轩然大波,朝臣中反对者均受打击,或被罢官,或被入狱。受杖者一百八十余人,杖死者十七人。同时,世宗奉道教,信用方士,在宫中日夜祈祷。先是将道士邵元节入京,封为真人及礼部尚书。邵死后又大宠方士陶仲文。自嘉靖十三年后世宗即不视朝。
  嘉靖去世后,唯一存活的皇子朱载垕即位,是为穆宗,号隆庆。穆宗本人无能,但他任用能臣如高拱、徐阶、张居正等,内政形势总体较佳。也为万历初年的中兴奠定基础。嘉靖一朝,国家外患不断。北面鞑靼部趁明朝衰弱而占据河套。1550年,鞑靼首领俺答进犯,在北京城郊大肆抢掠之后西去,明军在追击中大败,此为庚戌之变。但之后,明朝与蒙古通好,俺答被封为顺义王。在南部海疆, 倭寇横行,后为戚继光、胡宗宪、俞大猷剿灭。
后期的衰亡(1573-1644)
张居正变法
  隆庆六年,明穆宗突然中风驾崩,子朱翊钧继位,是为神宗,元万历。由于神宗年幼,于是由太后摄政。重臣高拱由于与太后信任的宦官冯保对抗而被罢官,相反张居正得到冯保的鼎力支持。
  张居正辅政十年,推行改革,在内政方面,提出了“尊主权,课吏职,行赏罚,一号令”,推行考成法,裁撤政府机构中的冗官冗员,整顿邮传和铨政。经济上,清丈全国土地,抑制豪强地主,改革赋役制度,推行一条鞭法,减轻农民负担。洪武廿六年,全国耕种田地有八百五十万零七千六百卅二顷。到了弘治十五年降低到四百廿二万八千零五十八顷。而万历九年经过张居正的治理后达到七百零一万三千九百七十六顷。军事上,加强武备整顿,平定西南骚乱,重用抗倭名将戚继光总理蓟、昌、保三镇练兵,使边境安然。张居正还启用潘季驯治理黄河,变水患为水利。同时张居正严惩贪官污吏,裁汰冗员。
  万历初年呈现出明代中叶以来最好形势。 张居正逝世之后,中兴之象消失,明朝从此走上了衰败之路。
万历
  张居正死后初期,神宗尚能保持对朝政的兴趣,但不久就开始怠政。万历十四年后,神宗就开始连续不上朝。万历十七年元旦后,神宗以日食为由免去元旦朝贺。此后每年的元旦神宗再也不视朝。自万历十六年后,常朝也经常看不到神宗。神宗整日在深宫中不理政事,沉浸在花天酒地之中。每年还进行选美。神宗还好营建,经常大兴土木。在他廿一岁时就开始筹建陵园。万历十七年,大理寺左评事雒于仁上疏,称神宗沉湎于酒、色、财、气。结果被贬为民。神宗还派矿监和税监搜刮民间财产。由于神宗不理朝政,缺官现象非常严重。万历卅年(1602年),南北两京共缺尚书三名,侍郎十名;各地缺巡抚三名,布政使、按察使等六十六名,知府廿五名。神宗委顿于上,百官党争于下,政府完全陷入空转之中。官僚队伍中党派林立,互相倾轧,如东林党、宣党、昆党、齐党、浙党等名目众多,但其所议议题却不是如何改良朝政,只是人事布局而已。因此明史言:“论者谓:明之亡,实亡于神宗。”
  神宗在位期间另外两项严重败坏朝纲的事件是东林党争和国本之争。东林党源于顾宪成组办的东林书院。东林党一词则起源于万历卅八年的一次人事变动事件。起因是内阁缺人,顾宪成极力主张颇有政绩的淮扬巡抚李三才入阁,结果被反对李三才入阁的势力摸黑漫骂,东林党因此而起。东林党兴起后,朝中其它各党便集中火力攻击东林党。阉党专权后,东林党更受到严重打击。直到崇祯初年东林党才重新被启用。
  另外一项政争是国本之争。主要是围绕着皇长子朱常洛与郑贵妃所生的福王朱常洵。神宗迟迟不立太子,令群臣忧心如焚。朝中上下也因此分成两个派别。直到万历廿九年,朱常洛才被封为太子,朱常洵被封为福王。但是福王迟迟不离京就任藩王。直到梃击案发生,舆论对郑贵妃不利后,福王才离京就藩。
  在对外军事方面,包括在万历二十年援助李氏朝鲜抵抗日本侵略的壬辰倭乱在内的万历三大征都取得了胜利,但损兵折将极大。万历四十六年,后金努尔哈赤以“七大恨”发动叛乱,次年在萨尔浒之战中大败明军,明朝对女真从此转为战略防御。
明末三大案
  “明末三大案”指明朝末期宫廷中发生的梃击案、红丸案、移宫案的总称。这三起事件本身并不是很重要,但是却标志着明末纷乱和衰亡的开始,故有“三大案”之称。
  1. 梃击案
  梃击案发生于万历四十三年五月初四。一位名叫张差的男子手持木棍闯入皇太子居住的慈庆宫并打伤守门宦官李鉴,后被捕。后经审问,显示郑贵妃与此案有关。由于当时审案人员都是浙江籍人士,而当时的浙党领袖方从哲与郑贵妃关系良好,因此颇受人质疑。结果当时的陕西籍刑部主事秘密审讯了张差,结果招出郑贵妃与此确有关系。郑贵妃见东窗事发,哀求皇太子。皇太子也请求皇帝快速了结,加之神宗宠信郑贵妃,除了张差被处决外,此案不了了之,一些主张继续追查的官员事后都受了轻重不等的处分。
  2. 红丸案
