前漢(ぜんかん 紀元前206年 - 8年)は中国の王朝。秦滅亡後の楚漢戦争にて項羽との争いに勝利した劉邦によって建てられた。長安を都とした。7代武帝の時に全盛を迎え、その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだが、14代孺子嬰の時に重臣の王莽により簒奪され一旦は滅亡、その後漢朝の皇族であった劉秀により再興される。前漢に対しこちら後漢と呼ぶ。 中国においては東の洛陽に都した後漢に対して西の長安に都したことから西漢と、後漢を東漢と称されることが一般的である。前漢と後漢との社会・文化などには強い連続性があり、その間に明確な区分は難しく、前漢と後漢を合わせて両漢と総称されることもある。この項目の社会や文化の節では前漢・後漢の全体的な流れを記述し、後漢の項目では明確に後漢に入って流れが変化した事柄を記述する。
漢という固有名詞は元々は長江の支流である漢水に由来する名称であり、本来は劉邦がその根拠地とした漢中という一地方をさす言葉に過ぎなかったが、劉邦が天下統一し支配が約400年に及んだことから、中国全土・中国人・中国文化そのものをさす言葉になった。
建国
劉邦戦国時代を統一した秦の始皇帝は皇帝概念・郡県制などその後の漢帝国及び中国歴代王朝の基礎となる様々な政策を打ち出した。しかしその死後、二世皇帝が即位すると宦官の趙高の専横を許し、また阿房宮などの造営費用と労働力を民衆に求めたために民衆の負担が増大、その不満は全国に蔓延していった。
紀元前209年に河南の陳勝による反乱が発生したことが契機となり、陳勝・呉広の乱と称される全国的な騒乱状態が発生した。陳勝自身は秦の討伐軍に敗北し、敗走中に部下に殺害されたが、反秦勢力は旧楚の名族である項梁に継承され、項梁の死後はその甥の項羽が反秦軍を率いて反秦活動を行った。漢の創始者である劉邦はその部下として秦の首都であった咸陽を陥落、秦を滅亡させた。その後は西楚の覇王を名乗る項羽と、その項羽から漢中に封建されて漢王となった劉邦との間での権力抗争が発生した。(楚漢戦争)
当初は軍事力が優勢であった項羽により劉邦はたびたび敗北したが、投降した兵士を虐殺するなどの悪行が目立った項羽に対し、劉邦は陣中においては張良の意見を重視し、自らの根拠地である関中には旗揚げ当時からの部下である蕭何を置いて民衆の慰撫に努めさせ、関中からの物資・兵力の補充により敗北後の勢力回復を行い、更に将軍・韓信を派遣し、華北の広い地帯を征服することに成功する。これらにより徐々に勢力を積み上げていった劉邦は紀元前202年の垓下の戦いにて項羽を打ち破り、中国全土を統一した。
劉邦は諸将に推戴され皇帝に即位する(高祖)。高祖は蕭何・韓信らの功臣たちを諸侯王・列侯に封じ、新たに長安城を造営、秦制を基にした官制の整備などを行い、国家支配の基を築いていった。しかし高祖は自らの築いた王朝が無事に皇統に継承されるかを考慮し、反対勢力となり得る可能性のある功臣の諸侯王を粛清、それに代わって自らの親族を諸侯王に付けることで「劉氏にあらざる者は王足るべからず」という体制を構築した。秦の郡県制に対して、郡県と諸侯国が並立する漢の体制を郡国制と呼ぶ。
呂氏の専横
紀元前195年、高祖は崩御。その跡を劉盈(恵帝)が継ぐ。恵帝自身は性格が脆弱であったと伝わり、政治の実権を握ったのは生母で高祖の皇后であった呂后であった。呂后は高祖が生前に恵帝に代わって太子に立てようとしていた劉如意を毒殺、更にその母の戚氏を残忍な方法で殺した。恵帝は母の残忍さにショックを受け酒色に溺れ、若くして崩御してしまう。呂后は少帝恭、少帝弘を相次いで帝位に付けるが、少帝弘は実際には劉氏ではなかったとされる。
呂后は諸侯王となっていた高祖の子たちを粛清、そして自らの親族である呂産らを要職に付け、更にこれらを王位に上らせた。「劉氏にあらざる者は・・・」という皇族重視の国家体制の変質である。呂后は呂氏体制を確立するために奔走したが紀元前180年に死去した。呂后の死去に伴い反呂氏勢力が有力となり、朱虚侯の劉章・丞相の陳平・太尉の周勃らが中心となり呂産を粛清、呂氏一族は殺害され、呂氏の影響力は宮中から一掃された。
文景の治
呂氏の粛清後に皇帝として即位したのが代王であった劉恒(文帝)である。
秦滅亡から漢建国までの8年に及ぶ長い内戦状態は国力を激しく疲弊させ、一般民の多くが生業を失った。これに対して文帝は民力の回復に努め、農業を奨励し、田租をそれまでの半分の30分の1税に改め、貧窮した者には国庫を開いて援助し、肉刑を禁じ、その代わりに労働刑を課した。また自ら倹約に取り組み、自らの身の回りを質素にし、官員の数を減らした。
紀元前157年に文帝は崩御。この時に文帝は新しく陵を築かず、金銀を陪葬せず、その喪も3日で明けるように遺言した。その跡を劉啓(景帝)が継ぐ。景帝もまた基本的に文帝と同じ政治姿勢で臨み、民力の回復に努めた。その結果、倉庫は食べきれない食糧が溢れ、銅銭に通した紐が腐ってしまうほどに国庫に積み上げられたと言う[2]。実際の数字からも国力の回復は明らかで、例えば曹参が領地として与えられた平陽は当初は1万6千戸であったのがこの時代には4万戸に達していた[3]。この2人の治世を讃えて文景の治と呼ぶ。
しかし国力の回復と共に、貧富の格差の拡大と諸侯王の勢力の増大とが新たな問題として浮上してきた。
農業生産が増大したことに伴い、商業活動もまた活発化し、商人の経済力も飛躍的に増大した。その財力で農民たちの土地を買い上げ、更に財を積み上げていった。物を生産しないで巨利を得る商人に対して、商業を抑え込んで農業を涵養することを提言したのが文帝期の賈誼であり、景帝期の晁錯であった。文帝の観農政策は賈誼の提言に従ったものである。(#豪族を参照のこと。)
また生産の回復は中央の勢力を増大させたが、それと同時に諸侯王の勢力も増大させた。諸侯国は中央朝廷と同じように官吏を置き、政治も財政も軍事もある程度の自治権が認められ、半独立国の様相を呈していた。これを抑圧することを提言したのが晁錯である。晁錯は諸侯王の過誤を見つけてはこれを口実に領地を没収していき、諸侯王の勢力を削りにかかった。これに対して諸侯王側も反発し、呉王劉濞が中心となって紀元前154年に呉楚七国の乱を起こす。この乱は周亜夫らの活躍により半年で鎮圧される。
これ以後、諸侯王は財政権・官吏任命権などを取り上げられ、諸侯王は領地に応じた収入を受け取るだけの存在になり、封国を支配する存在ではなくなった。これにより郡国制はほぼ郡県制と変わりなくなり、漢の中央集権体制が確立された。
全盛
武帝景帝は紀元前141年に崩御し、劉徹(武帝)が即位した。武帝は文景の治で充実した国力を背景に積極的な施策に乗り出す。
内政面においては郷挙里選の法を定め儒者の官僚登用を開始した。また諸侯王の権力を更に弱めるために諸侯王が領地を子弟に分け与えて列侯に封建するのを許す推恩の令を出した。これにより封国は細分化され、諸侯王勢力の弱体化が一層顕著なものとなった。
外交面では北方の匈奴とは、前200年に高祖が大敗を喫して以来、敵対と和平政策が繰り返されていたが、概ね匈奴が優勢である状況が続いていた。これに対して武帝は前134年に馬邑[4]の土豪であった聶壱の建策を採用、対匈奴戦に着手した。前129年に実施された第一回目の遠征では四人の将軍が派遣され、他の将軍が敗北を喫する中で車騎将軍・衛青は匈奴数百の首を獲得する戦果を挙げている。以後衛青は七度に渡り匈奴へ遠征しその都度大きな戦果を挙げた。また衛青の甥である霍去病の活躍により、渾邪王が数万の衆と共に投降するという大戦果を挙げた。これにより匈奴は北方への移動を余儀なくされ、漢は新たに獲得した西方に朔方・敦煌などの郡を設け統治を開始した。
また朝鮮の衛氏朝鮮・ベトナムの南越国への征服も実施し、朝鮮には楽浪郡などの四郡を、ベトナムには日南郡を設け新たな直轄領とした。また匈奴対策の一環として張騫を西方に派遣し、烏孫・大宛などとの関係構築を模索し、結果としていわゆるシルクロードの交易路が開け、西方の文物が漢にもたらされるなどの影響を与えている。
しかし相次ぐ軍事行動は財政の悪化をもたらし、また文帝時代から進んでいた商人の伸長とそれによる富の偏在なども深刻な問題となった。これら大富豪たちは後に豪族と呼ばれる存在に成長していくこととなる。
武帝は経済官僚である桑弘羊を登用して塩鉄専売制を開始、また商人に対しては均輸・平準を行い、商工業者に対して新税を設置、国家収入の増大を図った。しかし専売と新税により経済活動に打撃を受けた商人は没落し、貧民たちを指揮して盗賊化した者も発生した。
社会不安に対しては武帝は酷吏と呼ばれる法家系の官僚を登用し、厳格な法治主義で対応した。盗賊を摘発できない、又は摘発件数が少ない地方官僚は死刑とする沈命法を出している。また前106年には郡太守が盗賊や豪族と結託している現状を打破すべく、全国を13州に分割し、州内の郡県の監察官として州刺史職を新設した。
晩年の武帝は不老不死を願い神秘思想に傾倒、それに伴い宮中では巫蠱(ふこ)が流行するようになる。巫蠱とは憎い相手の木の人形を作り、これを土に埋めることで相手を呪殺するものであり、これを行うことは厳禁されていた。それを逆用し、人形を捏造することで対立相手を謀殺することが頻繁に行われた。そして紀元前91年、皇太子であった戻太子が常より対立していた酷吏・江充による策謀により謀反の汚名を着せられ、追い詰められた戻太子は長安で挙兵し、敗死した(巫蠱の乱)。後に戻太子の巫蠱の嫌疑が無実であったことを知った武帝は深く悲しみ、江充一族を誅殺した。皇太子を失った武帝は老齢も重なって気力を減退させ、周辺部への進出はこれ以降は止められた。
武帝時代は漢の絶頂期であったが、同時に様々な問題点が噴出した時代でもあった。
霍光と宣帝
巫蠱の乱の後の皇帝の後継者は長期間空白が続いていたが、武帝は崩御の直前に僅か八歳の幼齢である劉弗陵(昭帝)を立太子し、幼帝の補佐として、自らの側近であった霍光・桑弘羊・上官桀・金日磾に後見役を命じた。
前87年に武帝が崩御すると昭帝が即位したが、翌年に後見人の一人である金日磾が死去すると、霍光・上官桀と桑弘羊との主導権争いが発生した。内朝を代表する霍光・上官桀と外朝を代表する桑弘羊との対立は日毎に深刻化し、霍光は桑弘羊を排除すべく全国より集められた賢良・文学と呼ばれる儒学生の後押しをし、桑弘羊主導で行われた専売制・均輸・平準を廃止する建議を出した。これが『塩鉄論』である。しかし経験豊富な経済官僚であった桑弘羊は儒学生の建議を論破しで霍光の計画は一旦失敗した。
その後、桑弘羊も霍光に対抗するために上官桀と接近した。そして昭帝の兄である燕王劉旦と共謀し、霍光を謀殺し、昭帝を廃するクーデターを画策したが失敗、上官桀と桑弘羊の一族は誅殺された[5]。これにより霍光が政権を掌握し、自らの一族を次々と要職に登用し、霍光を中心とした政権運営が行われることとなった。霍光は武帝時代の積極政策を転換し、儒教的な恤民政策に立脚した施策が打ち出した。具体的には租税の免除、匈奴に対する和平策などである。
前74年、昭帝が21歳で早世すると、霍光は劉賀を皇帝に擁立、しかし素行不良を理由として即位後まもなく廃位し、新たに戻太子の孫で、戻太子の死以来市井で生活していた劉病已(宣帝)を皇帝に擁立した。即位した宣帝は自らの立場を理解して霍光を尊重したことで霍光による専権に変化は見られなかった。しかし前68年に霍光が病死すると宣帝は霍一族の権力縮小を図り、遂に前66年に霍一族を族滅させ親政に着手した。
宣帝の政治は基本的に霍光時代の政策を継承した恤民政策であった。全国の地方官に対してこれまでの酷吏のように締め付けるのではなく、教え諭し生活を改善できるように指導させる循吏を多く登用している。その一方で宣帝は酷吏も使用し、豪族に対しては厳しい姿勢で臨んだ。
外征面においては西域に進出し西域都護を設置している。これにより匈奴の勢力は衰退し、前53年には匈奴の呼韓邪単于の漢への入朝を実現している。
これらの功績により宣帝は漢の中興の祖と讃えられる。
儒教国家への道
前49年に宣帝が崩御し、劉奭(元帝)が即位した。儒教に傾倒していた元帝は、受け入れられなかったものの太子時代に宣帝に対し儒教重視の政策を提言した経験を有す人物である。そのため即位後は貢禹などの儒家官僚を登用し儒教的政策を推進していくこととなる。
貢禹の建議により宮廷費用の削減・民間への減税、専売制の廃止(その後、すぐに復されている)などの政策が実施された。また貨幣の廃止による現物経済への回帰という極端な政策も立案されたが、これは実現しなかった。貢禹の跡を受けた韋玄成らにより、郊祀制の改革・郡国廟の廃止が決定され、七廟の制が話し合われることになった。(郊祀・郡国廟・七廟などに付いては#祭祀で後述)