  光宗是太子之时,就宠爱两名李氏选侍,分别为“东李”和“西李”。其中西李最为得宠。郑贵妃与西李暗中交结,郑贵妃向光宗提请西李为皇后,西李提请郑贵妃为皇太后,后因大臣反对而作罢。光宗因过度纵欲,即位五天后就得了腹泻之疾。光宗服用了一位与郑贵妃关系密切的太监崔文升所进的药物,结果病情加剧。西李以侍奉为由入住光宗寝殿。八月廿九日,鸿胪寺丞李可灼献上一颗红丸,光宗服后获得暂时的舒适。黄昏后再食一颗,到半夜去世。此即为红丸案。结果,朝中谣言遍起。李可灼被罚回乡养病。更有大量弹劾奏章要求罢免方从哲。天启二年四月,朝中又发生了对于红丸案的争论。最后方从哲仍然没有判罪,而崔文升被贬放南京。
  3. 移宫案
  光宗去世后,西李据守乾清宫,与心腹太监魏忠贤要挟皇太子。李氏还要求官员要先将奏章给她看,再给朱由校看,导致强烈反弹。群臣也因此联合要求西李移宫。在群臣催促下,西李不得不移出乾清宫。结果四年后,熹宗又封西李为康妃,次年更颁布《三朝要典》,颠倒三大案的黑白。
党争
  熹宗由于幼年丧母,对乳母客氏有特殊感情,客氏也不知自己,与宦官魏忠贤狼狈为奸。魏忠贤因为在一次赌博中输钱而自宫,改名为李进忠,入宫为宦官。后皇帝赐他恢复原姓,并恢复旧名忠贤。魏忠贤善于逢迎拍马,加上与客氏互相勾结,一路快速升迁,还成为秉笔太监。
  熹宗即位早期大量启用东林党人,结果导致东林党与其它党斗争不断,熹宗因此对朝政失去耐心,魏忠贤借此机会干预政治,将反对东林党的势力集结,号为阉党。天启四年后,阉党控制了内阁。自此之后魏忠贤更加张狂,其爪牙遍布中央与地方。在其权势最盛时,其养子竟能代替皇帝祭太庙。全国遍布他的生祠,并号为九千岁。更有国子监生提出魏忠贤配孔子,魏忠贤父配启圣公。魏忠贤并大肆打击东林党,大量东林党人入狱,甚至处死。由于阉党水准低下,政理不修。国家内部饥荒频传,民变不断,外患持续,明朝已经陷入风雨飘摇之境地。
内忧外患
  天启六年,熹宗在西苑游玩时不慎落水,一年后死去。接替熹宗的是信王朱由检,是为思宗,年号崇祯。他即位后,锐意改革朝政。他首先下令停建生祠,又逼客氏移居宫外。时机成熟后,崇祯帝下令魏忠贤去凤阳守陵。魏忠贤在前去过程中得知被崇祯帝已派锦衣卫来逮捕他,便与党羽李朝钦一起自缢。崇祯帝将其首级悬于河间老家。同时将客氏押到浣衣局处死。阉党其它分子也被贬黜或处死。阉党专权虽然结束,但其后朝中又党争不断,崇祯帝对朝政又开始失望。并加强集权,控制百官,信用宦官。
  1629年(崇祯二年)10月,皇太极由蒙古人做向导亲率大军,通过喜峰口,从龙井关突破长城,攻陷遵化、滦州、永平、迁安四座城池。直逼北京,明王朝岌岌可危。袁崇焕闻讯本应将来犯之敌阻挡在蓟州至通州一线,但他只是率兵跟蹑,赶到河西务时,又不顾将领反对,率部前往北京。袁崇焕如此之举,引起戚畹中贵的极度不满,纷纷向朝廷告状:袁崇焕名为入援,却听任敌骑劫掠焚烧民舍,不敢一矢相加,城外园亭庄舍被敌骑蹂躏殆尽。 同年12月,崇祯帝在万般无奈的情况下紧急诏令天下兵马进京勤王。
  1630年(崇祯三年),帝以“咐托不效,专恃欺隐,以市米则资盗,以谋疑则斩帅”等罪名将袁处死。同年,后金大军直抵北京城外,明廷大震,但勤王各镇兵马却自保不前,无人敢带头出战。见此状况,重庆女总兵秦良玉挺身而出,率领“白杆兵”主动向八旗军发起进攻。在北京永定门外,皇太极派出最精锐的多尔衮铁骑军迎战秦良玉部。这一仗,秦良玉率白杆兵在孙承宗等老将的配合下战胜铁蹄骑兵。之后,秦良玉又趁风雪之夜成功偷袭皇太极大本营。迫使雄心勃勃的皇太极不得不连弃滦州、永平、迁安、遵化四城,无功而返,退出关外。
  1640年清军攻打锦州,崇祯帝派洪承畴带八路总兵率十三万大军出关援锦州,在松山大战清军,是为“松锦大战”。结果明军败,洪承畴投降。关外辽东地区至此基本全数沦陷。
  1636年,李自成接替高迎祥成为新闯王。1641年,李自成攻陷洛阳,杀死福王朱常洵。1643年十月年李自成攻破潼关,十一月占领西安。另一支张献忠领导的农民军主要在南方发展,先是控制了湖广地区,之后又改进攻四川,是为大西政权。1644年李自成在西安宣布建国,国号大顺,年号永昌。崇祯十七年三月,农民军攻陷大同、宣府、居庸关。十八日,农民军攻克北京外城。次日凌晨,崇祯帝在北京煤山自缢。
江南半壁——南明时期(1644-1662)
弘光政权