元帝の時代は儒教が政策の主導権を掌握し、儒教的イデオロギーが政治を決定するようになった時代である。その一方でこの時代には宦官および外戚の台頭も見られた。
宣帝の信任を受けた宦官の弘恭、石顕は、病弱な元帝に代わって朝政に介入するようになり権力を増大、遂には中書令に就任し政権を掌握した。これに対して前将軍の蕭望之らは宦官の壟断を弾劾する文書を提出したが、宦官勢力により逆に罪に落とされ自殺に追い込まれた。このように専横を振るった石顕であったが成帝の即位と共に失脚している。
前33年、元帝の崩御により劉驁(成帝)が即位する。成帝は政治を省みず、側近を伴って市井で放蕩に耽る好色な皇帝であった。これに代わり実際の政治を行ったのが皇太后である王政君の兄弟の王鳳らであった。王太后は自らの近親を次々と列侯に登用し、その中の一人に王莽が含まれていた。
王鳳死後も王太后の一族が輔政者となったが、その専横と生活態度は翟方進ら儒者官僚たちの激しい反発を招くようになった。その中、王莽は王氏の中で独り謙虚な態度を貫き、儒者を含め多くの支持を獲得するようになっていた。
前7年、突然の成帝の崩御により皇太子である甥の劉欣(哀帝)が即位する。これにより哀帝外戚が王朝内で台頭するようになり、王氏は排斥され王莽も執政者の地位を押されたが、王朝内部からは王莽復帰の嘆願が相次いだ。
哀帝は意に背いた大臣を殺害し、寵臣の董賢を大司馬に昇進させるなど強引な手法で主導権を握ろうとする一方で、吏民の私有できる田地や奴婢の制限を画策し、官制改革に着手するなど積極的な政策を推進したが、前1年に病弱であった哀帝は後継者を残さないままに崩御した。崩御すると王太后と王莽は哀帝より皇帝の印綬を管理していた董賢から印綬を強奪し、元帝末子の子である劉衎(平帝)を即位させることに成功した。
政権を掌握した王莽は絶大な人望を背景に禅譲への準備に着手する。具体的には『周礼』に則り聖人が執政する場所とされる明堂を建築し、また遠国からの進貢といった瑞祥とされる事柄を演出し、王莽こそが聖人であると周りに印象付けようとした。また自らの娘を平帝に娶わせ皇舅となり、安漢公に封ぜられると同時に宰衡という称号を名乗り、九錫を授けられ、臣下として最高の地位に登った。
紀元後5年、平帝が崩御(平帝が王莽のことを恨んでいると分かったため、王莽が毒殺したとも言われる)すると、王莽はわずか二歳の劉嬰を後継者に選ぶ。劉嬰はまだ幼年であることから正式には帝位に就けず、自ら翌年6年に王莽は仮皇帝・摂皇帝として劉嬰の後見となり、更に8年に禅譲を受けた王莽は正式に皇帝に即位、新朝を建てたことで漢は滅亡した。
王莽は儒教色の極めて強い政治を行い、土地・奴婢の売買禁止・貨幣の盛んな改鋳などを行ったが、豪族たちの強い反発を受けて、その政策は失敗に終わり、呂母の乱を切っ掛けに全国に叛乱が多発した。その戦乱の中から劉秀が登場し再び中国を統一、漢が復興された(後漢)。
政治
劉邦が咸陽入りした際に、蕭何は秦の法律文書の庫を抑えてその全てを手に入れ、それを参考にして漢の法律を作った。この話が示すように漢の制度はほぼ秦制の踏襲である。そのため秦と漢との連続性を強調した秦漢ないし秦漢帝国の熟語は頻繁に使われる。
皇帝
皇帝号はファーストエンペラー・始皇帝に始まり、ラストエンペラー・宣統帝溥儀[7]まで続く。その間、中国において皇帝が存在しなかった時代はなく、名目的には権力は全て皇帝に帰属するものと考えられていた。すなわち「皇帝」の創始は中国史において極めて重大な画期であった。
皇帝とは『史記』「秦始皇本紀」においては三皇五帝の一人の泰皇の皇と五帝の帝を合わせたものとされており、それまでの最高位であった王の上に立つ地位である。このことは郡国制において王を皇帝が支配するということの論理的正当性を与えるものである。
その一方で漢代においては天子の称号も使われている。天子はそのまま天帝の子を示す言葉であり、王の上である皇帝からすれば一段下がる言葉のはずである。王の称号を使っていた周代においても天子の語は使われている。
その間の差はどのようなものであったか、このことを説明する『孝経緯』(『孝経』に対する緯書。緯書に付いては#神秘思想にて後述)には「上に接しては天子と称して、爵をもって天に事え、下に接しては帝王と称して、以って臣下に号令す。」とある。つまり天に対しては天子であり、民衆・臣下に対しては皇帝なのである。
そして、この使い分けは現実の場面においては、国内の臣下に対してと国外の外藩に対しての称号として現れる。国内の臣下(内臣)に対しての文書には「皇帝の玉璽」が押され、国外の外藩(外臣)に対する文書には「天子の玉璽」を押している。
官制
漢の官制において、共通する文字は同じ意味を表す。
令は長官を表す。郎中令あるいは県令など。丞は補佐・次官を表す。例えば丞相は皇帝を補佐し、県丞は県の副長官である。史は文書業務を担当する官のこと。尉は軍事関連の官。太尉・中尉など。
漢制においては官僚の等級は二千石・六百石などと表される。この数字は以前は俸禄の数字そのままであったが、漢代においてはあくまで等級を表すものに過ぎない。等級に含まれる主な官は以下の表の通り。このうち、八百石と五百石は前漢末期に廃止。
官秩 万石 中二千石 二千石 比二千石 千石 比千石 八百石 六百石 比六百石 五百石 四百石 比四百石 三百石 比三百石 二百石 比二百石 百石
実際の官 三公・大将軍 九卿 郡守・内史など 郡尉・中郎将など 三公の丞 太中大夫など 太史令など 博士・議郎・中郎など 県丞など 侍郎など 郎中など 県尉など
俸禄 月350斛 180 120 100 90 80 70 60 50 45 40 37 30 27 16
中央
漢の中央官制は三公の下に九卿[9]と呼ばれる諸部署が配置されている。この三公九卿はその役割において大きく二つに分類される。一つは政府の中心として全国を統治するための機関であり、もう一つは国家機関というよりも皇帝とその一族の家政機関としての役割を持つものである。前者に分類されるのは以下のようなものである。
丞相→相国(紀元前196年)→左・右丞相(紀元前194年)→丞相(紀元前178年)→大司徒(紀元前1年)
民政を中心とした政治の最高職であり、皇帝を助けて万機を総覧する。実際においては朝議を主宰し、その朝議の結果を皇帝に上奏し、認可を得て行政化する。また自らの官衙である丞相府を率いる。その員数は多いときで400近くにまでなった。
御史大夫→大司空(紀元前8年)→御史大夫(紀元前5年)→大司空(紀元前1年)
御史大夫は丞相を助けるいわば副丞相である。御史府を率い、政策の立案を行い、それを丞相に伝える役割を負う。また属官の御史中丞は官僚の監察を行う。
太尉→廃止(紀元前129年)→大司馬(紀元前119年)→大司馬将軍(紀元前119年/大司馬は将軍位に付される称号のようなもの)→大司馬(紀元前8年/将軍位に付かない独立した官位)→大司馬将軍(紀元前5年)→大司馬(紀元前1年/将軍位に付かない独立した官位)
太尉は軍事を司る役職である。
治粟内吏→大農令(紀元前143年)→大司農(紀元前104年)
国家財政を司る。農業の管理、税の徴収および管理、官僚の俸給、経済政策の実施などが管轄である。
廷尉→大理(紀元前144年)→廷尉(紀元前135年)→大理(紀元前1年)
廷尉は法の執行を司る。全国的な刑罰を行い、地方の郡県の司法官の権限を越える刑罰をも行う。
典客→大行令(紀元前144年→大鴻臚(紀元前104年)
典属国(紀元前28年に大鴻臚に吸収合併される。)
典客は諸侯および地方官らが上京した時の相手を担当し、典属国は外藩の相手を担当する。
これに対して後者(皇帝の家政機関)に分類されるものは以下のようなものである。
少府
少府は治粟内史が国家財政を司るのに対して帝室財政を司るものである。それに加え、機密文書・後宮などの管理も行う。後者に属する官の中でも最重要であり、その属官も多い。機密文書を取り扱う尚書(尚書令・尚書僕射)、宮中の医療を取り扱う太医令、食事を取り扱う太官令など。
水衡都尉
紀元前123年に少府より分離して設立。貨幣の発行などを司る。
郎中令→光禄勲(紀元前104年)
郎中令は主に皇帝の身辺警護を扱い、それ以外の皇帝の身辺に関することも扱う。
衛尉→中大夫令(紀元前156年)→衛尉(紀元前142年)
中尉→執金吾(紀元前104年)
衛尉は宮中警備・防衛、中尉は首都長安の警備・防衛。
太僕
皇帝の車馬及び軍馬等の管理。30万頭もの馬を養っていたという(『漢官儀』)。
宗正→宗伯(4年)
皇族(宗室)および外戚に関する全てを扱う。
奉常→太常(紀元前144年)
奉常は皇帝の祖先祭祀を全て扱う。
このように国家の統治機関と皇帝の家政機関とが並立しているのが漢制の大きな特徴である。そして家政機関の規模は統治機関の規模を上回るものであった。元帝時代に大司農(治粟内史から改称)の扱う金額が年間40億銭に対して、少府とそこから分離した水衡都尉の扱う金額が43億銭であった。
また当時の官僚は全て一旦皇帝の郎官になってから官僚となるのが通例であった。郎官とは皇帝の側近として身辺警護などを勤める役であり、郎中令に属する。郎官は皇帝の身近に侍ることで皇帝との間に私的な繋がりを持つようになる。
このような制度は当時の官僚制が近代的なそれとは違い、未だ皇帝の私的機関としての色彩を濃厚に持つことを示している。
地方
地方制度は基本的には秦の郡県制を受け継ぐが、それと同時に皇族を封建して諸侯王となす並立制を布いた。これを郡国制と呼ぶ。諸侯王に付いては後述。
行政の最大単位は郡であり、その長は守(郡守)である。その属官には次官たる丞、軍事担当の尉がある。郡の下の単位が県であり、その長は一万戸以上の場合は令・万戸以下は長と呼ばれる。その属官は郡と同じく丞と尉である。景帝の紀元前148年に守は太守・郡尉は都尉とそれぞれ改称される。なお辺境においてはこれと若干異なるがそれは#兵制の項で記述する。
武帝時代末期の紀元前106年に全国を13の州に分けて、その中の監視を行う部刺史が創設された。首都周辺は皇帝直属の監察官である司隷校尉が同じ役割を果たした。当時、太守が豪族たちと結託して悪事を働くことが多かったので、その監察を任務として刺史が創設された。当初は太守の秩二千石に対して秩六百石と格の上でもはるかに低く、また一定の治所を持たず、州内を転々としていた。紀元前8年には牧と改称され、名称は牧と刺史の間で何度か変わり、時期は明確には特定できないが、刺史は監察官から州内の行政官としての権力を持つようになった。
ここまでが政府より定められた行政単位であり、その下の単位として郷・亭・里と呼ばれる組織がある。これに付いては#農村・都市を参照。
郡国制
呉楚七国の乱の際の諸侯王勢力図。黄色が直轄領、赤が諸侯国郡県と並立する諸侯国に関して。当初の高祖時代には韓信を初めとした戦争で手柄を挙げた功臣たちを封建し、諸侯王とした。しかし高祖はこれら百戦錬磨の功臣たちと自らの皇太子(恵帝)を比べた場合、皇太子はあまりにひ弱に思えた。そこで高祖はこれら異姓の諸侯王たちを粛清して、自らの親族たちを諸侯王に付けて、自らの死後の劉氏政権の安定を図った。
しかし文帝の時代になると藩屏として期待された諸侯王たちには劉氏の本流たる中央の朝廷に対して反抗的な姿勢が目立ち、またこれらの諸侯王の権力・領土があまりにも大きくなりすぎたために中央政権の安定と言う観点からは問題が出てきた。
この頃の諸侯国は中央と同じような自らの朝廷を持ち、そこには丞相・御史大夫などの中央朝廷と同じ名前の官がいた。このうち、丞相のみは中央からの派遣であるが、その他の官は全て諸侯王の任命するところであった。であるから基本的に諸侯国の内政は諸侯王によってなされるものであり、中央もそれに口出しすることは出来なかった。諸侯国の中でも最も大きな呉国は領内に鉄と塩の産地を抱え、民衆に税をかける必要がない程に富んでいたという。これらのことが示すように当時の諸侯国は半独立国であり、中央朝廷からすれば目の上のたんこぶであった。そこで諸侯王の権力を削ることを進言したのが文帝期の賈誼と景帝期の晁錯であり、これに対する反発から呉楚七国の乱が起こった。