1644年四月廿一日,李自成亲率部队与吴三桂在山海关外的一片石大战,但由于清军参战,李自成大败。四月廿九日,李自成在武英殿匆匆即皇帝位,深夜便焚烧宫殿与九门城楼,向西撤退。之后,农民军接连内讧,战斗力大损,与清军交战时也连连失败。五月初二,清摄政王多尔衮进京。为安抚汉人笼络民心,多尔衮下令礼葬崇祯,臣民服丧三日。八日,顺治进北京。北京开始成为清朝的都城。而南京是明朝的留都,在南京明朝设有形式上的基本的政府机关。1644年五月初三日,崇祯皇帝的堂兄弟朱由崧被推为监国。十二天后,朱由崧即皇帝位,是为安宗,以次年为弘光元年。弘光政府内斗不断,内部由阉党余孽专权,实行“联虏平寇”的错误国策,弘光帝也不理政事沉湎在酒色。清军一路南下,攻克中原,很快就到了史可法镇守的扬州城,史可法死守七日七夜,城破,史可法被杀,清军随后在扬州进行整整十日的大屠杀,史称扬州十日,死难者达80万。之后,清军渡江,攻破南京。弘光皇帝被俘,押解到北京,次年被杀于北京宣武门外的柴市。清军占南京后,又接连攻克苏州、杭州、松江、常州等江南大部,下令剃发,引发了汉族群众的强烈反抗,先后发生了“嘉定三屠”和“江阴八十一日”等抗清事件,但都被清军绞杀。
隆武政权
弘光政府覆灭后,鲁王朱以海即位监国于绍兴,唐王朱聿键称帝于福州,是为绍宗,年号隆武。隆武帝是南明时期最有作为的一位皇帝,励精图治,关心百姓疾苦,一洗前人弊端,基本国策改以“御虏”为主,但被拥立其继位的郑氏集团架空,处处受制于郑芝龙。1646年二月(隆武二年二月),清军开始征伐福建与浙江。六月,鲁王兵败,漂泊海上。八月,隆武帝与清朝追兵搏斗时被乱箭射杀于汀州城衙的大堂上(一说被俘杀),十一月,郑芝龙降清,隆武政府亡。
永历政权
隆武政府灭亡之后,隆武帝之弟朱聿鐭称帝于广州,年号绍武,仅40天即被清军俘虏绝食而死;与之同时,桂王朱由榔称帝于广东肇庆,是为昭宗,改元永历。永历政权与已经被击溃的张献忠李自成残部联合抗清,一度收复湖南全境;郑成功则坚持在东南沿海地区进行抗清活动,奉永历为正朔,一度攻克过漳泉二府。但永历三年后,清军大兵压境,湖南再度沦陷。永历四年,清军攻克广州与桂林。永历帝被迫退守南宁。永历五年,孙可望迎永历帝入贵州安隆所,并进攻四川,一度收复了四川大部。李定国也进攻广西,攻克桂林,直捣长沙,还进军广东收复了两广失地。但是,李定国、孙可望两名将领内部不和。永历九年,郑成功退守厦门金门两地。永历十一年,孙可望勾结清兵大规模进攻云南;此时郑成功被永历帝封为延平郡王,同时郑成功带领水军向舟山群岛进发。永历十三年,清军三路入滇,永历帝逃往缅甸;此时郑成功进入长江,攻占下瓜洲、镇江、江浦等地,直抵南京城下,将南京团团围住,结果中清军缓兵之计被清军击败,不得不回到闽南大本营。清顺治帝趁机派达素集中广东、福建、浙江三省兵力攻打金厦郑成功的军队。1661年(永历十五年)2月郑成功炮毙清顺治帝于厦门思明港,清军败退;此时清军入缅,逼迫缅甸政府交出永历帝。1661年3月郑成功派儿子郑经留守金厦,自己攻打被荷兰占领的台湾,经过九个月的苦战于次年二月复台。1662年(永历十六年),永历帝被降清明将吴三桂绞杀于云南昆明。同年,李定国病死于猛腊,郑成功病逝于台湾。
最后的余波——明郑时期(1662-1683)
永历帝被害后,全国大规模的抗清活动就只有夔东十三家抗清与郑成功在台澎金厦抗清了。李自成余部在湖南抗清失败后,转移到川、鄂山区进行活动,在夔州府以东地区继续抗清,史称夔东十三家。1662年清军开始对其进行绞杀,1664年,夔东十三家军抗满失败,首领李来亨全家自焚。1662年6月郑成功病逝后,郑经从厦门来到台湾接手经营,并仍旧沿用永历年号。1663年清朝与荷兰联手进攻金门与厦门,金厦两岛陷,郑经便撤退台湾,在陈永华的辅政下,抚土民、通商贩、兴学校、进人才、定制度,境内大治。1673年三藩之乱爆发,郑经接受靖南王耿精忠请援,率军东渡福建。郑经先调遣兵万人、船百余艘先行,至厦门,耿军派人往接,军容未如早年壮盛,甚轻视之,耿精忠甚悔。郑经收回厦门后,并收漳州、泉州与潮州三府,进而攻下广东惠州。郑经亲自率兵西征,并请耿精忠如约拨船及地方安插兵士。耿精忠不答,双方开始交恶。后来,广东平南王尚可喜、福建靖南王耿精忠相继为清军所平定,云南平西王吴三桂亦败亡,郑经势力败退仅能守住厦门,1680年满清将万正色遣人游说郑军水师副总督朱天贵(原为耿精忠部将)率舰300艘,将士2万余人降清,郑经放弃厦门并班师回台,之后沉迷于酒色。1681年郑经病殁,遗命郑克臧嗣位,冯锡范毒害郑克臧,拥立其婿郑克塽,独揽大权。清康熙帝趁郑氏政权内部爆发内讧,以降清明将施琅为水师提督着手征讨台湾。1683年(永历三十七年),施琅大败刘国轩攻克澎湖,给台湾造成极大的军事压力,结果郑克塽剃发降清,明朝最后一股抗清势力覆灭。
疆域和政区
明朝疆域
  明朝疆域在嘉靖以前大体上是“东起朝鲜西据吐番,南包安南北距大碛,东西一万一千七百五十里,南北一万零九百四里。1000万平方公里.南海的“千里长沙,万里石溏”尽入版图。其声教所讫,岁时纳贡,而非命吏置籍,侯尉羁縻者,不在此数。呜呼盛矣!(《明史·地理志》)