乱の終結後、諸侯王の領地における行政権を取り上げて、中央が派遣する官僚に任せ、諸侯王は単に領地から上がる税を受け取るだけの存在へと変え、これにより諸侯王の力は大幅に削られた。しかしその後も中央に対して反抗的な態度に出る諸侯王が絶えなかったために、紀元前127年に諸侯王が自分の領地を子弟に分け与えて列侯に封建するのを許す「推恩の令」を出した。これは元々賈誼が考えた案に基づくと思われるが、武帝期に主父偃の献策によって実現し、この令により、諸侯王の領地は代を重ねるにつれ細分化されたため、諸侯王が中央政権を揺るがす心配はなくなった。これらの政策によりほぼ郡県制と変わりはなくなった。
採用制度
武帝以前からの官吏採用制度は任子制と呼ばれる。ある一定以上の役職にある官吏の子を採用する制度である。
その一方で諸侯王・郡守などが地方の才能・人格に優れた人材を中央に推薦する制度も併せて行われていた。これが武帝期になって郡守の義務とされ、郷挙里選制となる。その推薦する基準には賢良(才能がある)・方正(行いが正しい)・諫言(上の人間に遠慮することなく進言できる)・文学(勉強家である)・孝廉(親に対して孝行であり、廉直である)などがあり、これによって採用された人材を賢良方正と呼ぶ。これら賢良方正は首都長安にある太学と呼ばれる学問所に集められて五経博士による教育を受けて、官僚として巣立っていくことになる。
しかしこの制度はまず初めに有力者の推薦を必要とするので、次第に推薦されるのは豪族の子弟達だけになっていき、豪族が権力を獲得するための道具に利用されるようになっていった。後漢になるとその傾向はますます強まり、宦官と豪族達との争いを引き起こすことになる。
兵制
戸籍に登録された男子は23歳から56歳の間の1年間は自分の属する郡の軍の兵士に、もう1年間は中央の衛士とならねばならない。ただし病人・不具・身長六尺二寸(143cm)以下の者は除く。
軍事の最高職は太尉である。しかし帝国すべての軍事権は皇帝に属するものであり、当初の太尉は必要に応じて改廃を繰り返す非常置の職であった。武帝の元狩四年(紀元前119年)に将軍号に冠する一種の称号として大司馬が設置される。この頃に大司馬になった者としては衛青・霍去病の両者があり、その親族の霍光もまた大司馬大将軍として政権を執った。その後、宣帝の地節三年(紀元前67年)に称号ではなく実際の役職となるが、この頃になると外戚の長が大司馬になって政権を執ることが多くなり、大司馬は軍事よりも政治の職となった。
首都長安に置かれる中央軍は中尉が指揮する北軍と衛尉が指揮する南軍とがあった。北軍は長安の北部にその屯所があり、長安周辺の人々が構成員となって長安の防衛・警察に当たった。南軍は地方から衛士としてやってくる人々が構成員となって宮殿の警備に当たった。またこれに加えて皇帝の身辺警護に当たるのが郎中令によって統括される郎官たちである。長安の十二の門には城門候が置かれて警備に当たり、城門候を統括する存在として城門都尉があった。またこれらとは別に屯騎・歩兵・越騎・長水・胡騎・射声・虎賁の七校尉が統括する部隊がある。
地方軍の単位は郡単位であり、統括者は太守である。太守の下で実際に軍事に携わるのが都尉である。通常都尉は郡に一人だけであるが、軍事的に重要な辺境の郡などでは複数おかれる場合があり、これを部都尉と呼ぶ。また太守の軍事面での副官として郡長史が付く。
これらが平時体制である。遠征の際にはこれら軍兵をまとめるための将軍が置かれる。「将、軍にありては君命も受けざるところあり」と言われるように将軍は人事権や懲罰権などその軍に付いてはほぼ全権を持っていた。将軍の最高が大将軍である。大将軍はその他の将軍に対する命令権を持つ特別の将軍である。大将軍の次に位するのが車騎将軍・衛将軍であり、それに加えて票騎将軍が霍去病の活躍により前期の三将軍と同格とされ、この四将軍の位は三公に匹敵した。この次にくるのが左右前後の四将軍である。これに加えて任命される時に名前も同じく付けられる雑号将軍がある。また偏将軍および裨将軍があり、これは独自の軍は率いず、他の将軍の下に入って指揮するものである。
将軍は司令部として幕府を開く。最高の四将軍の幕府には将軍の副官として長史と司馬が付き、それぞれ事務と兵を司る。参謀として従事中郎が二人付き、他に書記官として掾・属・令史・御属が付く。実戦の部隊の最小単位は「屯」でありその長は屯長、屯がいくつか集まって曲になりその長は軍候、曲が集まって部になりその長は校尉、部が集まって全体の軍となる。
祭祀
皇帝の節で説明したように、皇帝は天子でもあり、天帝によって選ばれた存在である。故に皇帝は天帝を祀らねばならない。前漢において、それまで漠然としていた皇帝祭祀が固まり、封禅と郊祀という形になった。
また祖先崇拝を重視する儒教の勢力が強くなったことで皇帝の祖廟の祀り方もまた定式化された。
郊祀
郊祀とは首都長安の「郊」外で行う祭「祀」の意味である。祀られる対象は天と地で、長安の南の南郊で天を祀り、北の北郊で地を祀る。それぞれ南郊は冬至、北郊は夏至に行われる。
前漢初期、高祖によって行われていた天帝祭祀は五帝祭祀である。ここでいう五帝とは三皇五帝の五帝ではなく、元々秦において、秦の旧首都である雍において四帝(黄帝・白帝・赤帝・青帝)を祀っていたが、高祖はそれに黒帝を足して五帝の祀りをすることに決めた。この五帝を祀る場所のことを五畤という。
武帝期、天の象徴である天帝を祀りながらそれに対応する地の象徴である后土を祀らないのはおかしいということになり、紀元前113年に汾陰[10]の沢中にて后土を祀ることを決めた。更にそれまで最高神とされていた五帝は本当の最高神である太一の補佐に過ぎないということになり、新たに漢長安城の離宮である甘泉宮にて太一を祀ることに決めた。この時以降、甘泉・汾陰・五畤の三つを一年ごとに順番に回って祀ることにされた。
しかし儒教の勢力が拡大すると共にこのような祀り方は古礼に合わないとして、成帝期の紀元前32年に丞相の匡衡らにより甘泉と汾陰で行うのを止めて、新たに長安の南(南郊。天を祀る)・北(北郊。地を祀る)にて祭祀を行うことに決めた。更に五畤も廃され、南郊と北郊のみが皇帝の祀るところとなった。その後、天災が相次いだことに対して劉向は祭祀制度を改悪したせいだと言い、一旦全てが旧に復された。その後、再度南郊と北郊に戻され、更に戻されるなど動揺が続いたが、最終的に平帝期の5年に王莽により、南郊と北郊を祀ることが決定された。
封禅
甘泉宮にて太一を祀ることを決めた直後の紀元前110年、武帝は東方に巡幸に出て、泰山にて封禅の儀を執り行った。
封禅は聖天子以外行うことが出来ないといわれている儀式であり、武帝の祖父の文帝はこの儀式を行うことを臣下から薦められたがこれを退けている。
武帝は国初以来の念願であった対匈奴戦に勝利を収め、自らこそ封禅を行うに相応しいと考え、この儀式を執り行った。この時に儒者に儀式のやり方を尋ねたが始皇帝の時と同じように儒者はこれに答えることが出来ず、結局武帝の共をしたのは霍去病の息子の霍子侯だけだった。そのためこれもまた始皇帝の時と同じくその儀式の内容は判然としない。
このような状態であるため郊祀が毎年の恒例と化していったのに比べ、封禅はその後光武帝が行ったものの特別に行われる秘密の儀式に留まり、中国歴代でもこれを行った者は数えるほどである。
廟制
高祖は自らの父である劉太公を祀る廟を作るに当たり、同族である全国の諸侯王にも劉太公の廟を作ることを命じた。これが以後の定式となり、各郡国にそれぞれ劉氏の廟が作られることになった。これを郡国廟と呼ぶ。本来、親の祭祀を行うことが許されるのは大宗(本家)だけ、漢の場合は皇帝の系譜、であり小宗(分家)はこれを祀れないことになっていた。ましてや臣下が皇帝の祖先を祀るなどという郡国廟は本来の礼制からは大きく外れたものであった。高祖が何故このようなことを行ったかといえば、諸侯王および天下万民の間に「我らは一つの家族である」との意識を持たせようとしたと考えられる。その後、儒教の勢力が増すと礼制から外れた郡国廟はやはり問題となり、元帝の紀元前40年に韋玄成らの建議によって郡国廟は廃止された。
また同じく儒教の勢力拡大と共に問題とされたのが七廟の制である。本来の礼制においては天子の祖先を祀る廟は七までに決まっていた。しかし元帝の時点で九[11]になっており、このうちのどれを廃止するかで議論が起こった。この議論は紛糾を続け、最終的に平帝期に王莽によって高祖・文帝・武帝の三者は功績が大なので不変・それに加えて現皇帝の四代前まで(宣帝・元帝・成帝・哀帝)とすることに決められた。
元号と暦
史上初の元号は武帝期の紀元前113年に銅鼎が発見されたことからこの年を元鼎4年としたのが始まりとされる。武帝は遡って自らの治世の最初から元号を付けている。この制度は中国では中華人民共和国により廃止されるまで続き、朝鮮・日本など周辺各国でも採用された。
またそれまでの10月を正月としていた顓頊暦に代わって立春を正月とする太初暦を採用した。
漢の五銖銭
当時の貨幣単位は銭と金である。銭はそのまま銭一枚のことで、金は金1斤のことであり、大体1万銭に相当する。
戦国時代においては各国がバラバラに貨幣を発行していたが、始皇帝はこれを銅銭の半両銭(約8g)に統一し、国家だけがこれを鋳造できるとした。漢でもこれを受け継いだが、高祖は民間での貨幣の鋳造を認めたため、実際には半両の銅を使わずに半両銭として流通する悪銭が増えた。
その後、貨幣鋳造の禁止と許可が繰り返され、政府は貨幣の私鋳の防止を試みて三銖・八銖などの銭を発行するが私鋳は止まなかった。そして武帝の紀元前113年に上林三官という部署に新たな五銖銭(約3.5g)を独占的に鋳造させることにした。この五銖銭は偽造が難しく、これ以後私鋳は大幅に減り、五銖銭以外の銭は全て回収され、五銖銭に鋳造された。五銖銭はその後も流通を続け、後漢・魏晋南北朝時代においても引き継がれ、唐で開元通宝が作られる621年まで続いた。
この五銖銭の発行を契機として、それまで急速に発展してきた貨幣経済は衰退に向かう。
税制
税の徴収は人頭税・土地税・財産税の3種類に分かれ、更に労働税として兵役と徭役がある。人頭税には16歳から56歳までの男女に付き年間120銭=1算を収める口算と7歳から14歳までの男女に付き20銭を収める口賦がある。財産税は咨算と呼ばれ、財産1万銭に付き年間1算を収める。口算と咨算を合わせて算賦と呼ばれる。また商人は口算を2倍を収めねばならない。農業に対する税は収穫高の30分の1を収めることになっていたが、この税額は極めて薄く、時にこの税は廃止されたこともあるので国家財政の主要な部分は占めていなかったようである。
労働税は年間に決まった期間を労働あるいは周辺防衛に費やすことを義務付けられいたが、300銭を収めることで労働を逃れることが出来た。この銭のことを更賦と呼ぶ。
武帝期になると相次ぐ遠征費用を捻出するために算緍銭(緍は糸偏に昏)と言う税を加えた。これはそれまでの咨算の額を引き上げて、商人には財産2千銭に付き1算(一般民衆の5倍)を手工業者には4千銭に付き1算(一般民衆の2.5倍)を課すものである。またそれとは別に個人が持つ車と船に対する税・算車令と算船令を出し、更に口賦の額を3銭引き上げて23銭とした。
この増税は主に商人が対象であり、#豪族で述べる抑商政策の一環でもある。またこの令には罰則があり、財産を偽って報告した者は財産を没収の上に国境警備へと強制的に回されると言う非常に厳しいものである。この増税策により相当な額が国庫に流れ込み、武帝の政策を支えたが、その一方で破産した商人達は地方の窮迫農民と手を組んで盗賊行為を働くようになり、武帝末期の社会不安の主要素となっている。
農業
成帝期に書かれた農書『氾勝之書』には当時生産されていた農産物として、キビ・ムギ・イネ・ヒエ・ダイズ・カラムシ・アサ・ウリ・ヒサゴ・イモ・クワなどを挙げている。
当時の農業技術はどのようなものであっただろうか。戦国時代から鉄制農具と牛耕が普及し始め、大幅な生産力の向上をもたらした。しかし漢代においてはいまだ地方によっては普及していないところも多かったと考えられ、地域による生産力の格差はかなり激しかったと思われる。この時代には苗床が作られず、二毛作もまだ存在しない。
『漢書』には武帝末期の趙過という人が考えた代田法という農法があることを記述している。その具体的な内容に付いては記述が曖昧でどう解釈するかに議論があるが、二頭のウシと三人の人間によって行われるものであったという。しかし民間でウシを二頭持っている者は少なかったのであまり好まれなかった。そこでウシを使わない方法も考案されたという。また『氾勝之書』には区田法という農法が記されている。
牧畜は、一般農民でもブタやニワトリ・イヌなどを飼うことはごく普通に行われており、家畜小屋が併設されていた遺跡も多数発掘されている。ウマやウシの生産はこれとは別に豪族たちの手によって大規模な牧場で行われ、特に遠征が相次いだ武帝期にはウマの生産は奨励されたためにこれで財産を築いたものも多かった。
手工業
商業と同じく戦国から秦漢は手工業の発展時期でもある。手工業者は商人と同じく差別された存在であったが、それを物ともしない強い経済力を誇っていた。
この時代においては前述したとおり、一般民の間ではまだ自給自足の風が強く手工業で賄われるのは一般民では作り得ない特別な道具(例えば鉄制農具など)かあるいは王侯貴族たちが使うための品に限られる。
王侯貴族たちが使うための品は主に官営の工場である尚方・考工室・東園匠・織室などが作り、これは全て少府の管轄するところである。尚方では宮中にて使うための武器・装飾品・銅器などが作られ、考工室ではより実用的な武器・漆器・銅器などが作られた。東園匠では貴人の埋葬に使うための棺や明器(埋葬者が死後に使うために置かれる実物を模した土器)などが作られ、織室では儀礼用の織物が作られた。また大司農では農民に支給する鉄制農具が作られた。
民営の手工業として最も大きなものは塩と鉄で専売制実施と共に禁じられはしたが、密売が絶えなかった。これに関しては#専売制で後述。それ以外にも酒や絹織物などは手工業として成立していたと考えられる。
専売制
武帝期の紀元前119年に始まった塩鉄専売制は国家財政の非常に重要な位置を占めており、武帝末期には既に必要不可欠のものとなっていた。塩も鉄も製造には厳重な監視が付いており、その産物は全て国家が買い取り、密造は厳罰に処せられた。塩製造を管理する官吏を塩官と呼び、鉄の方は鉄官と呼ぶ。しかし政府の目をかいくぐって密造を続ける者も多く、それらは官製のものに比べればはるかに安価であったので民衆からも喜ばれた。
武帝死後に「民衆と利益を争うのは儒の倫理に反する」として専売制の廃止が話し合われたことがあった。この議論の模様は後に『塩鉄論』という書物に纏められるが、この実態は内朝の代表である霍光が外朝の代表である桑弘羊を追い落とすために画策したものであった。桑弘羊はこれに反論して退けるが、このことは儒教の勢力がそれほどに強くなったことを示してもいる。その後、桑弘羊は別件で殺されるが、霍光政権下でも廃止されることはなかった。
その後の11代元帝期になると儒教の信奉者である元帝の意向により、一時期廃止された。しかし財政が立ち行かなくなることが明らかであり、すぐに戻された。
社会
漢代においては皇帝・豪族・小農民の三者が社会の主な構成要素である。このうち、皇帝と小農民の関係が最も重要であり、皇帝および政府はこれら小農民一人一人を個別に支配しようとしていた。これを個別人身的支配と呼ぶ。
農村・都市
当時の農民の1戸の家族の平均的な人数は5人で、竪穴式住居に一家同居する者が多かった。一家が所有する耕作地は大体100畝(660a)でここから年間150から200石(4.6tから6.2t)ほどの収穫があった。戸内の者は戸主を筆頭として戸籍に登録され、これを基として課税や徴兵が行われた。
現在見つかっている漢代の竪穴式住居跡は5、6人が同居するのが精一杯の広さであり、次男・三男がいた場合にはいずれは分家する他はないのであるが、分家するほどの財産を一般農民が持つはずもなく、財産は一人だけが受け継ぐのが基本であった。無一文の者たちは国家の官田を耕したり、遊侠になったり、豪族たちの仮作人(小作人)・用心棒になったり、悪い者は奴婢に身を落としたと考えられる。ただしそのような末路が見えている訳であるから最初から子供を一人以上作らない、できたとしても間引きされたという場合も多かったと考えられる。
概ね100戸が纏まって里(100とは必ずしも限らない)となり、その里がいくつか集まった集落は大きさや重要度によって上から県・郷・亭と呼ばれるようになる。[17]
漢以前の戦国時代においては集落は基本的に城塞都市であり、これを邑と呼ぶ。邑は元々は氏族が一纏まりになって生活するものであり、そこからは異姓の者たちは排除された。しかし漢代にはこれが変化して、異姓の者でも受け入れられるようになっていた。集落の周辺は城壁が囲っており、更に内部も里ごとに土塀(閭)で区切られていた。閭には一つ門(閭門)が設けられており、夜間に閭門を抜けることは禁じられていた。農民は朝になると城門を抜けて集落の外に出て、耕作に従事し、日が暮れるとまた門を抜けて集落の中に戻ってくるというサイクルを繰り返す。戦国までは城壁の中にしか居住していなかったが、漢代になると貧しい者は城壁の外に家を構え、より遠くにある田畑まで行く生活をしていた。
集落の中心には社(しゃ)があり、祭礼が行われた。有力者は父老と呼ばれ、纏め役となる。父老の中から県三老・郷三老が選ばれ、それぞれ県・郷の纏め役となった。また大きな集落の中心には市があり、交易が行われ、集落の者が集まる場となった。この市は自然発生的なものではなく、政府により管理されるものである。そのため罪人の処刑も市で行われる。
首都長安
漢の長安城は現在の西安市から北西に5kmほど離れた渭水の南岸にあり、渭水の対岸には秦の咸陽城があった。高祖は初めは周の都であった洛陽に都を構えるつもりであったが、婁敬と張良の進言により長安を都とし、その後蕭何によって広壮な宮殿が造られた。1956年より遺跡の発掘が進められている。
漢の長安は唐の長安とは違い、方形ではなく歪な形をしていた。それぞれ城壁は東は5940m・西は4550m・南は6250m・北は5950mある。東西南北に3つずつの計12の門があり、これも夜間には閉じられる。主な建築物として、
長楽宮
都の東南部にあり、これは基は秦咸陽の離宮であった。高祖はここに住んだが、その後は皇后の住居となった。
未央宮
西南部にあり、蕭何により建造され、恵帝以後の皇帝の住居となった。
北宮
その名の通り北部にあり、廃された皇后などが住んだ。
桂宮
これも北部にあり、武帝の時に作られた。
また丞相府・御史府などの三公九卿府があったが具体的な位置は不明。北西部には東市と西市があった。
当時の長安城内の人口を宇都宮清吉は10万9421人と推定している。
爵制
漢の爵制は秦のものを受け継いでおり、最低の一位・公士から最高の二十位・列侯[21]までの全部で20段階あり、列侯の上に諸侯王があり、更にその上に皇帝がある。
爵位を持っているものはそれと引き換えに免罪特権があり、これを求めて金銭による売買が行われた。
公士 上造 簪裊 不更 大夫 官大夫 公大夫 公乗 五大夫 左庶長 右庶長
左更 中更 右更 少上造 大上造 駟車庶長 大庶長 関内侯 列侯
漢代においては皇帝の即位や皇太子の元服などの慶事に際して一般民に対しても一律に爵位の授与が行われており、前漢・後漢合わせて200を超えた回数が行われている。このことは年齢が高くなればそれだけ爵位が高くなるということに繋がる。漢が行った爵位の授与は当時崩壊しつつあった「歯位の秩序」、つまりは年長のものが偉いという秩序を「(年齢に応じて高くなる)爵位の秩序」によって再構成し、村落の共同体としての機能を国家が肩代わりし、民衆一人一人に対して漢政府が支配力を及ぼそうとする目的があったとされる。
このうち、七位の公大夫までは民衆でも得ることが出来、九位から上は官吏でなければ得ることは出来ない。官吏は民衆の秩序からは飛び出た存在であり、郷挙里選によって官位を得た豪族が民衆の支配者となれたのもここに一因があると考えられる。
豪族
前漢における豪族は後代に比べればまだその勢力は小さい。しかしその存在は大きな社会問題となっていた。
一般農民の住む家は5人が住むのがせいぜいであったが、豪族は2階立て・3階建ての豪邸に数世代の家族が同居していた。また回りを威圧し、盗賊を防ぐために常日頃からゴロツキを用心棒として雇い、家に住ませていた。そして所有する土地に小作人や奴婢を使役して耕作させ、ここから挙がる収益で更に財産を積み重ねていった。小作人はその収穫の1/2から2/3を地主に収め、残りで細々と生活していくことになる。これら豪族は里の父老となっている場合も多く、里の住民たちに命令を下していた。更に選挙で一族の者を官吏となし、更に強い支配力を郷里に対して発揮した。
豪族たちがそのような財産を積み上げたのは戦国時代から貨幣経済が活発化し、それに乗って行った商業が基になっていた。文景の治の時代の平和により、商人たちは富を蓄え、それに伴い富の偏重・農民が商人に転職することが増えたことによる農村人口の減少・中小農民の窮迫など数々の社会問題が表面化してきた。これらの商人は経済力を元に窮迫した農民達から土地を買い取り、農民達を小作農として囲い込み、地方に強い力を持って豪族化して行った。
これらの勢力を抑えるために前漢では度々抑商政策を取っており、#税制で述べた税制上での差別や#身分制に置ける差別政策を行ったが、あまり効果はなかった。晁錯は抑商政策の一環として穀物で税を納めた者に爵位を与えると言う政策を提案した。それまでの税は銭で収めることになっていたが、農民達の収入は当然穀物であり、徴税期に一斉に農民が穀物を売りに走ることで商人に足元を見られて買い叩かれていたのである。この策により商人が積極的に穀物を買い求めて、農民に金銭が多く入り、窮迫することを防ごうとしたのである。最高では18位の高位まで得ることが出来たので、この政策は効果を上げた。
抑商政策で最も特筆すべきは武帝期の均輸・平準法である。これらの政策は武帝の元で経済的手腕を振るった桑弘羊が実施したものである。均輸法は全国の物価を調査して安い所の物資を買い、高い所で売り払うことで国家収入と共に物価の地域格差をなくすことを図るものである。平準法は安い時期に物資を買い込んで国庫に積んでおき、それが高騰した時に売り出して国家収入と共に物価安定を図るものである。この政策には物価の安定と共に商人が物資の取引に介在することで商人に利益を与えることを防ぐ目的がある。この政策はかなりの効果を上げ、相当額が国庫に流れ込んだ。
この武帝の抑商政策と五銖銭の発行とを契機として、以後中国の貨幣経済は衰退に向かう。それに伴い豪族たちは武帝期から後漢にかけて自らの持つ所有地の中でほぼ完全な自給自足体制を作り上げた。この中には奴婢や小作人を囲い込み、周辺の郷里との関係を深めて共同体を形成していく。
遊侠
前述したとおり、皇帝・豪族・小農民が漢の社会の主要な構成員であるが、それに加えていわばこれの埒外に存在したのが遊侠である。
遊侠は小農民の次男・三男、罪を犯して郷里にいられなくなった者、など社会から排除された境遇のものたちが集まり、勢力を築いていった。それを取りまとめた者が『史記』『漢書』の遊侠列伝に収められている朱家や劇孟といった人物たちであり、その勢力は豪族どころか中央政府すら無視し得ないものになっていた。
例えば呉楚七国の乱の際に政府側の総大将であった周亜夫は劇孟に対して「もう諸侯たちが貴方を味方につけていると思ったが、そうではなかった。これで東には心配する者がいない。」と述べている。国を二分するほどの大乱において影響力を発揮できるほどの勢力があったということである。
増淵龍夫は遊侠の持つ任侠精神は前漢においては遊侠に留まらず、全ての人間関係に敷衍されており、皇帝と官僚の関係もまたこの任侠精神に基づくものだと述べている。この時代の時代精神に任侠が深く関わっていたことは間違いないであろう。『史記』『漢書』にある「遊侠列伝」と『後漢書』にある「方術列伝」「逸民列伝」はそれぞれ前漢と後漢の時代精神の違いを如実に表していると言える。
身分制度
法の上での差別を受けていたのは奴婢と罪人であり、これに対して一般民は庶人ないし良人(良民)と呼ばれる。
奴は男奴隷・婢は女奴隷のことで、借金により身を売らざるを得なかったものなどが直接買主に売られるか、あるいは市場にてウシやウマと同じく檻に入れられて売買された。主な購入層は豪族であり、「耕はまさに奴に問うべし。織はまさに婢に訪うべし」という言葉があるように豪族の土地を耕作したり、手工業に携わるなどをしていた。また政府によって管理される官奴婢もあり、こちらは罪を犯した官吏とその家族・戦争捕虜などがその主な供給源で、国有地(官田)の耕作や土木工事などに使役されていた。奴婢は主人の財産として看做され、戸籍にも登録されず、奴婢の子供もまた奴婢とされた。
奴婢や罪人は法の上で明確に差別された存在であるが、それとは別に庶人階級の中で蔑視されていたのが商人・手工業者・医者などといった職業である。
文化