   明朝初年,多次对蒙古用兵,并在与蒙古边境一带设置四十余个卫所防卫,包括东胜卫、云川卫、官山卫、全宁卫、老哈河卫等,这些都是明朝的边防重地。其走向大致为阴山-大青山南麓-西拉木伦河一线。15世纪后,由于天气转寒,农耕不济,加上边塞军队被燕王抽调参与靖难之战。因此边境略有南移。在永乐期间,明成祖多次北伐,边境形势一度改观。但在明朝中期以后,随着蒙古的再次强大,明边再次南迁。并修建长城(当时名为边墙)以防御蒙古,在长城沿线设置九边(辽东、蓟州、宣府、大同、延绥、宁夏、甘肃、太原、固原)重镇加强防御。长城也成为明朝中后期的北边,同时也是农耕区与游牧区的界线。
  朱元璋设置辽东都司以经营辽东以及东北。并多次进军黑龙江流域,招抚女真部落,明朝势力一度达到黑龙江口与库页岛。1409年设置奴儿干都司,明朝军队全部退守辽东,此后到明朝灭亡,甚至连松花江流域也未到过,将东北防务交与隶属明朝的东北少数部族。奴儿干都司共辖130多个卫所,1434年废弃之。正统年间后,蒙古兀良哈与建州女真部南迁,不断侵犯辽东都司。1469年(成化五年),明政府修建辽东边墙。16世纪末开始,建州女真酋长努尔哈赤开始崛起,统一女真部,明朝设置的卫所遂渐消亡。1616年奴尔哈赤称帝,建国后金。1619年萨尔浒之战后,后金军队破辽东边墙,占领辽东都司大部土地。洪武时期,明朝西北疆界达到今新疆东部哈密地区,并设置一系列卫所。15世纪后,西北吐鲁番与青海蒙古部日益强大。1472年,哈密卫城一度被吐鲁番攻破,卫内迁,后复,1514年再度被并。15世纪后半期后,西北诸卫全部丧失,明朝退守嘉峪关。
  1381年明朝才将西南地区完全划入疆域。并设置一系列土司、宣尉司管辖之,边界达到缅甸中北部、老挝北部、泰国北部一线。但后期这些地区多被周遍国家所并。1406年明军进攻安南,南限达到日南州一带。次年设置安南布政使司,下设十五府、卅六州、两百余县。后因当地人民反抗激烈,明朝政府于1427年放弃,安南恢复黎氏王朝。1624年荷兰殖民者进入台湾南部,筑热兰遮城。1626年西班牙殖民者进入台湾北部。1642年荷兰赶走西班牙,占领台湾大部。1661年郑成功进攻台湾,次年驱走荷兰人,开始统治台湾。1553年葡萄牙获得在澳门停泊船只权,1557年取得居留权。但明政府对葡萄牙人进行行政管理,依然拥有澳门的主权。
明朝行政区划
  明初曾沿袭元朝的行省制,但后来深感不便,于是进行改革。1376年(洪武九年)改行省为承宣布政使司,但习惯上仍称“省”。1370年于各省设置一都卫,1375年改为都指挥使司。1428年弃安南后,明朝在全国设置两京十三使司,包括京师(北直隶)、陕西、山西、山东、河南(以上为北五省)、南京(南直隶)、浙江、江西、湖广、四川(以上为中五省)、广东、福建、广西、贵州、云南(以上为南五省)。明代一共设置16都司、5行都司、2留守司。其中十三个是与布政使司同名的的都司,其它三个是万全都司、大宁都司和辽东都司。五行都司是陕西(治甘州卫,今张掖)、四川(治建昌卫,今西昌)、湖广(治郧阳卫,今湖北郧县)、福建(治建宁府,今建瓯市)、山西(治大同府)。两留守司是洪武年间设置的中都留守司(今凤阳)和嘉靖年间置于承天府(今湖北钟祥)的兴都留守司。此外,在政教合一的青海、西藏地区设置有乌思藏都司、朵甘都司(实际控制为当地宗教首领八大法王分辖各政教中心的寺院,还有各诸侯家属封地),另有置于今甘肃、青海交界地区的哈密、曲先等卫,以上均属羁縻性质,与内地的都司、行都司性质不同。
  明朝实行一省分置都、布、按三司的制度,原为防止地方权力集中。宣德后开始派部(六部)、院(都察院)大臣以总督和巡抚的名义督抚地方行政。景泰朝之后成为各省常制。总督主要署理军务,分短期与长期两种。巡抚主理民政,每省皆有,有的一巡抚辖两布政使地,如正统年间和山西河南巡抚。有的一省一巡抚。有的一省几巡抚。如北直隶有顺天巡抚(驻遵化)、保定巡抚(驻真定,今河北正定)、宣府巡抚(驻宣府镇,今河北宣化,一度兼领山西大同府)三巡抚;南直隶有两巡抚:应天巡抚(驻苏州府,今江苏苏州)、凤阳巡抚(驻淮安府,今江苏淮安楚州)。有的在几省交界处设置一巡抚,如南赣韶汀巡抚就越江西、广东、福建三省。