史書(『後漢書』)によれば、後漢代の西暦105年に蔡倫が樹皮やアサのぼろから紙を作り、和帝に献上したとされている。この記述より、従前は紙の発明者は蔡倫だとされたこともあった。しかし、現在では、前漢代の遺跡から紙の原型とされるものが多数見つかっている。こんにち、世界最古の紙は中国甘粛省の放馬灘(ほうばたん)から出土したものだといわれており、この紙には前漢時代の地図が書かれ、年代的には紀元前150年頃のものと推定されている。
思想
漢代の思想史を大まかに言えば、前漢初期に黄老思想と刑名思想が主導権を取り、董仲舒の建言を期に儒教が勢力を伸ばし始め、元帝の時に完全な主導権を握り、王莽から光武帝の時代にかけて儒教国家と呼ぶべき体制が出来上がったと言える。
儒教
始皇帝の焚書と項羽の咸陽焼き討ちにより儒教の経書は一旦そのほとんどが失われた。漢初に口述筆記による復元が行われ、さらにその後に壁の中に隠しておいたものが発見されるなどして経書が復元される。
このうちあるものは当時の書体である隷書体で書かれており、別のものは隷書体以前の書体で書かれていた。このことから前者を今文・後者を古文という。同じものを元にしているのであるから内容も基本的に同じであるが、微妙な差異があり、どちらがより正しく聖人の教えを伝えているかが論争になった。更に当時の経学は経書一つを専門的に学ぶものであり、そのためどの経書に学ぶかでこれも学派が様々に分かれることになった。一例を挙げれば『尚書』(『書経』)においては伏勝が壁に埋め込んで焚書の難を逃れたという『今文尚書』と景帝時代に孔子の旧宅の壁の中から発見されたという『古文尚書』がある。
このうち、『春秋公羊伝』を学ぶ公羊学派の立場から儒教の新しい地平を開いたといえるのが董仲舒である。董仲舒は武帝に対して天人相関説・災異説を唱え、儒教の教義を皇帝支配という漢の支配形態を正当付けるように再編した。董仲舒は武帝に対して儒家を官僚として登用すること・五経博士の設置などを建言した。[25]
五経博士とは五経である『詩経』・『書経』・『礼経』・『易経』・『春秋公羊伝』それぞれを専門に学ぶ博士のことで、のち宣帝の時に増員されて十二となっている。
しかしこのようにテキストがばらばらな状態であることは非常に不便である。そこで成帝期の劉向・劉歆親子により、テキストの整理が行われ、これらは一本化されることになった。現在伝わる経書はこの時に整理されたものを基にしているものが多い。
また劉向・劉歆親子は古文派であり、この時代に新しく発見された古文である『春秋左氏伝』・『周礼』が持て囃されるようになる。のち、『周礼』は王莽の政権樹立の際に論理的根拠として使われ、『左氏伝』は魏晋以降、三伝の中の中心的位置を占めることになる。
また前漢末期には緯書が流行を見せることになる。これに関しては#神秘思想で後述。
道家
前述したとおり、漢初に思想界で主導権を握ったのは黄老の道と呼ばれる思想である。黄は黄帝・老は老子のことで、道家の分派の一つである。信奉者として挙げられるのが高祖の功臣の一人曹参である。曹参は斉の丞相を努めていた際に蓋公なる人物がこの黄老の道を良く体得していたのでこの言葉を聞いて斉を治めたという。その後、曹参は蕭何の跡を受けて中央の丞相となったが、蕭何の方針を遵守し、国を良く治めた。
これ以外にも景帝の母・竇太后は黄老の道を信奉していたと言い、当時の支配階層の間で黄老が主流であったことが分かる。『史記』「楽毅列伝」には曹参に至るまでの黄老の道の学統が記されており、河上丈人という人物がその初めにある。この河上丈人という人物が何者なのか、実在の人物なのかなどは全く分からない。また黄老の道がどこから始まり、どのような発展の道を辿り、漢代においてなぜそれほどに普及したか、これもほとんど分からない。その後は老荘など道家の他の派と合流し、その姿を消したらしい。
神秘思想
前漢は儒教の伸張が目立つ時代であるが、同時に神秘思想もまた伸張していた。
例えば武帝の傾倒した神仙思想や当時流行した巫蠱など。そして神秘思想の中でも高度に理論化され、後世にも強い影響を与えたものとして陰陽五行説・天人相関説・災異説がある。
陰陽五行説はこの世の全ての事象は木火土金水の五行に分類され(例えば方角は木→東・火→南・土→中央・金→西・水→北となる。)、それが循環することでこの世が成り立っているという考えである。天人相関説・災異説は万物の総覧者たる天と人間は連関しあっておりもし人間が誤った行いをした場合、例えば時の皇帝が暴政を行うと、天はこれに対して天災を起こすという考えである。
五行に基づいて漢はどれに当てはまるかが前漢を通じて何度か話し合われており、紀元前104年に一旦漢は土徳の王朝であるとされた。秦は水徳の王朝であるとされており、その秦を克した[27]ので土徳とされたのである。しかし漢は火徳の王朝であるとの主張が哀帝期に劉向・劉歆親子によってなされた。劉歆によれば周は木徳であり、そこから生まれた漢は火徳であるとする[28]。これが王莽によって是認され、以後漢は火徳の王朝とされた。後漢末に起きた黄巾の乱や漢から禅譲を受けた魏の最初の元号が黄初であることは黄色が火徳の次に来る土徳[29]の色だからである。
天人相関説・災異説は董仲舒が唱えたものであり、この時代の儒教は多分にこういった神秘思想を含むものであった。董仲舒以降になるとこの神秘性は更に強くなり、未来までもこれにより予言できるとされた。これを讖緯という。
讖とは自然現象が何らかのメッセージを残すことであり、例えば昭帝時代に葉っぱの虫食い跡が文字になっており「公孫病已立」と読めたという。これは後に宣帝(病已は宣帝の諱)が皇帝になることを示していたとされた。緯とは経書に対しての緯書のことである。聖人の教えを書き記した経書であるが、経書はその大綱を示したものであり、現実の事柄に付いては緯書に記されているとされた。経はたていと・緯はよこいとのことで、たていととよこいとが揃って初めて布が出来上がるように緯書があってこそ聖人の教えが理解できるとされた。しかしその実態は漢代の人による偽作であると考えられる。なおこの讖緯のことを記した書物全てをひっくるめて緯書と呼ぶ場合もある。
前漢末にはこの緯書が大流行し、緯書を学ばないものは学界で相手にされないような状態になった。この状況を最大限に利用したのが王莽である。例えばある者が井戸をさらった所、その中から石が出てきてそこには「安漢公莽に告ぐ、皇帝と為れ。」と書かれていたと王莽に報告され、これを受けて仮皇帝となった。もちろんこの石自体が王莽の仕込んだことであると思われる。前述した漢を火徳の王朝としたことも王莽が自身を舜の子孫であると吹聴していたことに繋がっている[30]。
これらの神秘思想は前漢が滅び、後漢が建ってからはますます広まっていく。
仏教
仏教は、前漢末の紀元前後に西域より伝来した。大乗仏教に属する系統で、後漢以後、中国各地で受容された。
歴史の分野で真っ先に取り上げるべきは何と言っても司馬遷の『史記』である。二十四史の第一であり、後世の歴史家に与えた影響も非常に大きい。『史記』は最初は司馬遷の個人の著書として書かれたものであるから、後の欽定史書と違い自由に司馬遷の思想が表われており、歴史書としてだけではなく、文学作品としても高い評価がある。
『史記』以外では陸賈『楚漢春秋』、劉向『戦国策』『新序』『説苑』などが挙げられる。
漢詩
前漢代には漢詩(例えば杜甫・李白のような)はまだ確立した存在ではなく、その基となる二つの流れが存在していた。
一つは『詩経』を源流とする歌謡の流れである。歌謡という言葉が示すように『詩経』に収められている詩は元々は音楽や舞踏と共に演奏されるものであった。この流れを受けて、武帝は楽府(がくふ)という部署を作り、李延年をその主管とし、民間の歌謡および西域からもたらされた音楽を収集し、新しい音楽の流れを作り出した。このようなものを楽府体(がふたい)と呼ぶ[32]。楽府はその詩の種類によって7・8種類の楽器を使う。管楽器では竽(大型の笙。zh:竽)・笙・笛・簫、弦楽器では瑟(大型の琴。zh:瑟)・琴・箜篌(ハープに似た楽器。zh:箜篌)・琵琶などである。楽府体の大きな特徴は五言詩であること、また賦に比べて表現の上では質素であり、民間の歌謡を淵源としていることから民衆の素朴な感情が出ていることなどである。これの代表としては李延年の「歌詩」が挙げられる。
もう一つは『楚辞』を源流とする賦の流れである。戦国から前漢初期には楚辞風の七言詩である「楚声の歌」と呼ばれる詩が盛んに謡われた。例えば高祖の「大風の歌」、項羽の「垓下の歌」などである。それが武帝期の司馬相如に至り大成され、賦が成立する。賦の特徴としてはまず『楚辞』を引き継いで七言であること、そしてある事柄に付いて描写に描写を重ね美しい言葉と対句で埋め尽くされたある種過剰なまでの表現である。司馬相如以外としては賈誼や武帝が挙げられる。司馬相如の代表作として「上林賦」が挙げられる。
芸術
前漢は既に2千年も前のことであり、その間に幾多の戦乱が起き、漢代の美術品は地上世界にはほとんど残らなかった。現在残る漢代の美術品はほとんどが地下世界、墳墓の中や窯跡など土の中に埋まっていたものである。このようなものを土中古という。
墳墓
漢代では埋葬された死者は死後においてもそのまま墓中で生活を続けると考えられていた。始皇帝の兵馬俑も始皇帝が死後の世界で使うための兵士だった。これと同じように漢代の墳墓からは死者が使うための食器・家具などが大量に出てくる。王侯の墳墓などは実物そのものを入れる場合もあったが、それであると費用が莫大になってしまうために実際のものを模した土器を代わりに入れた。これを明器という。明器は非常にバリエーションに富み、食器・家具・家屋、ニワトリ・イヌなどの動物・身の回りの世話をするための奴隷・更には楽師や芸人といったものまであり、当時の生活の様子を物語ってくれる。もちろん本物の青銅器・陶磁器・漆器も大量に出土している。そのほかの副葬品として竹簡・木簡類が見つかることがあり、漢代の貴重な一次史料となっている。
漢代の出土物として特筆すべきは、一つは馬王堆漢墓にて見つかった生けるがごとき女性の死体である。この女性は長沙国の丞相をしていた利蒼という人の妻で、発見されたときには頭髪も皮膚もきちんと残っていた。しかも皮膚には弾力が残されており、指で押すと元に戻ったという。
もう一つは劉勝の墓・満城漢墓などで発見されている金縷玉衣である。玉の板数千枚を金の糸で縫い上げ、これをもって死体を蓋っている。地位によって銀縷・銅縷の三段階があり、絹糸で縫う絲縷もある。玉には腐敗から死体を守る効果があると信じられていた。『西京雑記』にはこの金縷玉衣に付いて書かれていたのだが、莫大な費用がかかる金縷玉衣は実際に見つかるまでは誇張されたものであると思われていた[34]
絵画
墳墓の壁には壁画が描かれていることが多く、神話や歴史故事・戦争あるいは被葬者の人生などその題材は多岐にわたる。また壁の装飾に彫刻を施している場合も多いが、立体性はほとんどなく、これは彫刻というよりも絵画の類と見るべきものである。このようなものを画像石と呼ぶ。宮殿の装飾などには非常に大規模な彫刻が施されたとの記録があるが、現存していない。
壁画以外に特筆すべきは馬王堆漢墓より発見された『彩絵帛画』である。上部は天上世界であり右の太陽の中に日烏が月の中にヒキガエル(羿の妻の嫦娥が変化した姿)がいる。太陽と月の間には女媧がいる。中央部は現世であり被葬者の利蒼の妻が次女を引き連れている。下部は地底世界であり大地を支える巨人や亀などが描かれている。
陶磁器
この時代の陶磁器は基本的に戦国からの様式を引き継ぐものであり、古代美術の終点が漢であると考えられている。この後の三国時代・魏晋南北朝時代には新たな波が生まれるが、その端緒もこの時代に見られる。
戦国では灰釉が主流で鉛釉もあったが、出土例は極めて少ない。それが漢代になると急速に普及し、緑釉(酸化銅)・褐釉(酸化鉄)の二種類が盛んに使われる(ギャラリーの酒器が緑釉)。これらは低温度(800度ほど)で焼かれ、強度的にはあまり強くなく、主な用途は明器であったらしい。ただし出土していないだけかもしれないが。当時の上層は日常的な食器としては主に漆器を祭祀用に青銅器を使い、下層は灰釉の陶器を主に使っていたようである。所がこの鉛釉は漢代だけの流行で、次の魏になると急速に衰退した。
この時代の陶磁器は基本的に青銅器の代用品であり、形もまた青銅器を模したものが多かった。しかしそういった伝統に縛られない華南の窯ではそれまでには見られない双耳壷などが登場しており、また南のベトナムではわずかながら青磁が出土している。
服飾
漢代において周代より続く深衣は男性はあまり着なくなった。深衣とは十二単のように袍という衣を何枚も重ねて着るものである。しかし活動的な漢帝国にはこれは似合わず、重ね着せずに袍が一枚・下着が一枚というのが一般的になった。