  明代的行政区划设置大体符合山川形便之处,但仍有一些不合理之处。如南直隶就地跨淮北、淮南、江南三个地区。而嘉兴、湖州、杭州三个太湖流域的府却被划入浙江省,与同为太湖流域的苏州府分离。而河南省也占据了局部的黄河以北土地。贵州省呈现中间窄两边宽的蝴蝶状。根据《明史·地理志》记载,终明一朝有府140,州193,县1138。而根据《明史·兵志二》记载,明有卫493,所359。此外,明还设置了介于省和府、县之间的道。道分为分守道和分巡道两种。明代并改元的路为府,以税粮多寡为划分标准。粮廿万石以上为上府。廿万以下十万以上为中府,十万以下为下府。
政治制度
  由于朱元璋雄猜好杀,洪武十三年,以宰相胡惟庸谋反伏诛,于是废去宰相一职,并规定子孙不得复立。秦、汉以降实行一千六百余年的丞相制度自此废除,相权与君权合而为一,明朝早期皇帝大权独揽,在世界政治史上只有路易十四时期的"朕即国家"可以类比。但由于国家事务繁多,皇帝无法处理,洪武十五年九月罢四辅官,仿宋殿阁制设内阁。其后的满清政权也大多继承了明朝的政治制度。内阁只为皇帝的顾问,相当于今日总统府秘书长的职务,奏章的批答为皇帝的专责。内阁大学士一职多以硕德宿儒或朝中大臣担任,只照皇帝的意旨写出,称“传旨当笔”。权力及地位尚不如过去的宰相。宣宗时期,由于杨溥、杨士奇、杨荣等三杨入阁,宣宗批准内阁在奏章上以条旨陈述己见,称为“票拟”制度,又授予宦官机构司礼监“批朱”。票拟之法补救可君主不愿面见阁臣之弊,但内阁大臣与皇帝沟通,全赖司礼监(宦官)。由是开启明朝宦官专政之大门。为了加强对全国臣民的监视,明太祖还设立特务机构锦衣卫,明成祖又设立东厂,明宪宗再设西厂,合称“厂卫”,由宦官统领,终明朝一代,宦官和内阁的斗争都未停止。
  清代史家赵翼曾慨叹:“不知主德如此,何以尚能延此百六七十年之天下而不遽失,诚不可解也。”明朝是真正完全控制朝政皇帝的只有洪武永乐和崇祯三代,但是尽管如此,有明一朝却能有276年的国祚,与秦、隋两朝二世而亡,不可同日而语。其关键点就在于内阁优良的缓冲机制,正统以后的明朝,呈现出君主专制则衰落,内阁掌权则复兴的特点。
主要机构六部
  明朝在中央设置吏、户、礼、工、刑、兵六部,与前代相比,明朝最初在每部增加尚书侍郎各一。胡惟庸案之后,朱元璋废丞相之职,取消中书省。六部因此地位得到了提高。每部只设一个尚书,两个侍郎,原有的各科尚书降为郎中。各部尚书和侍郎的官阶也上升。其中以吏部(主管文官升迁)最为重要,户部人员最多。礼部(主管祭祀大典)与工部(主管公共建设)地位较低。
监察机构
  在洪武十三年前,明朝还沿袭元的监察制度,设立御史台,有左右御史大夫各一名。洪武十三年后,朱元璋废御史台。两年之后,朱元璋设立新的监察机构—都察院。都察院下面设立监察御史若干人,分巡全国各省,称为十二道监察御史。每道有监察御史三至五人,范围大体为一省。但监察御史都驻在京师,有事带印出巡,事毕回京缴印。到明末,监察御史分为十三道,共有一百一十人。
六科   明朝开始只设了给事中。到洪武廿四年,设都给事中六人,分吏、户、礼、工、刑、兵六科,每科一人。该制度基本是继承了唐朝的门下省制度。六科官职品级虽低,然职权很高。他们可以不赞成皇帝的意旨。而该制度也发挥了一定的改善朝政作用。 五寺 五寺包括大理寺、太常寺、光禄寺、太仆寺、鸿胪寺。大理寺与刑部和都察院合为三法司,其职权与今日之最高法院相似。大理寺的首长称为大理寺卿,也是九卿之一。其余四个寺的卿职权较低。太常寺负责祭祀;太仆寺管理马匹;光禄寺负责寿宴;鸿胪寺负责接待外宾。
内阁
  在废除丞相制度后,朱元璋亲理政务,一度深感疲惫,于是设立四辅制度来辅佐政事。但这项制度效能不彰。洪武十七年后被废。之后朱元璋请来几位翰林学士帮忙辅佐,这些翰林学士的官职被命为“XX大学士”。这也就是所谓的内阁机构。
特务机构
  明朝实行严密的特务政治。主要的特务机构包括锦衣卫、东厂和西厂,武宗时期还一度设有内行厂。 锦衣卫设立于洪武十五年,直接听命于皇上,可以逮捕任何人,并进行不公开的审讯。在东厂设立后,锦衣卫权力受到削弱。东厂成立于永乐十八年,是明成祖为了镇压政治上的反对力量而成立。地点位于京师东安门北。东厂的主要职责就是监视政府官员、社会名流、学者等各种政治力量,并有权将监视结果直接向皇帝汇报。依据监视得到的情报,对于那些地位较低的政治反对派,东厂可以直接逮捕、审讯;而对于担任政府高级官员或者有皇室贵族身份的反对派,东厂在得到皇帝的授权后也能够对其执行逮捕、审讯。东厂在设立之初,就由宦官担任提督,后来通常以司礼监秉笔太监中位居第二、第三者担任。西厂设立于宪宗时期,首领为汪直。1482年后被废。其后又被武宗短暂恢复。 内厂设置于武宗时期,首领为宦官刘谨,刘谨伏诛后,内厂与西厂同时被废,仅留东厂。
其它机构三公
  包括太师、太傅、太保。这些官职都是虚弦。他们名为辅导太子,但实际上辅导太子的机构是詹事府。詹事府下设两坊、一局、一厅。此外还有太医院。太医院附属有生药库和惠民药局。而翰林院远较太医院重要。翰林院首长则是翰林学士。