身分の高い男性は「長袍」と呼ばれる膝くらいまである上着と「褲」という袴と「禅」という下着(上下が繋がっている)を着る。長袍はすその形で曲裾と直裾に分かれる。元は曲裾が正式な礼服であり、直裾は公式の場では着てはいけなかった。しかし次第に曲裾は廃れていき、直裾が主流となった。禅は外にいるときは下着であるが、家にいるときは禅のみですごすこともあったらしい。全体的に布を多く使っており、ゆったりとあまりきつくは締め付けないように作られている。そして大事なのが冠である。冠には非常に細かい形式があり、その形によって役職や地位などが分かるようにされていた。足に履くものは、祭祀の際に履く「舃」・出仕する際に履く「履」・家で履く「屨」・外出の際に履く「屐」がある。舃や履など大事なものは絹、屨は葛や麻で編まれた。屐は木で作られており、歯が二枚ある下駄のような形をしている。また佩綬(腰に下げる飾り紐)が重んじられ、玉や真珠で飾られた。恋愛の告白には佩綬を送ることがよく行われていたようである。
労働者たちは労働しやすいように短い袍と長い褲を着て、労働の時には足のすそを上に巻き上げる。士大夫は冠であるが、庶民の男性は頭巾をかぶる(士大夫も私生活では頭巾をかぶる)。靴は履かず素足が基本である。
一方、女性は前代から変わらず深衣が一般的であった。上下一体型の袿衣・禅衣と腰までの長さの「襦」・スカートである「裙」を組み合わせる場合とがある。髪形には非常に趣向が凝らされ、その髪飾りも鼈甲や玉や金などを使われた美しいものであった。
国際関係
高祖時代に南越国・衛氏朝鮮の君主をそれぞれ皇帝に属する王として冊封した。これがいわゆる冊封体制の始まりとされている。皇帝に直接仕える臣下を内臣と呼ぶのに対して、南越や朝鮮の君主たちを外臣と呼び、その国を外藩と呼ぶ。
武帝時代初期の漢の国際関係
北方
楚漢戦争期、匈奴では冒頓単于が立ち、東胡を滅亡させ、月氏を西に追いやり、烏孫などを支配下に置いて北アジアに覇を唱えた。更に韓王信が封じられていた代に大軍を持って侵入した。韓王信は匈奴に寝返り、怒った高祖は自ら親征するが冒頓の策に嵌り、平城にて七日間にわたって包囲され、匈奴と和平して何とか帰ってくることが出来た。
この時に結ばれた盟約が「漢と匈奴は兄弟[44]となる」「漢の公主を匈奴の閼氏(皇后)とする」「漢から毎年贈り物を匈奴に贈る。」と匈奴側に圧倒的に有利なものであった。
その後、呂后時代に冒頓から呂后に対して無礼な親書が送られてきたために匈奴攻撃が計画されたが、沙汰止みとなった。文帝時代には老上単于・軍臣単于らによって何度か攻撃が行われ、そのたびに和平を結びなおすということが行われており、平城以来の力関係は明らかに匈奴の優勢であった。
新たに即位した武帝はこの状態に不満を持ち、張騫の西方への派遣を行うなど匈奴攻撃の準備を整えていた。そして紀元前134年に馬邑[4]の土豪の聶壱という者が考えた策謀を採用し、対匈奴戦争を開始した。聶壱の策というのは軍臣単于に対して「叛乱を起こして馬邑を占領し、匈奴に献上する」という偽りの手紙を送り、軍臣を誘き出して討とうというものである。この作戦は軍臣により察知されて失敗に終わり、聶壱は誅殺された。これ以後、紀元前119年まで計8回の遠征が行われる。
1回(紀元前129年)から6回(紀元前123年)までの主役となったのが衛青である。第1回の遠征において衛青・李広など4人の将軍がそれぞれ1万騎を率いて各方面から匈奴に攻め込んだが他の将軍は全て破れ、衛星のみが匈奴の首級数百を得た。これを皮切りに第3回(紀元前127年)ではオルドスを再び奪い、第4回(紀元前124年)では匈奴の右賢王(匈奴の右翼・西側の長)を敗走させ、大将軍に登った。
7回(紀元前121年)の遠征は衛青の甥・霍去病が主役になった。第7回では春・夏の二回遠征を行い、匈奴の渾邪王は数万の捕虜と共に漢に投降した。更に続く第8回(紀元前119年)では衛青は伊稚斜単于の軍を大破し、霍去病も匈奴の王・兵士数万を捕虜とする大戦果を挙げ、2人共に大司馬とされた。
この結果、匈奴は本拠を北へと移さざるを得なくなり、漢は新領土に武威・酒泉・敦煌・張掖の河西四郡を設置した。以後、匈奴は二十年近く漢の近くには姿を現さなくなった。その後、漢が西域に勢力を伸ばすと再び匈奴は漢と敵対する。西域を漢に支配されるということは交易の利権を奪われることであり、匈奴にとって死活問題であった。
これに対して武帝は紀元前103年から再び軍事行動を開始する。ここから紀元前90年に至るまで李広利将軍を主として数度の遠征が行われたが全て失敗に終わる。李陵が奮戦しながら罪に落とされ、司馬遷が宮刑されたのもこのころである。最終的に李広利は匈奴に降伏し、武帝は「輪台の詔」を出して遠征により民衆が苦しんだことを自ら批判した。
一連の戦争により漢の疲弊も激しかったが、匈奴の疲弊もまた激しかった。この頃になると単于の権威が衰え、漢と交戦・和平どちらを取るかで内部争いが起きるようになった。更に宣帝に至り、西域都護が設置されて西域を完全に押さえられるようになると匈奴の劣勢は明らかになり、併せて内部抗争も激しくなって一時は同時に単于が五人立つという異常事態となった。
そして紀元前58年に匈奴に呼韓邪単于が立つが、同時に呼韓邪の兄が自立して郅支単于となり、匈奴は東西に分裂した。これに困った呼韓邪は紀元前51年に自ら漢に入朝し、宣帝は呼韓邪に「匈奴単于璽」を授けて呼韓邪を漢の外臣とした。更に元帝の紀元前36年には烏孫を攻撃した郅支単于を攻めてこれを討ち取ってその首を長安に晒した。以後、前漢の終わりまで北方は安定した時期を迎えた。
西域
紀元前139年に武帝は張騫をソグド地方にいた大月氏に派遣して匈奴の挟撃策を説くがこれは受け入れられなかった。しかしこの張騫の大旅行により、それまで判然としていなかった西域の情勢が判る様になり、これ以降は漢の視野に西域経営が入ってくることになる。
張騫以後は大宛(フェルガナ)・大月氏・安息(パルティア)・身毒(インド)などの西域諸国との交易が始まり、西方からブドウ・ザクロ・ウマゴヤシなどが輸入されて、漢からは絹織物が輸出された。交易にはいわゆるシルクロードが利用された。
武帝は西域諸国の中でも匈奴に属していた楼蘭・姑師を服属させるために紀元前108年に遠征軍を出し、更にその後も2回に渡って姑師へ遠征している。また大宛の汗血馬(血の汗を流すと言われる種類の馬。すばらしく速いとされる)を得るために李広利将軍を遠征させて、苦戦の末に大宛を服属させている。
西域都護を創設した頃になると匈奴が分裂したこともあり、ほぼ西域の平定事業は完成した。その後は前漢の最後まで安定期が続いたが、王莽の異民族対策が失敗したことでこの地方はしばらく漢から遠のくことになる。
ベトナム・南西部
始皇帝はベトナムに遠征軍を送ってここを直轄領としたが、秦滅亡後にはこの地に漢人趙佗が自立して南越国を建てた。劉邦の時代には南越王に冊封して懐柔していたが、その後何度か反乱を起こしていた。
これに対して武帝は紀元前111年に南越の内紛に乗じて遠征軍を送り、南越を滅ぼして直轄領にした。これ以降10世紀の呉朝成立までの長い期間、ベトナムは中国の支配下におかれることになる。
南西部には夜郎自大の言葉で有名な夜郎(貴州省)や滇(てん、滇の字はさんずいに真、雲南省)などを初めとした群小国が多数あり、この地の民族に漢の官吏が殺されたことを契機としてこの地方の民族を解体して直轄支配に置いた。しかし夜郎と滇には王号を与えて外藩とした。
朝鮮
朝鮮に関しては前述した通りに衛氏朝鮮を滅ぼして、紀元前108年に朝鮮半島北部に四郡を置いた。
楽浪郡(現在の平壌付近→313年に高句麗に滅ぼされる。)
玄菟郡(現在の咸鏡南道咸興→遼東半島→撫順→315年に高句麗に滅ぼされる。)
真番郡(楽浪郡の南。正確な位置は不明。→紀元前82年に廃止)
臨屯郡(咸鏡南道の南部から江原道にかけて→紀元前82年に廃止)
四郡は高句麗の興起するにつれて保持することが難しくなり、玄菟郡が高句麗に滅ぼされたのを最後に中国による朝鮮半島北部の直轄支配は終わる。 朝鮮半島南部にはこの時代は100国近くの部族国家があり、三韓(馬韓、辰韓、弁韓)といわれる部族国家連合が存在していた。
日本列島にも数百の部族国家があり、前代に引き続いて中国との交流により様々な技術文化が日本にもたらされた。
1、汉朝
(公元前202年 —公元 220年)
汉朝是中国历史上继短暂的秦朝之后出现的朝代,分为“西汉”(前202年—8年)与“东汉”(公元25年—公元220年)两个历史时期,后世史学家亦称两汉。
西汉为汉高祖刘邦所建立,建都长安;东汉为汉光武帝刘秀所建立,建都洛阳。其间曾有王莽篡汉自立的短暂新朝(公元8年-公元23年)。另外,部分学者亦将蜀汉列入汉朝的延续而将其归入汉朝的一部分,如此汉朝灭亡则是在263年,但大部分说法均将由刘备建立的蜀汉政权归入三国史中。
两汉时期是当时世界上一个伟大的一段历史,汉高祖至汉文景时期的汉朝,经济实力直线上升,成为东方第一帝国,与西罗马并称两大帝国。中亚和西域各大国也都闻而惧之。而到了汉武帝时期,汉帝国已经成为世界上最强大的帝国,匈奴帝国战败而向北狼狈逃遁。张骞出西域首次开辟了著名的“丝绸之路”,开通了东西方贸易的通道,中国从此成为世界贸易体系的中心,直到一千多年后蒙古人的叛乱。正是因为汉朝的声威远播,外族开始称呼中国人为“汉人”,而汉朝人也乐于这样称呼自己,“汉”从此成为了伟大的中国华夏民族的永远的名字。
汉代起初在汉高祖刘邦时根据五德始终说,定正朔为水德,到汉武帝时,又改正朔为土德,直到王莽建立新朝,方才采用刘向刘歆父子的说法,认为汉朝属于火德。汉光武帝光复汉室之后,正式承认了这种说法,从此确立汉朝正朔为火德,东汉及以后的史书如汉书、三国志等皆采用了这种说法。因此汉朝有时也被称为“炎汉”,又因汉朝皇帝姓刘而称“炎刘”。
汉代为汉高祖刘邦建立的中国第二个大一统的王朝。前期定都长安,又称西汉、前汉;后期定都洛阳,又称东汉、后汉。 西汉是我国封建社会初期的一个强盛、富饶的王朝,它继承和巩固了秦朝开始的统一国家,经济繁荣,国力强盛、人民安乐,呈现出一派太平盛世的景象。在此期间,中国一直以世界强国的面目屹立于世界之林。因此,西汉王朝被视为中国历史上的第一个黄金时期。西汉共传十四帝,前后经历210年。
西汉是中华民族发展史上的一个重要时期,中华各民族的核心汉族就是在这一时期出现的。自秦始皇统一中国后,原战国时各国的文化便相互渗透融合,到西汉时中华地区在典章制度、语言文字、文化教育、风俗习惯多方面都逐渐趋于统一,构成了共同的汉文化。从此中华地区的各族就出现了统一的汉族。汉族和周边各少数族都是汉代中国多民族国家的成员。汉族由于文明程度较高,在中国各兄弟民族中一直处于主导地位,这是历史发展和自然形成的结果。汉以后历代的朝代名称虽有变换,但汉族作为中国主体民族的地位始终未变。
2、西汉
秦朝灭亡以后,项羽和刘邦展开了长达四年的楚汉之争。刘邦在手下萧何、韩信、张良等人的辅助下,在垓下之战打败了西楚霸王项羽,于公元前202年正式称帝,定国号汉,汉朝就此开始。虽然公元前202年刘邦才称帝,但因史学界计算西汉年数时,为了与秦朝灭亡时间相接,则从公元前206年刘邦称“汉王”算起,并以十月为汉高祖元年的首月。
汉高祖刘邦登基后,采用叔孙通的建议,恢复礼法,设三公和九卿,任用萧何为丞相,采取与民休息、清静无为、休养生息的黄老政策。鼓励生产,轻徭薄赋。在政治上,则先分封功臣韩信、陈豨、彭越、英布等为王,等到政权稳固,为了防止反叛和巩固皇权稳定则又以种种罪名取消他们的王爵,或贬或杀,改封刘氏宗亲为王,订立了“非刘氏而王者,天下共击之”的誓言。此时,由于历经多年动乱,国力较弱,而刘邦在攻打匈奴时,曾被匈奴冒顿单于围困于白登,即白登之围事件,从此以后,汉朝采用和亲政策,以婚姻和财宝换取帝国和平,于是,汉朝初期并没有什么战事,百姓得以休养生息。刘邦死后,汉惠帝刘盈继位,但是在此期间,实际是吕后摄政。吕后尊刘邦遗嘱用曹参为丞相,萧规曹随,沿用刘邦的黄老政治的政策,达到了“政不出房户,天下晏然”的效果,为史家所称道,但吕后同时又任用外戚,压制功臣,酿成“诸吕之乱”。
吕后死后,诸吕之乱被以周勃为领袖的大臣铲除,众臣迎立汉文帝刘恒。他和儿子汉景帝即位期间,继续采取黄老无为而治的手段,实行轻徭薄赋、与民休息的政策,恩威并施,恢复了多年战争带来的巨大破坏,使人民负担得到减轻;虽然景帝年间(前154年)发生了此时期唯一的动乱—“七国之乱”,但是仅经历数月即为周亚夫所平定,并未对汉朝带来实质影响。这段时期,匈奴虽然几次入寇中原,但大多数时间里和南越一样,出于相对和平的状态。汉朝方面则不断积蓄国力,透过马复力等措施来积极备战。这一时期史称文景之治,是中国成为大一统时代以来,第一次被传统历史学家称羡的盛世时代。
景帝死后,其子刘彻即位,是为汉武帝。武帝在位期间(前141年-前87年),采取了一系列改革措施,锐意进取,使得汉朝的政治、经济、军事变得更为强大。在政治上,武帝加强皇权,采纳主父偃的建议,施行推恩令,削弱了诸侯王的势力,从此,诸侯王的势力不再能够对中央构成威胁;后又以诸侯献上的黄金成色不纯为由,取消了百余位列侯的爵位,即史书上所称的“酎金失侯”事件。经此二次事件后,中央集权得到了大大的加强。文化上,废除了汉朝以“黄老学说、无为而治”治国的思想,积极治国;并采纳董仲舒的建议,开始重用儒术。尽管武帝时期兼用儒、法、道、阴阳、纵横等各家人才,汉朝也一直“霸王道杂之”,但武帝时期对儒家的采用,使得儒家思想得到重视,并在以后逐渐成为中国历经二千年的主流思想。军事上,积极对付汉朝的最大外患--匈奴。在这期间,汉朝先后出现了卫青、霍去病等天才将领,终于击败匈奴单于,使得“漠南无王庭”。又吞灭南越国,征服朝鲜,使中国成为亚洲第一霸主,世界第一帝国。外交上,两次派张骞出使西域,开辟了丝绸之路。并先后以两位翁主刘细君,刘解忧和亲西域大国,而达到了离间西域和匈奴,进而控制西域的目的。但是,汉朝经历多年战争,加上汉武帝好大喜功,对经济产生巨大冲击,导致汉朝国力衰弱,前朝积蓄被挥霍殆尽。为此,汉武帝晚年曾发表著名的轮台之诏,希望不再穷兵黩武,也使汉朝不至于败亡。为抢救经济,武帝在位期间曾采取一系列政策,将铸币、盐铁收归中央管理,加强农业生产,实行和籴法,开凿白渠,并创立均输、平准政策,稳定物价,与民争利,加强国家在经济中扮演的角色。
汉武帝晚年,发生了著名的“巫蛊之祸”,太子刘据因此被害。武帝死后,年仅八岁的刘弗陵即位,是为昭帝。汉昭帝登基之初,由上官桀、金日磾和霍光三人共同辅政。但是在元凤元年(前80年),爆发元凤政变,聪明的汉昭帝清醒的诛杀了上官桀等一批阴谋权臣,避免了霍光被怨杀。霍光从此辅佐汉昭帝治国。昭帝时期遵循武帝晚年的政策,对内继续休养生息,以至于百姓安居乐业,四海清平。昭帝死后,武帝孙昌邑王刘贺即位。他行为放纵,密谋除掉霍光,但反被霍光废掉。之后霍光又迎立刘病己即位,是为汉宣帝。本始元年(前73年),霍光还政于宣帝。地节二年,霍光去世。但霍氏一门逐渐腐败黑暗。宣帝将腐败的霍氏集团一网打尽。宣帝治国摒弃不切实际的儒学,采取道法结合的治国方针,在整顿吏治上沿用昭帝时期,劝民农桑,抑制兼并,降低豪强在国家中的角色。经过了昭宣二帝的休养生息国家经济明显恢复,使汉朝再度迎来了盛世,这就是著名的昭宣中兴。
宣帝死后,汉元帝即位,西汉开始走向衰败。元帝柔仁好儒,导致皇权旁落,外戚与宦官势力兴起。他死后,汉成帝刘骜即位。成帝好女色,先后宠爱许皇后、班婕妤和赵氏姐妹(赵飞燕、赵合德),由于赵氏姐妹不能生育,成帝与其他妃嫔的子女均为赵飞燕姐妹残害杀死,史称“燕啄皇孙”。由于“酒色侵骨”,成帝最后竟死在温柔乡之中。成帝不理朝政,为外戚王氏集团的兴起提供了条件,皇太后王政君权力急剧膨胀。成帝死后,由定陶王之子刘欣即位,是为汉哀帝。哀帝有“断袖之癖”,终日与他宠信的对象董贤厮混玩耍不理朝政。外戚王氏的权力进一步膨胀。国家已经呈现一片末世之象,民间“再受命”说法四起。元寿二年八月,哀帝去世。太皇太后王政君派王莽接替董贤成为大司马,并迎接中山王刘衎即位,是为汉平帝。但是,刘衎已经沦为王莽的傀儡。五年后,王莽毒死仅14岁的平帝,并迎立太子刘婴即位,自己担任“假皇帝”。公元8年,王莽逼迫孺子婴退位,建立新朝,西汉灭亡。
3、东汉
公元23年,腐败的王莽政权在赤眉、绿林民变下终于灭亡。绿林军拥立汉宗室刘玄作皇帝,恢复汉的国号,年号更始。25年赤眉军立刘盆子为帝,随后击败了绿林军。其后,原本服从更始帝的汉朝宗室刘秀在鄗县(今河北高邑东南)之南即皇帝位,灭刘盆子,是为光武帝,沿用汉的国号,以这一年为建武元年,定都洛阳,史称东汉。即位后,于37年终于消灭赤眉、隗嚣、公孙述等割据势力,实现全国统一。汉光武帝废除王莽时的弊政,社会安定,加强中央集权,对外戚严加限制,史称光武中兴。
汉明帝和汉章帝在位期间,东汉进入全盛时期,号为“明章之治”。期间,于章和二年(公元88年)十月,车骑将军窦宪领军出塞,击破北匈奴,登燕然山,令班固作铭,刻石颂功,从此基本扫除了数百年来匈奴对汉朝北方边境的威胁。佛教在这时也传入中国。但是,在章帝后期,外戚窦氏日益跋扈,为东汉的衰落埋下伏笔。
88年,年仅31岁的汉章帝突然驾崩。年仅十岁的太子刘肇即位,是为汉和帝。但是实际上都是窦太后操纵朝政,国家政治日益腐败。窦氏的跋扈引发和帝的不满,不久,年仅14岁的和帝就抓捕外戚窦宪,外戚势力开始衰弱。但是之后和帝信用宦官,从此东汉的政治沦为外戚和宦官两股势力的争斗。不过,和帝仍然在政事上非常勤奋,不失为英明之主。元兴元年(105年)冬12月,年仅廿七岁的和帝病逝。出生仅百日的少子刘隆即位,是为殇帝。汉殇帝仅在位8个月就驾崩了。接替即位的是清河王刘庆之子汉安帝刘祜。他即位早期由太后邓绥临朝理政。邓太后勤俭节约,任用贤良,同时对自己家族的势力有所限制,却也对宦官势力纵容。建光元年(121年),邓太后逝世,安帝亲政,将邓氏家族诛杀殆尽。安帝依赖外戚宋氏和阎氏以及宦官的力量。听信奸臣,肆意无忌。朝政昏庸不堪。东汉快速衰败下去。延光四年三月,汉安帝在南巡途中死在叶城。外戚阎氏秘不发丧,拥立汉章帝之孙济北王刘寿之子刘懿,史称汉前少帝,但其在位仅200余日就病死。少帝死后,阎氏家族密谋再立傀儡,但被中常侍孙程击破,阎氏家族被诛杀。孙程迎立济阴王刘保,是为汉顺帝。在顺帝执政早期,宦官势力膨胀,却引发社会各界的反弹。阳嘉元年(132年),贵人梁妠立为皇后,从此梁氏外戚势力开始崛起,梁妠的兄弟梁冀被任命为大将军。汉安二年(143年)八月,顺帝病死,太子刘炳即位,是为冲帝,即位是年仅2岁,由梁太后临朝执政。永嘉元年(145年)正月初六,汉冲帝驾崩,年仅三岁。正月廿五日,梁冀拥立刘缵即位,是为汉质帝。质帝非常聪颖,称梁冀为“跋扈将军”,因此质帝不久就被杀害,年仅八岁。
本初元年闰六月初七日,大将军梁冀拥立汉章帝之孙刘志即位,是为汉桓帝。恒帝年少,因此继续由梁太后临朝执政。桓帝即位之初,梁冀势力几无边界,他残害忠良,公饱私囊,无恶不作。恒帝对他暗中也颇为不满,延熹二年八月初十,恒帝派兵士包围梁宅,梁冀与妻子双双自杀,梁氏外戚势力土崩瓦解。宦官成为新的权力中心。单超、徐璜、具瑗、左悺、唐衡五人被封为县侯;单超食邑两万户,后又封为车骑将军,其他四人各一万户,世称五侯。五侯贪婪放纵,终致在延熹九年引发第一次党锢之祸。永康元年十二月廿八日,汉桓帝驾崩。桓帝没有留下子嗣,由河间王刘开的曾孙刘宏继位,是为汉灵帝。灵帝即位之初,就引发以窦太后、窦武为首的外戚势力和以曹节、王甫为首的宦官势力的激烈权力斗争。永康元年九月初七,宦官发动政变,外戚势力被削弱。宦官则在永康二年(164年)制造第二次党锢之祸。而灵帝本人骄奢淫逸,为填补财政公开卖官职,朝政腐败到了极点。终致在西元184年爆发了由张角所带领的黄巾之乱。虽然不久便平定了此场叛乱,但是汉朝政府经此一役已国力大减。且中央政府为了顺利平叛,又将军政权力下放给各地州官。各地豪强大族从此开始慢慢拥兵自重,加以其原本已具有强大的经济实力,最终演变成东汉末年袁绍、袁术、曹操、孙坚、董卓等众豪强军阀割据一方、群雄逐鹿的局面。汉灵帝死后,董卓掌权,废后汉少帝刘辩为弘农王,改立汉献帝刘协。董卓被吕布诛杀后,军阀割据完全表面化,出现了把持中央的曹操;位于河北的袁绍;位于淮南的袁术;位于江东的孙权;位于荆州的刘表;位于益州的刘璋等势力。其中曹操“挟天子以令诸侯”,以汉朝丞相的名义讨伐各路军阀,在官渡之战中消灭了最大的敌人袁绍军的主力,但同时架空汉室权力,全权代理皇帝处理朝政,汉朝皇帝此时已经是空有名分而无实际了。曹操虽然想以汉朝丞相的名义企图招安但却引起各路诸侯的反抗,认为他是奸臣,不得已曹操只能逼迫汉献帝下诏名正言顺地讨伐各路军阀。前期曹操虽连战得胜却在赤壁之战中被孙刘联军击败,仓皇北逃。三分之势逐渐形成。曹操死后,其子曹丕继承曹操爵位,并于220年曹丕逼迫献帝让位,改国号魏,自称魏文帝,东汉灭亡,汉朝国祚告终,中国进入分裂的三国争霸时代。
4、汉朝疆域与政区
汉朝建立初期,各地叛乱不断,高祖连征叛乱而无暇顾及边防。河南地复为匈奴所有。南越,闽越,黔中地区趁机与汉朝脱离,后来文帝派人说服南越王和各国归顺,又恢复了一统的局面。但不久南越就因为荆州两湘地方不肯开关通商而肆起发动进攻。此时恰值汉武帝时期,汉朝的文治武功已到极盛,遂彻底剿灭了南越王政权,南越也首次直接归中央管理。西元前127年,卫青北击匈奴,收复河南地、陇西、北地、上郡的北部,置朔方、五原二郡。云中、雁门二郡的北界也向外扩展。西汉的北部疆界至此推到河套,阴山以北。前121年,汉将霍去病出陇西击灭居于河西走廊的匈奴部落,以其地设酒泉郡。后又分割为张掖、敦煌、武威三郡。连同在湟水流域设置的金城郡,合城河西五郡。前138年,东瓯王迫于闽越王的威胁,举国内迁到今江淮流域。前110年,汉朝又灭亡了闽越国。前111年,汉朝平南越,又占有了海南岛,在该地设十郡。在西南地区,汉朝征服了诸国,边界推移到云南哀牢山和高贡黎山。东北地区灭亡了卫满朝鲜,设置了东北四郡。汉帝国的国土已基本成型。而在西域设郡也加强了对西域的控制。
西汉末期,由于帝国的衰落和皇室的动荡,疆域萎缩。东北撤销了真番、临屯二郡。西南地区由七郡变成五郡,并且放弃了海南岛与象郡。王莽篡汉时期已经仅剩秦朝时的疆域,西域各国因为汉帝国的衰落而逐渐脱离管制。东汉王朝末年,中原战乱不断。遂放弃定襄、云中、五原、朔方、上郡、北地六郡。河套、陕北、晋西北、河北北部地方先后放弃。高句丽与林邑两国蚕食东北及南方国土。只有西南地区扩展至大盈江一带。
汉朝初期,刘邦封异姓王七人。但因各地叛乱不断遂而消清大部分异姓王,仅留长沙王吴柄。同时大封同姓诸侯,这些王国“大者或五六郡,连城数十,置百官宫观,谮于天子”。地方王国势力的强大导致中央政府所实际控制的区域萎缩。吕后时期,增加外戚诸侯王。到文帝时期又纷纷铲除,增加刘氏诸侯王。但是地方王国势力的膨胀已经对中央政府构成严重威胁。文帝接受贾谊的建议,用分地的方法削弱诸侯的势力。景帝即位后采纳晁错的建议,直接缩减王国的封地,引发诸侯王的强烈反弹,导致吴楚七国之乱爆发,但未几就宣告失败。景帝借此缩小各王国的辖地。武帝时期则采纳主父偃的建议,推行推恩令,规定诸侯王位由嫡子即位,而余子皆分一县或一乡的土地。因此王国不断缩小,汉郡不断扩大,加上边郡的开扩,汉朝中央政府对地方的控制力日益加强。同时,政府将大量面积较大郡予以分割。到平帝元始二年,共有郡国103个,辖县、侯国、邑、道等县级政区1587个。
州作为行政区划,在西汉时期萌芽发展,到东汉宣告形成。自元封五年(西元前106年),始在郡之上又设了十三行部,每部派一刺史,每个行部管辖若干郡(国)。但此时的行部是监察区,还不是真正意义上的行政区。东汉末年,地方多事。中平五年,朝廷选重臣出任刺史,称州牧,掌一州军民。州从监察区变为行政区。至此,中国地方行政由原本的郡县两级制度变为州郡县三级制。十三个州为:司隶(治雒阳)、徐州(治剡县)、青州(治临淄)、豫州(治谯县)、冀州(治高邑)、并州(治晋阳)、幽州(治蓟县)、兖州(治昌邑)、凉州(治陇县)、益州(治雒县)、荆州(治汉寿)、扬州(治历阳)和交州(治龙编)。兴平元年(194年),又分雍州。则至汉亡,全国有十四州。州从监察区变为行政区。
5、汉朝人口
秦代末年,由于长期战乱,人口下降。西汉初期人口数据估算在1500万—1800万之间。此后由于奉行黄老政治、与民生息,以及汉武帝时期的领土扩张,人口数量大幅提升。根据《汉书》的记载,公元2年西汉的户数为1235.6490万,口数为5767.1401万。
由于中国历史早期农业发展集中在黄河流域,故西汉人口密度分布极不均匀。以淮河、秦岭为界,北方人口约八成,南方人口不足两成。人口数超过500万的司、豫、冀、兖、青、徐五州均位于黄河中下游地带,这五州的人口总数占全国的55%。首都长安周围人口密度达每平方公里1000人左右。人口数量在200万以下的有交、凉、并、朔方四州。扬、荆、益三州的主要人口分布在成都平原、南阳盆地、太湖平原和宁绍平原。
西汉末年,王莽篡汉、烽火遍地,加上自然灾害频发,人口数再次锐减。东汉明帝时,全国人口数量仅3500万左右。后人口开始恢复。永和五年(140年),全国有户969.8630万,口4915.0220万。至157年,全国有户1067.7960万,口5648.6856万。已大致恢复至西汉极盛时期。东汉的人口分布又有变化。中原人口为躲避战火向长江流域迁徙,南方人口升至全国四成。口数超过500万的有豫、荆、扬、益四州。荆益两州的人口都增加了一倍,扬州人口也增加了四分之一。南方人口增长的同时,北方大部分郡国人口减少。之后由于三国时期的战乱,到晋朝初期,全国人口又只有1600万人。