诸司
  指不属于各部院的司。主要指通政司和行人司。通政司负责传递公文,公告周知。行人司负责到地方上颁诏谕及赴外国作使臣。 外三监 包括国子监、钦天监、上林苑监。钦天监负责观测星象。国子监是教育机构,有祭酒一人,司业一人,监丞一人,博士五人,助教十五人,学正十人,学录七人,典簿一人,典籍一人,典馔两人。上林苑监负责掌管皇帝的御花园,畜牧场与菜圃。
内十二监
  为宦官衙门。事实上只有在这些衙门工作的宦官才是太监。包括司礼监、内宫监、御用监、司设监、御马监、神宫监、尚膳监、尚宝监、印绶监、直殿监、尚衣监、都知监。以司礼监最为重要,监内的提督太监主管宫内一切宦官礼仪刑名。而秉笔太监在宦官极端专权时竟代替皇帝批公文。此外还设有四个司(惜薪、钟鼓、宝钞、混堂),八个局(兵仗、银作、浣衣、巾帽、针工、内织染、酒醋面,司苑),合为内官廿四衙门。宫女也有六个局(尚宫、尚仪、尚食、尚寝、尚功等),每个局下设四个司。
军事制度
  明代早期军队的来源,有诸将原有之兵,即所谓从征,有元兵及群雄兵归附的,有获罪而谪发的,而最主要的来源则是籍选,亦即垛集军,是由户籍中抽丁而来。除此之外尚有简拔、投充及收集等方式。此外,明朝中期以后又有强使民为军的方式,不过都属于少数,整体而言,卫所制仍然是最主要的军制。卫所制为在全国各地军事要地设立卫所注军,卫有军队五千六百人,其下依序有千户所、百户所、总旗及小旗等单位,各卫所都隶属于五军都督府,亦隶属于兵部,有事从征调发,无事则还归卫所。
  军队来源为世袭的军户,由每户派一人为正丁至卫所当兵,军人在卫所中轮流戍守以及屯田,屯田所得以供给军队及将官等所需。其目标在养兵而不耗国家财力,但明宣宗以后渐无法维持,军人生活水平及社会地位日渐低下,逃兵也逐渐增加,军备因此逐渐废弛。
  嘉靖年间,应付倭寇之乱时,戚继光在浙江地区采用招募矿工、民兵加以训练的方式,来取代不堪的卫所兵。 正因为明朝正规军卫所军的不堪用,故这些民兵,在明朝后期逐渐担负起维持明朝有效统治的作战部队,而其中最为有名的就是戚继光的召募以浙江人为主的“戚家军”和女统帅秦良玉召集的以四川人为主的“白杆兵”。
外交
  明朝初年,因为朝贡贸易厚往薄来,造成许多日本人冒充朝贡使者到明朝这里来骗取财物。日本实际上是处于割据状态,没有统一的中央政权,很多到中国来冒充朝贡使者的日本人没有日本政府的管辖,朝贡完了以后他们滞留在中国沿海抢劫,这就是明初的倭寇。为防止倭寇,朱元璋就颁布了海禁政策。从此之后,如果要来中国做生意,必需朝贡兼贸易,否则不予,这就是所谓的“朝贡贸易”,兼具有怀柔拉拢周围国家的用途。明朝严格的贸易管制政策的影响导致正常贸易地下化,转为走私贸易。贸易港集中地由广东、福建转往已为西方国家殖民地的菲律宾、印尼。而海上的维持秩序角色由于中国官方的消失而导致海盗集团猖獗。由于海上贸易仍在暗处进行,美洲银器又大量流入中国,银开始成为流行的通货。
  明成祖即位后,在永乐年间,派遣著名的的航海家三宝太监郑和率远洋船队七下西洋,最远到达非洲东海岸,又派遣吏部验封司员外郎陈子鲁出使撒马儿罕、吐鲁番、火州等西域十八国,加强了明王朝同世界各国的经济政治上的往来,为中国走向世界做出了贡献,体现了永乐王朝的鼎盛和开放。
  明成祖之后,其子朱高炽继位,也就是明仁宗。他听从朝中一些大臣的意见,认为下西洋过于浪费,收效不大,宣布停止下西洋的活动。不到一年,仁宗病,宣宗朱瞻基继位,改年号宣德。宣德五年(1431年)闰十二月初六日,派郑和第七次也是最后一次下西洋。到了明宪宗年间,曾有太监向宪宗提议再次下西洋,于是皇帝下诏到兵部索要郑和出使的海图等资料。但由于刘大夏等官员认为下西洋为一大弊政,有害无益,因此将当年郑和出海地图等资料藏匿起来(一说将其销毁),兵部尚书项忠命吏入库搜索无果,再次下西洋一事于是作罢。后来倭寇横行,明朝加大了禁海的力度,直到明穆宗隆庆元年(西元1567年)之后,倭寇逐渐平息,朝廷有鉴于对外贸易对沿海居民的重要性,才逐步解除海禁,使民间的走私贸易正当化,活络的国际贸易也使中国进入了逐渐成形的世界贸易体系之中。
  倭寇对明朝的海疆构成了严重威胁。期间虽有朱纨和张经的抗倭,但最后都未能取得完全的成功。为防止倭寇的侵扰,世宗时期实行海禁,断绝对日贸易。直到戚继光等名将力行抗倭,倭寇才被剿清,海疆形势才趋于平静。丰臣秀吉统一日本后,意欲占领朝鲜。万历廿年,日本进攻朝鲜,朝鲜国王逃到义州并派使节向明朝求救。明朝取得战争的胜利,中日进行和谈。但万历廿五年后,日本再次进攻朝鲜。万历廿六年,丰臣秀吉死,日本军结果大败逃回日本。此即为壬辰卫国战争。