6、政治制度
汉朝实行三公九卿制,宰丞相具有较大的权利。丞相太尉御史大夫称三公,丞相管行政,是文官首长;太尉管军事,是武官首长;御史大夫掌监察,辅助丞相掌管政治事物。而在汉朝,还有一条不成文的规定,即必须做御史大夫后才能做丞相。而在御史大夫之下,还设有御史中丞,掌管宫内事务。九卿则是太常(掌祭祀鬼神)、光禄勋(掌门房)、卫尉(掌卫兵)、太仆(掌车马)、延尉(掌法律)、大鸿胪(掌礼宾)、宗正(掌皇帝族谱)、大司农(掌全国经济)、少府(掌皇室财政)。汉武帝时期,为了巩固皇权,皇权开始大幅膨胀,尚书令的地位大幅抬升。汉武帝将身边重臣如严安、主父偃、朱买臣等为郎加以侍中,与尚书令共议军国大事,组成中朝。原以丞相为首的三公九卿组成外朝。汉朝的选举制度是察举制,以地方推荐为主,考试为辅,考试与推荐相辅而行。推荐过后是还要经过考试覆核;覆核合格后才能量才录用。无论是特举贤良方正,还是岁举孝廉、茂才,均须经过中央覆试。武帝时期设置大学,是中国古代第一所学校,专门培养才学之士 。东汉时期,为纠正察举荐人之滥,开始注重考试,形成察举与考试相结合的选士制度,而且考试成份日益增加。在推荐基础上加强考试,这是汉代察举制发展的新趋势。荐举为主,考试为辅,是两汉察举制的基本特点,也就是说你举荐个人,我还要看看他有什么本事。汉朝早期实行征兵制度,男子廿三岁起至五十六岁之间,服役两年。一年包围京师,名为正卒;另一年戍守边郡,叫做戍卒。正卒分为两支,一支为南军,守卫宫城,另一支为北军,保卫首都其他地区。
汉代军职:伍长-什长-都伯-百人将-牙门将、骑督、部曲督等-别部司马(军司马)-都尉(骑都尉)-校尉(但五校几乎成清贵武职,偏文)-中郎将(五官、左、右、虎贲中郎将类同五校)-裨将军-偏将军-杂号将军(裨将军、偏将军应该就是杂号将军之末,但与其它两字将军地位有别)-四征、四镇、前后左右将军-卫将军-骠骑、车骑将军-大将军
7、汉朝经济
汉朝的土地所有制与秦朝相同,土地私有,并可自由买卖。土地所有者须向国家耕地税,耕地税率为亩产的十五分之一或三十分之一。人口税分为算赋和口赋。算赋是丁税,十五至五十六岁的男女每年每人纳一百二十钱(一算)。口赋是儿童税,七至十四岁的儿童每年每人纳廿钱。西汉早期奉行重农抑商政策,虽然恢复了农业生产,但经济势力让然略显不足,而商人地位低下。文景时期,在晁错的建议下,改行贵粟政策,国家存粮进一步大涨,经济实力也因而爆棚,商人的地位也有一定幅度的提高。
汉元帝时期,土地集中日益严重,自耕农大量破产,沦为佃农。豪强庄园势力日益强大。东汉后期,这一现象更甚,地主庄园势力的膨胀,亦间接导致了三国局面的形成。汉朝时期,铁农具的牛耕是最重要的生产工具,最重要的犁地法是二牛抬杠。一些新式耕田法,如代田法、区田法相继诞生。国家注重兴修水利,尤以关中地区为最。著名的水渠有成国渠、六辅渠、白渠等。东汉时期,出现了翻车和渴乌等水利工具,增加了农业生产效率。
西汉早期,冶铁业分国营(中央政府)、官营(地方经营)和民营三种类型。当时著名冶铁家有卓王孙、南阳孔氏等。汉武帝于元狩三年收冶铁为国营,对国家财政较有利,但民间却鲜有私人冶铁业了。之后一直没有改变此政策。到了东汉,冶铁业由社会自营,加上水排的发明,冶铁业更加发达。汉朝的纺织业亦有国营与民营之分,民间著名纺织业者有陈宝光等。到东汉时期,蚕桑养殖在长江流域和岭南等地开始推广,特别是四川地区。蜀锦更价值连城,在三国时期甚至成为蜀汉一大财源。
西汉早期奉行重农抑商政策,商人地位低下。文帝时期,在贵粟政策下,商人竞买爵位,扩大贸易领域,促进了国家经济的飞速发展,其地位才得以提高。西汉时期,全国已有数个商业中心,如长安、洛阳、邯郸、江陵、吴、寿春、番禺、成都等。丝绸之路是当时世界最重要的商路。伴随著商业的发展,一些经商哲学纷纷出现。到东汉时期,中原地区商道线路发达,各地货物往来更加频繁。
8、科学文化
汉代是中国历史上科技与文化非常辉煌的一个时期。国家也非常重视教育和学识。东汉桓帝时,仅太学生就号称有3万人。
在史学方面,司马迁的《史记》是中国第一部纪传体通史,也是二十四史中的第一部,为以后两千年正史的编纂提供规范。全书分为十二本纪、十表、八书、卅世家、七十列传,共一百卅篇,五十二万六千五百字。班固所编写的《汉书》分为十二纪、八表、十志、七十列传。全书体例仿效《史记》,惟改“书”为“纪”,废“世家”入“列传”,还开创了刑法、五行、地理、天文、艺文四志和《百官公卿表》。《汉书》是中国历史上第一部内容完整的断代史。更是成为了以后历代王朝撰写本朝历史的范本。而两汉时期其他的史书还有《东观汉书》、《汉纪》和《吴越春秋》等。很多西方学者认为,汉代的作家所开创的史学标准,直到18世纪都一直领先于世界。
汉代在立国时用无为而治之法,文景时期,又用道家黄老思想为主,并辅以儒家和法家思想为法制指导思想,不仅强调无为,还注重礼与德的作用,既承认法律的重要性,又坚持约法省简,务在安民。 而从汉武帝之后,统治者又确立儒家思想成为了正统思想,并辅之以法家思想为法制指导思想,其中心是“德主刑辅”,即先用德礼教化,教化无效再施之以刑罚。这种刚柔相济的治国之道,成为汉武帝以后汉王朝法制的指导思想。这一思想对后世历代王朝的立法影响很大。汉宣帝曾有名言:“汉家自有制度,本以霸王道杂之。”便是这种思想的精辟阐述。由于秦始皇焚书坑儒所毁坏的很多文献书籍,通过汉代学者的不懈努力和发掘记录得以重现,包括五经当中的古文尚书,也是这时候发掘整理出来的。汉武帝采纳董仲舒的意见“罢黜百家,独尊儒术”后,经学成为学术主流。由于不同学者对经书的理解与记忆都有偏差,学术也被分为不同流派。宣帝时期,在太学中立学官的,《易》有三家,《书》有三家,《诗》有三家,《礼》有一家,《春秋》有两家,共十二博士。东汉初年,增加到十四博士。到东汉晚期,古文经学走向发达,今文经学日益衰微。
汉政府设立乐府,搜集民间诗歌,即为乐府诗,后世的《乐府诗集》《古诗十九首》《玉台新咏》中便搜集了不少汉代乐府诗,长篇叙事诗《孔雀东南飞》也是写成于汉代末年。赋是一种新的文学体裁,司马相如的《子虚赋》、《上林赋》,张衡的《二京赋》等均为千古传颂的文学名篇。汉代时期,隶书亦渐渐取代小篆成为主要书写字体,而隶书的出现则奠定了现代汉字字形结构的基础,成为古今文字的分水岭。这一时期,还出现了标点符号的雏形。
在科技方面,西汉时期已经开始使用丝絮和麻造纸,是纸的远祖,而东汉时的蔡伦改进了造纸术,形成了现代意义上的纸。造纸术成为中国的四大发明之一。东汉张衡制成了世界上第一台能够预报地震的候风地动仪。落下闳等人制定的《太初历》第一次将二十四节气订入历法。张仲景因《伤寒杂病论》而被尊为中华“医圣”、中医之祖。而史书记载华佗更是世界上最早采用全身麻醉的医生(其真实性现在受到陈寅恪等的质疑)。公元前一世纪的《周髀算经》及东汉初年的《九章算术》则是数学领域的杰作。其中,《九章算术》是对战国、秦、汉古代社会创立并巩固时期数学发展的总结,列有分数四则运算、今有术(西方称三率法)、开平方与开立方(包括二次方程数值解法)、盈不足术(西方称双设法)、各种面积和体积公式、线性方程组解法、正负数运算的加减法则、勾股形解法(特别是勾股定理和求勾股数的方法)等筹算方法,形成了一个以筹算为中心、与古希腊数学完全不同的独立体系。 汉代也是中国最早发明瓷器烧造的时代。这个时期还发明了蒸馏法、水力磨坊、现代马轭和肚带的原型、漆器、用于冶金的往复式活塞风箱、出现于汉末的独轮车、水车和吊桥。造船已经采用了防水隔舱、多重桅和船尾柱舵,并且开始使用罗盘。此外,血液循环也是首先在此时发现。两汉时期,中国的冶炼技术也有长足的发展和进步,铸钱技术成熟,如三铢钱、五铢钱等。彩绘工艺独特,如马王堆所出土的帛书彩绘,各种生活用品齐全,如有“汉代魔镜”之称的铜镜,煮盐技术也不断提高,两汉出现了蒸馏酒,酿酒水平臻于完美。农业技术大幅度提高,东汉早期出现了水排等新式灌溉工具。
汉朝也是中国宗教的勃兴期。佛教在汉明帝时期传入中国,白马寺是中国第一间佛寺。道教也是在东汉时期宣告形成的。东汉末年,道教分为两大流派,一支为太平道;另外一支为天师道,亦称为五斗米道(张道陵创五斗米道),而五斗米道内部还有一个大支派,以于吉为教主,在长江下游地区传播。
9、汉朝外交
西元前三世纪,匈奴被冒顿单于统治,国力非常强大,多次侵犯汉朝边境。西元前200年冬,刘邦亲率大军北上,匈奴军队佯装后退,汉军则迅速北进到平城白登山。却在白登被冒顿单于的四十万精锐骑兵包围。刘邦与汉军被包围七天七夜。最后刘邦贿赂匈奴阏氏才得以逃出重围。由于长年战乱,国家初定,经济残破,汉朝采取和亲政策力求与匈奴暂时维持和平。到了景帝时期,汉朝一方面继续和亲,另外也在边境进行屯田移民,在国内则实行复马令来增加马匹,加强士卒训练并大量制造兵器,这些都是预备反抗的准备。汉武帝年间,派以卫青、霍去病为首的将领对匈奴进行三次大规模战争。汉朝占有了河西走廊,切断了匈奴与西羌的关系,为汉朝与西域之间开辟通道,而匈奴则狼狈北徙漠北。汉朝虽一举将匈奴击溃但自身也元气大伤,武帝遂轮台悔过下令休养生息。后来,在汉匈大战中战败的匈奴帝国分裂为五部,其中一部首领呼韩邪单于主动要求与汉和亲,结为亲家。汉元帝以王昭君嫁与呼韩邪单于,是为昭君出塞。到了东汉时期,匈奴又分为两部,分别为南、北匈奴。其中南匈奴立呼韩邪之孙比为单于,与汉朝关系友好。北匈奴立蒲奴为单于,在明帝时期一度侵扰汉朝边境,被击退。章和元年,北匈奴为鲜卑所破,单于被杀,其中五十八部降汉。永元八年,汉车骑将军窦宪等征伐北匈奴余部,单于遁逃,窦宪在燕然山刻石纪功而还。此后,一些北匈奴南降汉朝,另外一些则向西迁徙改变了欧洲历史格局,而欧洲的罗马帝国竟然被逃遁的匈奴残余势力所颠覆!可以说汉朝的这场胜仗实际是间接毁灭了罗马帝国。
西域在汉朝早期是指南疆一带,后来扩展到天山以北和中亚东部。西汉中早期,西域地区为匈奴所控制。汉武帝时期,于建元三年派张骞出使大月氏以联合夹击匈奴。张骞在路上一度被匈奴扣押,并在匈奴娶妻,十余年后逃出,经大宛等国到大月氏,但未能取得夹击匈奴的答复。后来张骞东返,又被匈奴扣押。直到元朔三年才返回长安,回来时只剩他和随从堂邑父三人,他的匈奴妻子也一并来到长安。元狩四年,汉武帝第二次派张骞出使西域,约乌孙共击匈奴。虽然张骞未能说服乌孙国王夹击匈奴,但是张骞却与其使节先后游历了大宛等国,后来亦由各国使节陪同,返回长安,从此以后,汉朝与匈奴反复在西域地区争夺。元封六年,汉武帝以细君公主与乌孙和亲。细君死后,汉又在太初四年以解忧公主续嫁。同年,汉朝大破大宛,西域南道各国都转投汉朝。汉武帝在乌垒设使者校尉,又在渠犁屯田。到宣帝时,汉又驱逐匈奴驻在西域的僮仆都尉,控制西域北道,设立西域都护,总管西域事务。西汉末期,西域各国又因汉朝衰落而脱离汉朝的控制。东汉明帝初年以后,汉朝又恢复了西域的关系,并于永平十六年在乌垒设西域都护,派班超负责西域事务。永元九年,班超派甘英出使大秦。甘英经条支、安息等国,到大秦西界而还。随著西域局势的稳定,商旅往来日益频繁,丝绸之路在汉朝形成。这也是世界历史上最重要的商道之一。
东汉中后期,西羌先后三次进攻汉朝。第一次是在永初元年夏,持续了长达十二年的时间。第二次在119年,战事主要发生在关中地区。直到建康元年才告结束。第三次发生在延熹二年,主要战争在陇西一带进行。汉朝基本以全胜收场。
汉朝初期,与东瓯、闽越、南越等国关系尚友好。后伴随着国力的增强,这三国的越人国家先后被灭。武帝时期,汉朝多次派使节经略西南夷,并在这些地方设立益州等郡。到东汉时期,汉朝与这些地方联系更加紧密。汉朝与朝鲜和日本也有密切联系。东汉光武帝时期,古日本倭奴国王遣使来汉,汉赐一枚“汉倭奴国王”金印,至今是日本的国宝。
10、帝王世系表
汉朝皇帝世系表
西汉 (前206——公元8)附玄汉(公元23——公元25)
⑴ (1)汉高帝刘邦
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⑵ (2)汉惠帝刘盈 (5)汉文帝刘恒
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⑶(3)汉少帝刘恭 (4)汉少帝刘弘 (6)汉景帝刘启
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⑷ (7)汉武帝刘彻 长沙定王刘发
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