  明朝边境上最大的两个威胁明朝安全的部族是蒙古和女真,时人称其为北虏和东夷。在明朝初年武功强盛时,一度将蒙古驱至漠北。之后伴随明朝的衰落,蒙古各部也多次进攻明朝,诸如土木之变和庚戌之变,明朝的疆界因此内缩,也大大消耗了明朝的国力。俺答汗后期开始于明朝通好,其后的三娘子继承了和平的政策。明蒙之间边境安宁和平,互通有无。明朝早期曾经设置奴儿干都司来管理东北诸部,但后期东北的蒙古部和女真部日益强大,奴儿干都司被废,明朝在东北的控制力下降。十七世纪后,努尔哈赤统一了女真各部,降服蒙古,于1616年建国后金,与明朝分庭抗礼。后金占领的辽东大部土地,严重威胁明朝的安全。最终趁明朝亡于农民军而入侵关内,统治了中国267年。
  公元16世纪,新航路开辟以后,葡萄牙人于1511年占领了马六甲,愈甚渴望对中国的往来。明武宗正德七年(1513年),葡萄牙国王派出一支对华使团前往中国,并在广州登陆,希望与明政府建交。后来,中国皇帝同意葡萄牙人在澳门开设洋行,修建洋房,并允许他们每年来广州“越冬”。这是西方列强第一次正式性的登陆中国并接触中国。西方国家的东来,也使不少新鲜事物传入中国。
  明神宗万历二十年(1592年),罗马教皇派出利玛窦去中国教区工作。由于利玛窦很快学会中文,并穿儒服、通儒书,他颇得明朝士大夫好感。后来他被举荐到北京,颇得神宗信任。他向中国进献坤舆万国全图、自鸣钟、日晷、西洋炮、望远镜、火枪、西药、圣母像、十字架等贡品,先后在北京、肇庆等地展出。利玛窦不仅传播天主教,还启发徐光启、李之藻等人学习西学。另外他还将中国各种文化传入欧洲,如儒家思想、佛道学说、围棋等,可谓“贯通中西第一人”。另外,有不少明朝军队装备相当数量的火器,包括西洋"红夷大炮""佛郎机炮"和中国自己发明改造的种类,当时有人评价,这些改造的火器,"犹胜西番"。
明朝帝王世系
太祖 开天行道肇纪立极大圣至神仁文义武俊德成功高皇帝 朱元璋。年号洪武(1368年-1398年) 孝陵
惠宗 嗣天章道诚懿渊功观文扬武克仁笃孝让皇帝 朱允炆。年号建文(1399年-1402年)无陵
成祖 启天弘道高明肇运圣武神功纯仁至孝文皇帝 朱棣。年号永乐(1403年-1424年)长陵
仁宗 敬天体道纯诚至德弘文钦武章圣达孝昭皇帝 朱高炽。年号洪熙(1425年)献陵
宣宗 宪天崇道英明神圣钦文昭武宽仁纯孝章皇帝 朱瞻基。年号宣德(1426年-1435年)景陵
英宗 法天立道仁明诚敬昭文宪武至德广孝睿皇帝 朱祁镇。年号正统(1436年-1449年)天顺(1457年-1464年)裕陵
代宗 符天建道恭仁康定隆文布武显德崇孝景皇帝 朱祁钰。年号景泰(1450年-1457年)景泰陵
宪宗 继天凝道诚明仁敬崇文肃武宏德圣孝纯皇帝 朱见深。年号成化(1465年-1487年)茂陵
孝宗 达天明道纯诚中正圣文神武至仁大德敬皇帝 朱佑樘。年号 弘治(1488年-1505年)泰陵
武宗 承天达道英肃睿哲昭德显功弘文思孝毅皇帝 朱厚照。年号正德(1506年-1521年)康陵
世宗 钦天履道英毅神圣宣文广武洪仁大孝肃皇帝 朱厚熜。年号嘉靖 (1522年-1566年)永陵
穆宗 契天隆道渊懿宽仁显文光武纯德弘孝庄皇帝 朱载垕。年号隆庆(1567年-1572年) 昭陵
神宗 范天合道哲肃敦简光文章武安仁止孝显皇帝 朱翊钧。年号万历(1573年-1620年)定陵
光宗 崇天契道英睿恭纯宪文景武渊仁懿孝贞皇帝 朱常洛。年号泰昌(1620年)庆陵
熹宗 达天阐道敦孝笃友章文襄武靖穆庄勤悊皇帝 朱由校。年号天启(1621年-1627年)德陵
思宗 绍天绎道刚明恪俭揆文奋武敦仁懋孝烈皇帝 朱由检。年号崇祯(1628年-1644年)思陵
安宗 处天承道诚敬英哲缵文备武宣仁度孝简皇帝 朱由崧。年号弘光(1644年-1645年)无陵
绍宗 配天至道弘毅肃穆思文烈武敏仁广孝襄皇帝 朱聿键。年号隆武(1645年-1646年) 隆武陵
昭宗 应天推道敏毅恭检经文纬武礼仁克孝匡皇帝 朱由榔。年号永历(1646年-1662年 ) 永历陵
注:太祖孝陵位于南京紫金山南麓,惠宗与安宗葬处不明,景泰陵位于北京海淀区玉泉山北麓,隆武陵位于福州罗汉岭,永历陵位于贵州都匀高塘山,其余十三位皇帝陵墓位于北京昌平县天寿山明十三陵。
明朝繁荣的科技与文化成就
名人
  王阳明 刘基 常遇春 方孝孺 解缙 张居正 郑和 海瑞 于谦 戚继光 袁崇焕 郑成功 袁宏道(“三袁”) 归有光 朱载堉 文征明 王夫之 黄宗羲 李贽 徐光启 汤显祖 史可法 李时珍 宋应星 徐霞客 徐渭(徐文长)唐寅(唐伯虎)俞大猷 陈子龙 夏完淳 秦良玉 等
天文 气象
  西元十四世纪中叶的《白猿献三光图》(作者不详)载有一百三十二幅云图,并与天气变化联系起来,绝大部分与现代气象学原理相一致。(欧洲到西元1879年才出版只有十六幅的云图。) 1383年南京设京师观象台 1439年造浑天仪置北京(1900年被八国联军德国劫走.1921年要回,置南京紫金山天文台) 1442年北京设观象台 1446年建晷影堂(位于北京古观象台西南侧) 1607年李之藻撰<浑盖通宪图说>刊行(介绍西方天文观阐释浑天说) 1617年张燮著《东西洋考》记载海洋占候等的详细资料。 1634年正式安装我国第一架天文望远镜:"筩"(yong) 1643年出版《崇祯历书》
数学 物理
  1450年吴敬撰<九章算法比类大全> 1584年朱载堉著《律吕精义》出版 1592年程大位撰<算法统宗>最早记载使用珠算方法开平方和开立方 1606年徐光启与利玛窦开始合译《几何原本》 1613年李之藻据西人克拉维斯<实用算术概论>和中国程大位<算法统宗>编译而成<同文算指> 1637年,宋应星在《论气·气声》中对声音的产生和传播作出了合乎科学的解释,他认为声音是由于物体振动或急速运动冲击空气而产生的,声音是通过空气来传播的,同水波相类似。 方以智在《物理小识》卷2中提出:"宙(时间)轮于宇(空间),则宇中有宙,宙中有宇。"也就是提出了时间和空间不能彼此独 立存在的时空观。 在《物理小识》卷1中正确地解释了蒙气差(即大气折射)现象 民间光学仪器制造家孙云球制造放大镜、显微镜等几十种光学仪器,并著《镜史》(已佚)。
医学
  1406年,朱棣等主持收集编成《普济方》(载方六万一千七百三十九个,是我国现存最大的一部医方书。) 1567年在宁国府太平县试行中国人痘接种方法预防天花。(种痘预防天花是人工免疫法的开端,是医学史上的重大成就。十七世纪我国种痘技术已相当完善,并已推广到全国。我国种痘法于十七世纪初传入欧洲。 ) 1596年李时珍著《本草纲目》在南京正式出版刊行 同期问世的还有《濒湖脉学》《奇经八脉考》等 1601年,杨继洲著《针灸大成》 1617年,陈实功著《外科正宗》(收集了大量有效方剂。他注重实践,勇于革新,创造性地进行了截趾(指)、气管缝合等外科手术,对我国外科学作出了贡献。书中对一些肿瘤也作了论述。) 1624年张景岳撰《类经>刊行,同年,景岳再编《类经图翼》和《类经附翼》 1640《景岳全书》64卷成书 1641年吴有性撰<瘟疫论> 王夫之在《思问录·外篇》中提出了关于生物体的新陈代谢的观念,他说:"质日代而形如一,……肌肉之日生而旧者消也,人所未知也。人见形之不变而不知其质之已迁,……"
农学
  1376俞宗本著《种树书》(记载了多种树木的嫁接方法,如桃、李、杏的近缘嫁接和桑、梨的远缘嫁接等) 1406年,朱橚《救荒本草》问世(收集四百一十四种可供食用的野生植物资料,载明产地、形态、性味及其可食部分和食法,并绘有精细图谱) 1511年中国种植玉米 (有疑点,可能不正确) 1547年马一龙著《农说》(记载了水稻的精耕细耘、密植、育苗、移栽等的种植经验,是我国第一部运用哲学观点来阐述农业技术的著作。 ) 1582年 藩薯传入中国 1596年 屠本畯(jun)著中国现存最早的海洋生物专著《闽中海错疏》(记载了沿海一带以海生无脊椎动物和鱼类为主的二百多种水族生物的形态和生活习性等。) 1608年,喻仁(喻本元)、喻杰(喻本亨)合著《元亨疗马集》(著名的兽医学著作,内容包括对马、牛和骆驼的治疗经验,至今仍有实用价值。) 1617年赵蛹著<植品>(有关西红柿的种植技术等) 1628年徐光启撰<农政全书> 1425年<郑和航海图>编成 1536年黄衷著<海语>(记录东南亚史地与中国南洋交通情况) 1565年胡宗宪编<筹海图编>记录中日交通及抗倭事 1589年出现最早的世界地图《坤舆万国全图》 1639年顾炎武开始编著《肇域志》《天下郡国利病书》 1640年徐宏祖著《徐霞客游记》正式成书
地理学
  1405--1431年郑和率大型远洋船队到达西洋三十余国;徐霞客著《徐霞客游记》
化学、冶炼及化工
  1521年四川嘉州(今乐山)凿成深达数百米的石油竖井 1596年<唐县志>记载以火爆法的采矿技术 1596年,李时珍在《本草纲目》中记载了二百七十六种无机药物的化学性质以及蒸馏、蒸发、升华、重结晶、沉淀、烧灼等技术 1637年,宋应星在《天工开物》中记述冶炼技术时,把铅、铜、汞、硫等许多化学元素看作是基本的物质,而把与它们有关的反应所产生的物质看作是派生的物质,从而产生化学元素概念的萌芽。